既に日も落ち、薄暗い一室。
そこに雪乃はいた。
目の前には布団に包まれている鯉登の姿があり、雪乃は溜息をつく。
「もう…飲めないのに無理しちゃって…」
鯉登の鼻をつまみ心配させた罰を与えた。
鼻呼吸ができないからか魘されるように顔を顰めた鯉登に雪乃はくすりと笑みを浮かべ手を放してやる。
――あれから時間が経ち、日も落ちていた。
しかし、宴会という名の新年の集まりは日が落ちてもまだ続いていた。
鯉登はあの後潰れてしまい、別の部屋に移した。
この部屋は宴会場からは遠いのだが、静まり返っているため楽しそうな声はこの場所からも聞こえていた。
「雪乃、音之進くんはどうだい」
母達に言われ雪乃は介抱役として名指しされ、この場所にいるのだが、名指ししなくても雪乃はきっとここにいただろう。
宴会場にいても面白くないというのもあるが、鯉登が心配だった。
鯉登は寝ており起きているのは雪乃だけ。
その場には痛いくらいの沈黙が落ちていたが、襖が開く音ともに兄の声がし雪乃は振り返る。
そこにはやはり次兄である吉平が立っていた。
「代わるからお前は母さん達のところに行っていなさい」
「でもお母様や叔母様から言い付けられていますから…」
「…男はね、好いた女性の前ではいい恰好をしたい生き物なんだよ雪乃…音之進くんを想うのであればお前はここにいない方がいい」
雪乃は目を丸くした。
吉平の『好いた女性』という言葉に雪乃は驚いた。
今まで吉平と話す事はあれど、恋愛の話はした事はなく気づかれていたことに驚いていた。
それを察してか吉平は苦笑いを浮かべる。
「お前達は分かりやすいからね…お互いを好いているのに中々恋仲にはなれない…お前達のやり取りはいじらしくて切なくて…まるで純愛小説のようだ…」
父でさえお互いの気持ちに気付いたのだから兄である自分が気づかないわけがない。
雪乃と鯉登のやり取りはまるで少女が好む純愛小説のようだった。
じれったくて切なく、そして微笑ましい。
吉平の言葉に気恥ずかしくなり雪乃は俯いた。
その頬は赤く染まっており、妹でなければきっと男心をくすぐられていただろう。
雪乃は再度吉平に交代するよう言われ、渋々兄と交代した。
後ろ髪を引かれる思いの雪乃を吉平は見送り、静かに襖を閉め雪乃が座っていた場所に腰を落とし鯉登を見下ろす。
「………」
静まり返っている中、遠くからのどんちゃん騒ぎの音を聞きながら吉平は目を閉じた。
◇◇◇◇◇◇◇
鯉登は意識が浮上し目を覚まさす。
まだ頭がぼんやりとしており見慣れない天井に首を傾げながら呆けていると『起きたのかい』と男の声が聞こえ、そちらに視線だけを送る。
そこには雪乃の義兄、吉平がいた。
「…ここは…」
「お爺様の屋敷だよ…覚えてないのかい?君は酒を飲み過ぎて倒れたんだ」
吉平の言葉に忘れていた記憶を思い出した。
『あー…』と自分の失態を思い出し仰向けのまま顔に腕を置く。
「水飲めるかな?」
「ん」
吉平の言葉に頷きのそりと体を起こす。
まだ酒が残っているかもしれないと思ったが、流石若いだけあって毒素の排出も早く酒は残っている様子はなかった。
それか、薩摩の血が流れているだけあって酒が強いのかもしれない。
差し出された水を飲むと気分も少しは緩和されたのか顔色が良くなり表情もどこか穏やかになる。
「雪乃は…」
「音之進くん、頼みがあるんだ」
実は目を覚ましたら雪乃がいないかな、と思った。
しかし目を覚ましてみたら川畑は川畑だが次男坊だった事に内心落胆した。
つい気になって雪乃の事を問おうとしたが、それを遮るように吉平が声をかけた。
…否、遮るように、ではなく…完全に鯉登の言葉を吉平は遮った。
吉平の言葉に鯉登は視線を吉平に向ける。
吉平は真剣な表情で鯉登を見つめていた。
そして…
「もう雪乃には関わらないでほしい」
そう言った。
その場は静まり返り、鯉登は数かい目を瞬かせたが、すぐに怪訝とした表情を吉平に向ける。
「……どげん意味や」
