命綱なしに落ちた鯉登は…木に引っかかり無事だった。
しかし機嫌はすこぶる悪い。
むすっとさせながら鯉登は胸ポケットに一枚の写真を取り出した。
それは鶴見のプロマイドと呼ばれるものだった。
麗しい憧れの男性の姿を見つめながら鯉登は悔しさにグッと唇を噛む。
「鶴見中尉どんにがられる…」
はあ、と今回の失態に鯉登は重い溜息を吐く。
やっと鶴見の下で仕事ができる年齢となり張り切っていたのに、邪魔をされたとはいえ失敗した。
それは鶴見に失望されるのもあるが、何より少将である父の顔に泥を塗ったも同然だ。
ボンボンではあるが、軍人だからこその厳しさもある。
「……………」
鶴見の写真を見て心を落ち着かせていた鯉登は、冷静になりふと気になることを思い出す。
それは杉元と呼ばれた男のことだ。
白石に蹴り落とされたとき…懐かしい声が聞こえた気がした。
それは懐かしく、そして愛しい…もう聞きたくても聞けないはずの声だった。
(まさか…な)
ありえない、と自分の仮定を否定する。
そんなはずはないのだ。
その声の主はもういないのだから。
遠くへ行ったのではなく、死んだのだ。
(死んだ人間が蘇るとでもいうのか?…そんな外国の夢物語じゃあるまいし…)
ゾンビ、という話をどこかで聞いたことがある。
死んだ人間が生き返ったように動き生者を食らう伝承や物語が外の世界では伝わっているらしい。
それがもし真実なら鯉登はもう一度彼女に会いたいと思う。
例え彼女が彼女でなくなり、ただの人を食らうだけの化け物になろうと…鯉登は彼女になら食べられてもいいとさえ思う。
しかしそのゾンビという存在は体が腐りその容姿は不気味で醜いのだという。
あの美しい顔を醜くさせてまで蘇らせるのは少女にとって喜ばしい事なのだろうかと思った。
愛した男を食べてまで会いたいとあの少女は思うのだろうか。
まあこれは現実の話ではなく、フィクション…物語での話だ。
死んだ人間は戻らない。
それを鯉登は幼くして大切な人を亡くして理解した。
だが…
(誰があれを雪乃と信じられるのだろうか…あんな…性別さえも分からなくなったあの遺体を…)
少女が…恋人であった雪乃が死んだという確たる証拠がないのも事実だ。
雪乃は重なった不幸で心を病み、吉平が別荘へ移した。
静かなところなら落ち着いて療養できるだろうという吉平の配慮らしい。
だが雪乃はそんな義兄の気遣いをあざ笑うように自ら体に火をつけ、焼け死んだ。
そう鯉登は聞いている。
全て鯉登がいない間に行われた事だ。
事後報告に当然鯉登は腹を立てた。
しかも母である静子でさえ後で聞かされたと言うではないか。
まだ雪乃が回復したのなら、許せただろう。
しかし、雪乃は回復どころか自害をした。
愛した女は自分の知らないところで、死んだのだ。
雪乃が自害したと聞かされた時、腹立たしいなんて言葉が生ぬるいほどの激しい感情が渦巻いた。
(確かに遺品は雪乃の物だった…だが、物などいくらでも同じものを用意できるしあの男なら雪乃の部屋から持っていくのも容易いだろう…)
焼死体の遺体で顔での判別は不能だ。
現代ではDNAがあるが、この時代そんな高度な技術まだない。
そのためどうしても遺品から判別するしかなかった。
鯉登はプロマイドを入れていた胸ポケットからもう一つ、ある物を取り出す。
それは押し花だった。
珍しい四つ葉のクローバー。
四つの葉をもったクローバーは珍しく、偶然見つけたため別荘で療養している雪乃に贈ろうとしたのだ。
だが、その当日…雪乃は焼死体で見つかったと連絡があり、鯉登はこのクローバーを押し花にして大切にしていた。
死んだ後あちらで待っているであろう雪乃に渡すために。
いつどこで死んでもいいように鯉登は胸ポケットに入れて常に持ち歩いていた。
しかし、鯉登は心のどこかで雪乃は生きているのではないかとも思っていた。
(死んだ証拠もなく…生きている証拠もなし……私も相当しつこい男だな…)
遺体はちゃんと見つかってすでに埋葬しているのに、ずっと雪乃は生きていると心のどこかでそう願い引きずっている。
そんな自分に鯉登は嘲笑を浮かべた。
父にも母にもいい加減雪乃の事は忘れろと言われてきた。
雪乃もお前が自分の死をいつまでも引きずって生きていると知ると悲しむだろう、と。
そのため何度両親から見合いを勧められたか分からない。
その度に鯉登は見合いをボイコットしたり、断ったり、わざと台無しにしたりと、女性との交友すら拒んできた。
もしも本当に雪乃が死んだとして、あちらで雪乃が見ているかもしれないと思うとどうしてもその気すら起きなかった。
生きていたとしても、雪乃以外の女に触れたと知られ愛想を尽かされるのが嫌だった。
雪乃は優しい女だから許してくれるだろう。
だけど雪乃以外の女に目移りする事を鯉登は自分自身、許せないのだ。
友人曰く、それは現実逃避だという。
死んだ事を認めたくなくて、生きていると思いたい…自分勝手な解釈だと。
怒りを覚えたが、同時に納得もしていた。
本当に雪乃を心から愛していたのだ。
ずっと雪乃だけを想い、雪乃だけしか見ていなかった。
