(114 / 274) 原作沿い (114)

水城は立っていた。
ぼうっと突っ立ってただ何も考えず立っていた。

―――

誰かの声が水城の耳に届き、水城はハッと我に返る様に意識をはっきりとさせる。
まるで自我を取り戻したように水城は動きだし、周囲を見渡した。
周りは真っ暗闇に包まれているのに、なぜか自分は浮かび上がる様にはっきりと見えた。


――――!


また誰かの声が聞こえ、水城はその声の主の名を告げようとした。
しかし声が出ず、口さえも動かなかった。
水城はその声の主が誰なのか知っている。
可愛くて、大人顔負けの知識を持ち、強くて、誰よりも大人な少女だ。
その名前を言いたいのに、口が動かなかった。


どこにいるの


そう水城は呟いた。
口が動いたことに驚き、少女の名を言おうとするが、やはり口は動かない。
何故か少女の名前だけは口が動かなくなるらしい。


どこ…


その少女を水城は探す。
なぜ探すかは分からないが、探さなければならないと思った。
その瞬間、辺りは開けたように真っ白な景色に変わる。
その病的なほど真っ白な景色に水城は圧巻され喉を鳴らしたとき、目の前に小さい人影が浮かび上がった。
小さい人影が探している少女だと、なぜか分かった。


ここにいたんだ―――さん


また、その少女の名前を呼ぶが口が動かない。
少女らしい人影は水城に手を振っていた。
しかし一人背を向け水城の前から去ろうとしているのが見えて水城は慌てる。


まって…まって――さん!いかないで!!


思わず一歩踏み出すと吹雪が吹いた。
足元を見ればいつの間にかひざ下まで雪が積もっており、吹雪は水城の邪魔をするように強くなっていく。
水城は顔を腕で庇い必死に少女の人影を見失わないように前に前に進む。


―――さん!!まって!!


水城がそう叫べば少女は立ち止まってくれた。
少女は振り返り水城に向かって手を振っている。
何となく『何しているんだ?早く来い!』と言っているように思えて水城は『今行くわ』と零した。
しかし吹雪は更に強くなり、ひざ下だった雪もいつの間にか太ももまで積もっていた。
でも不思議と寒さも痛さもなく、ただ水城は少女に向かって歩く。


―――!


少女が水城の名前を呼んでくれた。
だけど水城の耳には聞こえなかった。
しかし名前を呼ばれたと不思議と分かった。
すると少女が水城の名前を呼んだ途端に吹雪が止み、まるで晴れたように空から光が差し込んだ。
その光はまるで少女を照らすように差し込み、水城は今すぐその光の下へ向かわなければと思う。
しかしなぜか足が動かなかった。
不思議に思い下へ視線を落とすと―――水城の足を多くの屍がしがみ付いていた。
その多くは露西亜兵だった。
一見ホラーにしか見えないその光景だが、水城は冷静だった。


ああ…あなたたち…むかえにきたのね


冷静、というよりは納得した。
これは夢ではない、と。
これは死にかけた自分の迎えなのだと。
雪だった地面は黒く変色しドロドロになりその屍に引き込まれるように水城は沈んでいく。


―――ッ!!!


少女の声がはっきりと聞こえた。
顔を上げれば少女の人影は必死そうに手を振っていた。
焦っているのだと、頭の端に思う。
きっとこのドロドロした地面に全身がつかれば、自分は死ぬのだと水城は分かっていた。
しかし、水城は死ぬつもりはなかった。
どうしようかと、どうすればここから抜け出せるのかと、まるで底なし沼のように沈んでいく自分の体と足に縋りつく屍を見つめながら水城は思う。
その時、水城は後ろから腕が伸び、抱きしめられた。


死んでしまうのかい、雪乃


耳元で囁かれたその声は聞き覚えのある声だった。
忘れるはずのない…忘れられない、兄の声だった。
視線だけを後ろへ向ければ兄は…吉平は後ろから水城を抱きしめており、水城を後ろから顔を覗くように見つめている。
その口からは血が吐き出され、体もべっとりと血で汚れいてた。
水城は兄の姿に顔を強張らせ、穏やかだった心が一変する。
それに合わすように空が薄暗くなり、真っ白だった景色があっという間に暗闇に包まれた。
その時にはもう水城の耳に少女の声は届かなかった。
顔を強張らせる妹に吉平は嬉しそうに頬に触れる。
そこは二階堂に貫通された傷痕だった。
吉平が触れればまるで今負った傷のようにドロリと血が零れる。


