白石は目の前の光景に首を傾げた。
「どういうこと?」
連行された場所が第七師団ということで殺されて皮をはがされるのを覚悟しつつ脱出する隙を狙っていた白石だったが、突然呼ばれ、着てみればなぜか網走にいるはずの典獄がマスクをかぶった不気味な男を傍に控えさせて待っているではないか。
キョトンとさせた白石は悪くはない。
そんな白石をよそに話は進められた。
「熊岸長庵を連れた部下が待機しています…熊岸と白石の交換は外で行いましょう…網走監獄の一件でこちらとしても疑り深くなってますゆえ…」
白石奪還の取り引きをあちらが受け入れた。
後は金で雇った熊岸の偽物を引き渡し、キロランケ達と合流してこの地をとっとと去れば全て終わる。
鈴川は立ち上がり、鶴見、またはその手の者が来て邪魔される前に白石を脱出させようとした。
白石はそのやり取りを見てピンときた。
(なるほど…よく似てるけどこいつは犬童に化けた偽物だ…そしてこっちの何のつもりかわかんねえのは服を見るに杉元…俺を取り戻しに来たのか…)
安堵半分、焦り半分。
白石にスパイが気づかれ殺されるのが怖くて逃げたのに第七師団に捕まった挙句また水城の手に渡るのかと思うと怖くてたまらない。
だが、このままいても第七師団に皮を剥がされるだけだ。
白石は警備が厳しい軍よりも、あちこち旅のように金塊を探す水城の傍に戻り脱出を試みる道を選んだ。
その前に殺されなければ…の話だが。
しかしその時―――突然部屋の扉が開き、一人の男が入ってきた。
「――――ッ!!」
水城はその男を見た瞬間絶句し、息を呑んだ。
しかし、新たな登場人物というハプニングにその場にいる全員は気づかない。
水城が絶句するほどの人物…それは、
「どうした、鯉登中尉」
鯉登音之進だった。
水城の頭には『なぜ』『どうしてここに』という言葉が入り混じってぐちゃぐちゃとなっていた。
「鶴見中尉が旭川へ到着するまで白石には誰とも接触させるなと指示されているはずですが」
しかし、水城に気づかない鯉登に水城はハッと我に返る。
(そ、そうだった…今…私…顔を隠してるんだっけ…)
水城は自分が今顔を隠していることに気づかなかったほど焦っていた。
鯉登ともう会うこともないだろうと思っていたのに意外な場所で再会(一方的だが)し、水城も混乱していたようである。
気づかれないよう深呼吸し、今は白石を脱出させることに集中する。
「中尉の言いつけを守らんといけないのですかな?淀川中佐」
鈴川の上手い返しに水城は頷く。
この時、心底喋れない設定でよかったと思う。
喋ってしまえばきっと緊張と気づかれる恐怖で声を震わせていただろう。
鈴川の言葉に淀川は立場回復のチャンスを邪魔された腹立たしさを込めながら戻れと命じた。
しかし、鯉登はその命令を無視し…
「犬童様……『ちんちんぬきなっもしたなぁ』」
意味の分からない言葉を犬童に扮した鈴川に向けた。
その言葉にその場にいた全員が怪訝とさせる。
いや…水城はその言葉の意味を理解していた。
(『だんだん暖かくなって来ましたな…?』なんで急に薩摩弁を…音之進は何を考えてるの…?)