友人達も両親も叔母も…いつか雪乃以外に愛せる女性が現れると言ったが、今のところ雪乃の他に愛せる女など会ったことがない。
(全て雪乃に劣る女ばかりだ……なぜ父も母も雪乃以上の女がいると思っているのか…それだけは理解に苦しむ…)
雪乃の養母である静子も鯉登に父と母と同じことを言っていた。
『雪乃さんの事を想ってくれるのは嬉しい…でもいつまでも娘に囚われないで…音之進さんには音之進さんの人生があるのだから』、と涙ながらにそう言った叔母に鯉登は初めて怒りと呆れを感じた。
なぜ、あの黒焦げが雪乃だと思えるのか。
なぜ、そう簡単に娘の死を受け入れるのか。
なぜ…愛した者を早々に忘れることを許すのか。
鯉登には分からなかった。
分かりたくなかった。
(しかし…雪乃の情報はあの鶴見中尉殿ほどのお方でも掴めなかった…)
情報将校である鶴見も鯉登の想いを汲んで色々手を回してくれていたが、それでも雪乃が生きている証拠は欠片も見つからなかった。
本当ならそこで雪乃は死んだと受け入れるべきなのだろう。
雪乃以外に愛せる女性が現れるかはともかくとして、愛した女の死を受け入れ、愛した女を想い生きる人生だってある。
だが、そう思えないのだ。
(あいつが…吉平が関わっている以上…信じられるわけがない)
川畑吉平。
この男とは雪乃の事で一悶着あり、鯉登は従兄であるが強い敵対心を持っている。
それに加えて憧れている鶴見と敵対関係にあったというのだから嫌う要素は更に深くなっていく。
しかし頭の良さだけは認めてはいる。
頭が良い分、鯉登はどうしてもあの吉平が黙って雪乃の自殺を許したとは思えなかった。
その確証はなく、ただの想像であり、もしかしたらそう思うことで雪乃が生きていると思いたいのかもしれない。
そうだとしても、鯉登は吉平に対する信頼はゼロどころかマイナスである。
吉平の死は叔母は勿論、父も母も深く悲しんだ。
だが、鯉登は吉平の死に何も思わなかった。
死んで清々したとも、憎き相手が死んだ喜びも、何も感じず、燃えた一部しか帰国できなかった従兄の骨を前に無感情だった。
従兄を思い出すのと同時に鯉登は一人の男を脳裏に過らせた。
「不死身の杉元…」
その男とは先ほど対峙していた杉元という男だ。
顔は軍帽であまりはっきり分からなかったが顎のラインや、手が男とは思えないほど女性的だった。
それもあるかは分からないが、微かに聞こえた彼の声もまた女性的だった。
彼の声が雪乃に似ていたのか、それとも雪乃を求めすぎてそう思おうと脳が錯覚したかは分からない。
だがあの軍帽を取り身なりを整えればさぞ優男なのだろうという印象ではある。
手の小ささから恐らく着膨れしているのだろう。
華奢であろうその体にはさぞ鮮やかな着物が似合う男なのだろう。
(確かあの男はあいつの腹心だったと鶴見中尉殿から聞いたことがある…)
鶴見から杉元というあの男は"あいつ"…川畑吉平の部下であり腹心だったと聞いている。
吉平の部下というだけで鯉登の杉元への印象は最悪となっていた。
鯉登は吉平に対して嫌悪とも思える感情を持っている。
そのため、その部下達も鯉登の嫌悪への対象であった。
それが腹心となれば…吉平が可愛がっていたとなればなおのことだ。
更には不死身と呼ばれ鶴見に目をかけてもらい、恐れ多くも鶴見自身から勧誘されたというのにあの男は鶴見の勧誘を蹴ったというではないか。
それはすなわち、鶴見よりも吉平を選んだということだ。
鶴見よりも吉平の方が優秀だと思っているというのだろう。
そして飼い主を見つけず今もなおフラフラとしている。
鯉登はますますあの男が気に入らなかった。
元吉平の部下だったのならきっと鶴見の部下となり同僚となろうとも、仲が深まるどころか鯉登の一方的な敵対心と嫉妬心によって溝だけが深まっていただろう。
しかし、鯉登はふと思う。
(あいつの腹心だったなら…もしかしたら何か知っているのかもしれない……雪乃の手掛かりを…あの男はもしかしたら…)
鶴見曰く、あの男は桔平に溺愛されているレベルで寵愛されていたらしい。
男同士のそれを鯉登は知っているが自分は興味はない。
自分の中には今もなお愛した女だけがいるのだ。
性欲を持て余そうと、一時の感情で男であろうと女であろうと抱く気は起きなかった。
しかし吉平は男も女もいける口らしく、傷だらけの男を愛でる趣味があったらしい。
だが、それは鯉登にとって好都合だったのかもしれない。
あの男が吉平の情人だったとしても、ただの腹心だったとしても、何かしら雪乃の事を吉平から聞いているかもしれないと鯉登は考える。
聞いていなくても、可能性が1つでもあるのなら問い質す価値は十分にある。
残念なことは、気に入らない相手だが鶴見がご所望ゆえ壊せない事だろうか。
しかしあんな男でも鶴見が喜んでくれるのなら、それだけでも生かす価値はあるかもしれない。
「不死身の杉元…次は容赦はせん」
鶴見に気に入られているという嫉妬心、そして雪乃の手掛かりかもしれない相手が逃げた焦りから鯉登は彼らが逃げた方向の空を睨むように見上げ、グッと拳を握り締めた。
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