自分でも驚くほど低く冷たい声が絞り出すように出た。
すくみ上がりそうな声だったが、吉平は姿勢を崩さず真っすぐ鯉登を見つめる。
「そのままの意味だよ…君は雪乃と恋仲になりたがっているようだけど…諦めてほしい」
「理由を言え…でなければおいは納得せん」
「身分差、という言葉くらいは知っているだろう?」
その言葉を聞いた瞬間、吉平は胸倉を掴まれ鯉登に力の限り床に押し付けられた。
視界はあっという間に天井を背後の鯉登が映り、馬乗りになっている鯉登の恐ろしい形相やギリギリと締め上げてくる息苦しさを気にもせず吉平はただ表情をそのままに鯉登を見つめた。
鯉登は牙を見せる様に吉平を睨みつける。
「
貴様そいでも雪乃の兄なんか!!雪乃は川畑家の人間や!!」
「ああ、勿論そうだ…あの子は川畑家の人間で、僕の妹だ…血が繋がらなくてもそれは変わらないさ」
「じゃったら―――」
「でもな、音之進くん…世の中はそう見てはくれないんだ」
「…は?」
吉平は言ったのだ。
雪乃と鯉登の身分はあまりにも違いすぎるから妹に手を出すな、と。
鯉登はそう捉え、吉平もそう言ったつもりだった。
川畑家の人間であれど雪乃は複雑な立場の人間だ。
いくら周りがそう認めてもその血は川畑家の血は流れていない。
それは周囲がどう見るのか…吉平は知っている。
吉平は呆気に取られてる鯉登を見つめながら続けた。
「君と雪乃が結ばれるとする…父さん達は君たちを祝福するだろう…可愛い妹が愛する人と結ばれたのなら兄である僕も心から祝福したい…だけど身分の差というのは案外高い壁となるんだ…」
「血なんち関係なか!雪乃が川畑家の人間ちゅうたぁ事実や!!周りがなんじゃ!周りを気にしちょったらないも出来んじゃろうが!!」
「そんなのただの理想だ…ちゃんと現実を見なさい……平之丞さんが亡くなり、今では君が鯉登家の嫡男だ…嫡男と言う立場を君は分かっているのか?嫡男は家を残さなければならない…血を残さなければならない…家を守り、血を守り、名を守り、先代の功績をも守らなければならない…」
「そげなもの雪乃とでも出来っじゃろ!雪乃との子を授かればそん
子供は半分おいの血が流れちょるんじゃっで問題はなかはずだ!家も名も先祖の名誉もおいが守れば問題はなか!」
「半分だ…半分しか守れないじゃないか…庶民ならばいざ知らず川畑家や鯉登家のような家柄で半分しか守れないということは血どころか家や名や先祖の名誉も半分しか守れないという事だ…君は将来平二さんのように立派な軍人になるのだろう?ならば雪乃の事を諦めてほしい…あの子には軍人の妻なんて荷が重すぎる…君が一番知っているだろう?あの子はとても優しい子なんだ」
吉平の言葉に鯉登は口を噤んだ。
吉平は鯉登と雪乃の交際は反対していた。
周りは微笑ましいと、二人の恋を応援しましょう、と見守って時には手を貸した。
だけど吉平は最初から二人の交際は反対だった。
それを父や母や周りには言ったことはない。
言ったところで鯉登に言った事を素直に話せば『古い考えだ』と否定するからだ。
「君の都合であの子を傷つけないでくれ」
今なら心の傷は癒せる。
長引かせ付き合い結婚を決めてさあ籍を入れようと思えば横から知らない女に鯉登を取られ深い傷を負うよりはまだ引き返せる位置にいる。
だからこそ鯉登に頼んだのだ。
もう関わらないでほしいと。
もう雪乃に想いを寄せないでくれと。
もう、雪乃をお坊ちゃんの人生に巻き込まないでくれ、と。
吉平は雪乃が周りからの謂れのない言葉に傷つくところを見たくはなかった。
その為ならば悪役にでもなってみせると思った。
吉平の言葉に鯉登は先ほど怒りをあらわにしていたが静まったように黙り込み、静かに上から退く。
吉平は分かってくれたのだと安堵した。
しかし…
「そいでんおいは雪乃を愛しいる…半分しか守れんというならそん半分を
守い通せばいい…半分でもおいと雪乃が鯉登家を次の世代に繋げればいい」
鯉登は強い意志を持った眼差しで吉平を見た。
