第七師団の兵舎に意外な大物が来訪してきた。
その知らせに淀川は目を丸くする。
「なに?網走監獄の典獄が私に会いたいだと?一体何の用だ…?」
部下からの報告に淀川はぎょっとさせ、冷や汗を流す。
脳裏にはあの捕まえたばかりの囚人が浮かんだが、それを部下に見破られないよう装いながら待たせることもできないため、通した部屋へと一人の部下を連れて向かう。
部屋に入ればそこにはスーツを着た男と、頭からマスクをかぶった目と口以外が覆われている謎の男がいた。
二人は座っていたが淀川の姿に立ち上がり、淀川と部下に歩み寄る。
「網走監獄典獄、犬童四郎助です…初めまして」
犬童と名乗った男がそう挨拶をする隣で、その謎の男は『イヌドウ』と絞り出すような声で呟いた。
淀川もその部下も網走監獄の典獄の威圧感よりも、謎の男の気味悪さに押されていた。
「あの…こちらの方は…?」
「網走で看守をやっている杉元です」
「杉元…?」
淀川は杉元と聞き首を傾げジロジロとマスクの男を見る。
不躾な視線ではあるが、どこかで聞いたことがあるようなそぶりを見せる淀川に犬童と杉元という男の視線が交じり合う。
「知っておいでで?」
「いえいえ!ただ杉元と言えばあの不死身の杉元と同じ苗字だと思いましてね」
犬童の問いに淀川はそう言って笑い、犬童と杉元という男は密かに安堵の息を吐く。
杉元、と聞き分かっただろうがこの犬童は鈴川が変装している姿であり、このマスクの男は、水城である。
やはり淀川は覚えていたようで、顔を隠していて正解だったとマスクの奥で水城は息を吐く。
「5年前、家永という凶悪犯によって顔をズタズタに食いちぎられましてね…見た目はこんなですが私の優秀な部下です」
「イヌドウ…」
「はあ…お、お気の毒に…」
水城達は事前に設定を決めていた。
水城自身が白石奪還に名乗り出たため、どうしても顔を隠す必要がある。
しかし変装するにしても水城の顔には隠し切れない大きな傷跡があり、化粧で隠したとしても最悪他の兵が水城の顔を覚えている可能性もある。
水城は軍帽で隠していたとはいえ、顔全体を隠していたわけではなく、第七師団も第一師団とともに戦地に赴いていたのだ。
一人二人は不死身の杉元を知っていても可笑しくはない。
恰好はつかないが、マスクに頼るしかなかった。
丁度仲間にカニバリズムがいたので、それを利用させてもらった。
「それで…今日はどういったご用件で?」
どうやら第一関門を突破しらしく、鈴川が犬童だと信じた淀川は犬童を椅子に案内し、向かい合わせに自分も座る。
その問いに水城は内心安堵の息を吐く。
まだまだ難関だらけだが、まずは最初の難題はクリアできた安堵である。
「白石由竹がこちらにいると聞きました…身柄を網走監獄に返してほしい」
早速本題に入り、事態は順調に進む。
白石の名に淀川は一瞬にして顔色を変えた。
「!?―――白石?そんな男はここにおりませんが…」
だが、やはり認めなかった。
しかし冷や汗や顔色が変化したことからバレバレではある。
「とぼけないで頂きたいッ!」
あえて惚ける淀川に思わず鈴川は怒鳴る。
そんな鈴川に水城は怒りをあらわにしてちょっと後ろへ下がった頭の髪を撫でて直しながら落ち着かせる。
その手に気持ちが落ち着いたのか、鈴川は『ふ〜〜』と息を吐き、鋭い眼光で淀川を攻める。
「私が出張で網走監獄を留守にしている隙を見計らって不法に囚人たちを移送した挙句…全員を逃がしたあなた達第七師団の尻拭いを私はしているのですよ!!聯隊長殿!!」
睨む犬童の言葉に淀川はゴクリと喉を鳴らす。
淀川は鶴見に逆らえない立場から、協力者であって、協力者ではない。
金塊のことは知っている。