ああ…雪乃…やはり君は素晴らしい…僕が思った通り…君は僕の理想の女性だ…


うっとりと血があふれ出る傷を吉平は何度も撫でた。
頬を撫でる兄の手には薄汚れた紐が握られており、それを伝っていけば、自分の首に繋がっているのが見えた。
その首には犬がつける首輪がいつの間にか巻かれており、ベルトでもなく接着部分が見当たらず、どうやってつけたのか分からない。
その首輪に気を取られたのか、水城を後ろから抱きしめていた兄はいつの間にか水城の前に立っていた。


あーあ…僕のリードをこんなに汚して…いけない子だ

だけどこれはお前が僕以外を飼い主と認めていない証拠だからね…汚してしまうのも仕方ないね


兄はそう言って握っている紐…犬用のリードの汚れを叩いて落とす。
それをただ見つめていた水城だったが、兄が突然グイっと引っ張った。
突然引っ張られ水城の体はガクッと前へ倒れる。
だが、すでに腰まで浸かっているため水城の体は兄の所まで届かなかった。
そんな水城を吉平は不快そうに見下ろす。


なにをしているんだい?はやくおいで


そう言って兄は更に水城のリードを引っ張る。
遠慮なく引っ張られるせいで首輪が擦れてピリピリとした痛みが水城の体に走った。
痛そうに眉を顰める水城など気にも留めず、兄はグイグイと引っ張り続ける。
痛い、と叫んだが、声が出なかった。
抵抗しようとするけど体が動かなかった。
まるで兄の元へ行きたいと言わんばかりに水城の体も必死に沼から這い出ようと必死に抗う。


そう、いい子だ…そうやってお前は足掻きなさい

教えただろう?お前が死ぬべき場所はお前が決めることではない、と

お前が死ぬべき場所は僕が決める

僕はお前の飼い主だからね


水城は痛くて苦しくて顔をしかめているのに、それすら吉平は愉快だと言わんばかりに笑う。
楽しそうに言う兄に水城は睨むことさえできず、少しずつズルズルと引っ張られる形で沼から抜け出していた。
しかし一人の屍が水城の背中の服を掴み引きずり込もうとする。
その力は強く、ずるずるとまた沼に引きずり込まれそうになったその時――――



何をしている!!水城!!!



兄の叱責に水城はカッとなり気づいたら雄たけびを上げ、吉平の引っ張る力も重なり水城は一気に沼から出る。
足先まで沼から出れば屍は消えた。
這い上がるのに力を使ったのか息を上げる水城だったが、息つく暇もなく引っ張られてしまう。
水城は兄の足元にうつ伏せに倒れるように引きずられた。
それでも痛みはあり、首筋にどろりとした物が流れた感覚についに皮膚を破いたのだと頭の端で思う。
そんな水城の顎をしゃがんだ兄の指が掬い、顔を上げさせる。
血だらけだった兄の姿は、生前の兄の姿に変わっていた。
兄はにっこりと人の良い笑顔を浮かべる。


お前は可愛い僕の犬だ

僕は決してあのアイヌの少女をお前の新しい飼い主とは認めない

絶対にだ

分かったね?


不快だった。
なぜお前なんかの許可が必要なのか、と。
だが体は勝手に頷いてしまい、その頷きを見て兄は満足げに笑い、『いい子』とまるで子犬にするように優しく水城の頬を撫でる。


では、立ちなさい

お前がここにくるのはまだ早い

お前の死を僕はまだ認めないよ


それには水城も同意である。
兄の許可が得なければ死ねないのかという不満はあるが、まだ水城は死ねない。
先ほどの少女の名前をまだ水城は口にできていないからだ。
まだあの少女の姿を見ていないからだ
まだあの少女を―――アシリパを抱きしめてあげていないからだ。
立ち上がった水城に兄は目を細め笑う。


そうだ

お前はまだ死んではいけない

生きなさい、お前だけは


そう囁き、兄は消え…

―――水城は目を覚ました。

114 / 274
| 目次 | 表紙 |
しおりを挟む