その目に、その全く揺るがない想いに吉平は目を細める。
「言うのは簡単だ…君はまだ分からないだろうが世の中そう上手くはいかないものだよ…君のその独りよがりの感情はきっと雪乃を傷つける…正直に言って僕は君がどうなろうとどうでもいい……だが雪乃が傷つく事だけは兄として絶対に許せない…――――今すぐその感情を捨てろ」
吉平の言葉に鯉登は違和感を感じた。
吉平の言葉は傍から聞けば妹を心配する兄のような言葉だが、鯉登からはそう聞こえなかった。
違和感を感じながらも雪乃への恋心を捨てろとはっきりと言った吉平に鯉登はギロリと睨む。
しかし吉平も一歩も引かずに鯉登を強い目で見つめた。
両者一歩も引かず睨み合いが続いたその時…
「音之進!もう起きて平気なの?」
突然の雪乃の声に鯉登と吉平はハッと我に返り声のした雪乃へと振り返る。
兄と幼馴染が同時に自分の方へ見たので雪乃はビクリと肩を揺らし驚いた表情を浮かべ、目をパチクリとさせた。
「え、えっと…何か大切なお話をしていたんですか?」
その場の空気を察した雪乃はタイミングがまずかったのかと困ったように眉を下げ兄に問う。
鯉登が何か言いかけたが、それを吉平が遮った。
「雪乃、どうしてここに?」
「音之進が心配で様子を見に来たんです…それにもう皆お開きにして寝るって言っていたのでそれをお兄様にも伝えようかと思いまして…」
吉平の問いに答えた雪乃の言う通り、あれだけ遠くにいても聞こえたどんちゃん騒ぎがぱったりと止んでいた。
BGMが消え、部屋に落ちる静けさが強調されているようだった。
新年の集まりは数日泊る事になっており雪乃も部屋に帰る前に鯉登の様子と皆寝る事を兄に伝えようとこちらに寄ったらしい。
それを聞いて吉平は『そっか』と答え立ち上がって雪乃に歩み寄る。
「音之進くんももう酒が抜けているようだし、介抱はいらないらしいから僕も寝る事にするよ…さ、部屋まで送るよ雪乃」
先ほどまで鯉登と睨み合っていたとは思えないほど吉平は穏やかな笑みを浮かべ、優しい声を雪乃に向ける。
雪乃の傍に歩み寄り雪乃の腰に手をやる男を見て鯉登は咄嗟に立ち上がったが、先ほどまで酒で倒れたためか上手く力が入らずそのまま倒れてしまった。
「音之進!?大丈夫!?」
派手な音を立てて倒れる鯉登に雪乃は慌てて駆け寄ろうとしたが、兄である吉平に腕を掴まれてしまった。
腕を掴まれ吉平へ振り返れば、兄は穏やかさをそのままに首を振った。
「雪乃…夜遅い時間に若い女性が男性の部屋に入るものではないよ」
倒れたから心配しただけだが、それでも兄として見逃せなかった。
雪乃は兄の言葉の意味を理解したのか、ほんのり頬を赤く染めた。
それでも心配そうな顔を見せる雪乃が何か言う前に吉平はグイッと雪乃を背に隠すように引っ張り、起き上がった鯉登に笑顔を向ける。
「じゃあ音之進くん…また明日…」
しかし、その笑みは明らかに嘲笑を含んでおり、鯉登は顔を引きつかせた。
『さあ、行こう』と雪乃と鯉登が会話を交わさないよう雪乃の掴んだ腕を引っ張り鯉登のいる部屋を後にした。
「あん野郎…!」
あからさまの得意げな顔に苛立ち思わず布団に拳を叩きつけてしまった。
勝負は引き分け。
しかし最後には美味しい所を持っていかれた。
最初から吉平の事は眼中になかった。
勉強熱心な従兄とだけしか思っていなかった。
というのも長男の菊之丞があまりにもクズだったから目立たなかっただけで、吉平は無害そうに見えて一番厄介な相手だったのだ。
(
本当の兄妹じゃなかじゃっであり得る話じゃな…)
怒りはまだ鯉登の中でフツフツと沸いていたが、しかし発散する相手もおらず時間も時間なため、落ち着こうと溜息のような息を吐く。
唯一の救いは襖が閉まられ兄に引っ張られながらも『じゃあね!音之進!ちゃんと暖かくして寝るんだよ!』という雪乃の声だろうか。
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