だがそれを使って鶴見が何をしているのか、何をしようとしているのか、本心を聞かされていない中で白石を確保していた。
犬童の怒りが自分に向けられていると顔を青くした。
そんな上官をよそに部下が密かに部屋を出て、部屋の外にいる部下に小樽にいる鶴見への連絡を命じた。
「金塊なんぞが本当にあるとお考えか?集団脱獄の方便というのが私どもの見解ですが……第七師団はまんまと引っかかったようですな」
黙り込む淀川に水城が鞄から風呂敷を取り出しテーブルに置いた。
風呂敷を解けば、そこには札束が4束包まれていた。
その札束は軍人の中佐になっても見たことのない大金である。
「こんな大金…どういうつもりですか?このカネで白石由竹を売れとでも?」
そう言うが、目線は大金に向けられていた。
分かりやすい淀川に水城はこれなら争いなく脱出できるかもしれないと思う。
ただ部下が一度部屋を出たことを水城も気づいているため時間はあまりないのだろう。
鈴川は首を振りながらもう一つ…いや、本題であるある物を淀川に見せる。
「いいえ、それは『贋札』です…こっちは原版…天才贋作犯の熊岸長庵から押収したものです」
見せたのは、死んでしまった熊岸が残した贋札の原版である。
板状に描かれているその本物そっくりの原版を鈴川は静かにテーブルに置く。
「アメリカ独立戦争の『大陸紙幣』やナポレオンによる『オーストラリア紙幣』をご存じか?」
鈴川は贋札の重要性を知っている。
鈴川が熊岸を軟禁し贋札を刷らせたのはただ楽して金儲けできるからだが、それ以外にも贋札は活用方法がある。
それが戦争だ。
アメリカやナポレオンの他にもドイツがイギリス経済攪乱を狙うなど各国でも贋札を刷って敵国に撒き、経済に打撃を与えている。
精巧な偽札は国を動かすほどの力を持っているのだ。
「熊岸長庵はどこの国の紙幣だろうが精巧なものを作るでしょう…今後の日本軍にとって有益な人材に違いないと思うが……興味はございませんか?」
「…………」
そう問いながらすっと原版を差し出すように滑らす。
鈴川の言葉に淀川はゴクリと喉を鳴らした。
今、淀川はこちら側に傾いているのが水城でも分かった。
水城は鈴川の後ろに控えながらチラリと鈴川を見る。
その目は胡散臭い詐欺師を見るような視線ではなく、驚愕の視線だった。
(こいつ…最初はしょぼくれた結婚詐欺師かと思ってけど…タダものじゃないわね…鈴川聖弘……もう一押しでこの中佐は落ちる…!!)
水城は無意識に拳を握り締める。
あと少し。
そう、あと少しで白石が戻ってくる。
この詐欺師のおかげで。
「淀川中佐…日露戦争が終わって中佐だった他の聯隊長は次々と『大佐』に昇進しているのに…あなたはいまだに『中佐の聯隊長』だ…冷遇されていると思いませんか?――――これはあなたの手柄だ」
トン、と原版を指で叩く鈴川に淀川はもう周りは見えていなかった。
ドッドッド、と淀川は自身の心臓がすぐ耳元にあるように大きく聞こえた。
中佐だった同期達はほぼ大佐となり、昇進した。
それに対して自分は"ただ一回の失敗"で中佐のままだ。
ずっと理不尽だと思っていた。
グッと膝の上に置いている手を握り締め、淀川は…
「…白石由竹を連れて来い」
そう部下に命じた。
その瞬間、水城は作戦が成功したと内心喜んだ。
だがまだ問題は多い。
成功とは、白石を連れてここから脱出しキロランケ達と合流することを指す。
ここからが本番のようなものだ。
―――暫くすると淀川の部下が白石を連れて部屋に入ってきた。
「…え?なにこれ…」
部屋に入ってきた白石は淀川、犬童…そしてマスクをかぶる怪しい男が部屋で自分を待つという奇妙な光景に思わずそう零した。
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