先ほどの言葉は薩摩の方言である。
水城は養父母が薩摩の人間で九州に住んでいたため分かったが、突然方言を出す鯉登に怪訝とさせた。
九州人でもない白石達は突然卑猥(ちんちん)を言い出す軍人に困惑していた。
そんな白石達に気づいたのか、説明してやる。
「犬童様が月形におられたとき樺戸監獄に収容されていた薩摩藩の囚人たちと接する機会が多く…薩摩の方言を流暢に使いこなすとお聞きしました」
「鯉登…何のつもりだッ!」
「さっきおいがなんちゅうたかこたえてみっくんやんせ」
その説明に水城は『やられた』と思った。
恐らく、鶴見の命令を受け本物か見極めに来たのだろう。
鶴見のことだから見抜かれてはいるだろうが、本物だという可能性もゼロではない。
そのための確認に鯉登は来たのだ。
鯉登は少将の息子であるため、本人であっても踏み込んだ対応ができる。
水城は鶴見に熱を上げていた鯉登を知っていたのに、鯉登が鶴見の部隊にいるかもしれないと考えつかなかった自身の失態に舌打ちを打ちたくなった。
同時に、厄介であり優秀な部下をまた一人…鶴見は入手したことになる。
水城は理解できるが、鈴川はただ変装しただけの男だ。
九州人ではないようだし水城が助け船を出したいが、下手な動きをすればすぐに気づかれてしまう。
(…仕方ない……もう強行突破するしかないか…)
水城は腹をくくり腰に隠していた拳銃に手を伸ばす。
相手は恋仲だった男。
心から愛し、今も水城の心を掴んで離さない男だ。
だが、水城は撃てる。
ただし殺せはしないが。
無理やりにでも白石を取り戻そうとしたが…
「よがへるとひえっくっもんでな」
水城が鯉登に向けて銃を向けようとしたとき、鈴川が鯉登に返した。
その言葉に水城はハッとさせ鈴川を見つめ、鯉登は目を細める。
鈴川はこう言ったのだ…―――『日が暮れると寒くなるけどな』と。
ニュアンスはやはり九州人ではないため可笑しいが、それでも通じる。
(犬童が薩摩弁に精通しているというのは網走の囚人たちなら知っていたみたいだが…短い時間でしっかり対策してきたのか……天才詐欺師と呼ばれるだけのことはあるわね…)
鈴川が元々薩摩の方言を身に着けていたかは分からないが、表情一つ変えずすぐに対応した鈴川に水城は驚きが隠せなかった。
流石は天才詐欺師と言われているだけあるな、と感心していると続いて再度鯉登が試しに来た。
「あさはてあぶいがいりもすな」
(朝は火鉢がいりますね)
「わがばっかいしぃちょっど」
(独り占めしてます)
「つっきゃげくうたこっがあいもすか?」
(さつま揚げ食べたことありますか?)
「さけのしおけにがっついじゃっど」
(酒のツマミにぴったりだ)
薩摩弁でのやり取りに、聞いていた白石が『何言ってるかさっぱり分からんな…本当に同じ和人の言葉かよ』と零すが、全くその通りである。
水城も幼い頃だったためすぐに覚えたが、今から覚えろと言われたら恐らく幼い頃よりも時間がかかるだろう。
それにその難しさを買われ、薩摩弁は第二次世界大戦中にも日本の情報交換の暗号として使われたことがある。
盗聴していたアメリカがどの国の言語か分からなかったほど、薩摩弁は難しい。
同じ日本人でも日本語に聞こえない彼らの腹の探り合いはすぐに終わりを告げた。
「じゅじょなのんごろじゃっどきっもした」
薩摩弁のやりとりは続き、鯉登は一つ、鈴川に問う。
その問いに鈴川はこう答えた。
「いまごっはよおなりもした」
――と。
その瞬間、鯉登は鈴川と水城に向けて発砲した。
銃声が響く中、水城は左胸を撃たれ反動で壁に背中をぶつけ、力なく座り込む。
その際マスクがめくれ口元があらわになる。
白石は驚き傍に置かれていた長椅子に転がるように座り、鈴川は床に倒れる。
鈴川は頭を撃たれ、その穴が開いた額からは血がピューピュー吹き出し、床を血で汚す。
「鶴見中尉の情報では犬童四郎助は下戸だ」
すでに事切れた鈴川を冷たく見下ろしながらそう種明かしをした。
鯉登が問いかけたのは、『相当な飲兵衛だと聞きました』
それに対して鈴川は『近頃は弱くなりました』と答えた。
しかし、それは鯉登の罠だった。
鶴見からの情報では、犬童は下戸…つまりは酒が飲めない、または飲む量が少ない人の事を指す。
(やられた…!流石に下戸だとは知らなかったか…)
水城は痛みに息を荒らしながらチラリと死んだ鈴川を見る。
鈴川は流石に下戸だという情報は得る事が出来なかったのか、そのたった一つのミスによって鈴川は命を奪われてしまった。
鶴見の情報というのなら確かなものだろう。
水城はギリッと歯を噛みしめ、鯉登に顔を見られないようにズレたマスクを少し直し体に走る痛みに荒れる息を整える。
「舐め腐りおって…!こいつなんてさっさと皮にしてしまえばよかったんだ!!」
「白石は殺さないでください!!鶴見中尉に叱られてしまう!私がッ!!」
騙されたと今更気づいた淀川は落ちていた銃を取り白石に銃口を向けた。
それに気づき白石が慌てた様子で『ちょっと待って!』と言っても怒りで頭に血を登らせている淀川には聞こえていない。
それに焦っているのは何も白石本人だけではなく、鯉登も焦っていた。
白石を鶴見は生かして引き渡す予定だったため、せっかく憧れている上官に任された仕事を失敗し失望させたくはない。
鯉登が引き留めるよりも淀川が引き金を引いた方が早かった。
誰もが白石が撃たれて死ぬのだと思ったが…水城が白石を庇った。
「ぅ、―――ッ」
「杉元ッ!!」
しかしその代償としてもう肩に銃弾を受けてしまい水城は痛みに小さく声を零す。
偽物の犬童ばかり気がいき、マスクの男に気づかなかった鯉登は目の前に現れ白石を庇う男に目を丸くし驚く。
その男…水城は鯉登がいるせいでマスクを外せず、口元だけあらわにしていた。
水城は次の行動を鯉登がする前に白石の服を掴み、そのまま窓を突き破って逃げる。
気合を入れるため『私は不死身の杉元だ!』と叫びかけたが、鯉登がいるため下手に声を出せなかった。
「追え!!」
鯉登の命令に部下が水城と白石が落ちた窓から飛び降りようとした。
だが、それを外でもしもの時に備え構えていた尾形に撃たれ邪魔されてしまう。
狙撃がいるのなら下手に窓には近づけず、鯉登はそのまま部屋を出ていった。
「くそ…!マスクが破れた…!」
水城が庇い何とか白石も怪我なく着地できた。
とはいえ二階から落ちたので体中痛みが走ったが、それでも血が出るような怪我はない。
水城の苛立った声にそちらに目をやる。
落ちたとき木やガラスの破片で破れたマスクを投げ捨てる水城が見えた。
水城はチラリと白石を見て大した怪我がないことを確認すると辺りを警戒する。
「こっちよ白石!!キロランケ達が馬を待機させてるから!!」
「す、杉元お前…大丈夫かよ…!」
「いいから!とにかく走って!!」
白石は水城の肩と胸元からの血で服を汚れているのを見て流石に心配そうに声をかける。
だが今はそれどころではなく、とにかく走ってキロランケ達と合流することを最優先とさせる。
もうこうなったら逃げる一択だ。
だが、怪我を負って血を出しすぎている水城の体力はそれほどあるわけがなく、何とか白石に支えられて走れている状態だった。
「水城!こっちはダメだ!南へ逃げろ!あっちだ!!」
途中、尾形とも合流し、尾形が銃声で近くの兵舎からも軍人たちが出てきたことを水城達に知らせ、尾形の先導で南へ向かって走る。
「杉元が撃たれちまった!!」
「不死身なんだろ?死ぬ気で走れ!」
「無理だ!!こんな傷の杉元が走り続けられるわけねえ!!」
白石も遠目から軍人たちの数が増えていくのが分かった。
逃げ出さなければという気持ちもある一方、腕を引っ張って走らせている水城の息切れが尋常ではないことに気づく。
尾形の言葉に白石は無理だと答える。
いくら不死身だとしても、水城は人間だ。
出血が続けば死ぬし、急所を撃たれても死ぬ。
ただ回復力や運が他の人間よりも強いだけの人間だ。
とはいえ尾形の言い分も分かる。
今この場所から逃げ出さなければ水城どころか白石も尾形も死ぬ。
気遣う白石に腕を引っ張られながら水城は息も絶え絶えに白石に言う。
「私の…足が止まったら……白石ッ…あんたがアシリパさんを網走監獄まで…ッ」
尾形に聞こえないよう小声だったが、白石には聞こえた。
しかし白石は頷きもせず、返事もなく、ただただ水城を神妙な顔つきで見つめ何か言いかけた口を閉ざした。
その時、白石達の目の前に驚く光景が飛び込んできた。
「何だありゃあ!!」
それは巨大な風船の船のようなものだった。
水城も見たこともない大きさのそれに口をあんぐりと開け唖然と見上げていた。
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