(115 / 274) 原作沿い (115)

ハッと水城は目を開ける。
水城の視界には見慣れない天井が見えた。
あの夢の続きかと思ったが、自分の状況を見るにここは病院なのだと気づく。
部屋が照らされているという事は夜ではないのだろう。
体をゆっくりと起こそうとした。
しかし手が何かに引っかかる様に動かず、そちらに目をやる。


「…!」


少し体を起こしてそちらに目をやれば…水城は息を呑む。


「…音之進」


そこにいたのは鯉登だった。
ずっと付き添ってくれていたのだろう。
水城のベッドに突っ伏して眠っていた。
その手は水城の手を握っていた。


(ずっと傍にいてくれたのね…)


確信はない。
もしかしたらついさっき来たばかりかもしれないが、なぜかずっと鯉登が傍にいてくれたのだと分かった。
心配を掛けさせてしまったな、と申し訳なく思いながらも嬉しかった。
鯉登があれからどんな道を歩んだかは分からないが、少なくとも勝手に死んだ元恋人の病室に来てくれる程度には気に掛けてくれているのは確かだ。


(大きくて、温かい手…)


自分の手を握る鯉登の手は前に比べて大きくなっていた。
あの時でも大きいと思ったが、水城の手がすっぽりと鯉登の手に包まれていた。
当たり前だが彼も月日を経て成長しているのだと分かる。
その間傍にいられなかったことが残念だと思う。
水城は眠る鯉登に触れようと手を伸ばす。
信じられなかった。
目の前にいる鯉登が本物なのか。
偽物で、これは夢の途中なのではないか、と。
しかし…水城の手が鯉登に触れようとしたとき、ポタっと何かが掛布団の上に落ちたのに気づいた。
そちらに目線を落とせばそれは…血だった。


「………」


首筋にぬるっとした物が流れる感覚に水城は鯉登に触れようとしたその手で恐る恐る首へ手を伸ばし、触れる。
ある場所を指が触れた瞬間、ピリッとした痛みが走った。
手を見れば血がべっとりとついており、水城は『ああ、なるほど』と冷静に納得する。


(あれは夢であって夢ではなかった…)


起きる前に見た夢はただの夢だろう。
だが、夢ではないのだろう。
悔しいが水城は兄である吉平に救われたのだ。
まだ、この首には彼の首輪がかかっているのだ。


(今何時かしら…部屋の明るさからして朝か昼頃かしら)


病室を見渡すと窓から差す光は明るく、暖かかった。
時計がないため何時かは分からないが早朝ではないのだろう。
窓を見ていると鯉登がもぞりと動くのを感じ、窓から鯉登へ振り向けば鯉登の目と合った。


「雪乃…?」


鯉登は水城の姿を見て目を丸くさせ、唖然と呟く。
水城は何か言おうと口を開くが、結局何を言えばいいのか分からなくて閉じてしまう。
鯉登はガタリと椅子を蹴って立ち上がり、水城に手を伸ばそうとした。
その手は震えており、鯉登も水城が…雪乃が本当に生きているのか、本物なのか信じ切れていなかった。
しかしその手を水城は拒んだ。
フイッと顔を逸らし鯉登を拒む水城に鯉登は目を見張り、悲し気に表情を浮かべ手を下ろす。


「出て行ってください」


水城は声が震えないよう気を付けながら、鯉登を拒む言葉を投げつけた。
鯉登がその言葉に息を呑むのを感じながら水城はもう一度、彼を拒むように出て行けと呟く。


「雪乃…」

「私は杉元水城です……雪乃という名前ではありません…あなたも……ただ旭川で会ったことがある程度の方です……あなたに看病される覚えはありません…」

「っなに、を…おいは…」

「息子がいます」

「―――!」


これ以上鯉登と一緒にいると心が揺らぎそうで水城は鯉登から顔を背け見ないようにした。
まだ何か言いかけたので水城は息子がいることを伝えた。
その瞬間、鯉登が握る手に力が入ったのを感じた。
それが責められているように感じて胸が苦しくなる。
息が止まりそうで、だけど言わなければならないことでもあった。
本当は会っても言うつもりはなかった。
誰が愛している男に別の男の子供を産んで育てていると言えるだろうか。
まだ言えるほど水城は鯉登を諦めておらず、そこまで勇気があるわけがない。
水城は逸らしていた顔を鯉登へ向け、まっすぐ強い目で彼の目を見つめ…言った。


「尾形との子供です」


その言葉に鯉登が目を見張る。
尾形と鯉登の会話からして、彼ら二人は犬猿の仲なのだろう。
そんな相手の子供を産んだかつて愛した女をきっと鯉登は許さないだろう。
そう思って尾形の名を告げた。
それが嘘だと思ってもいい。
本当だと信じてもいい。
もう鯉登の知る雪乃はいないのだと、雪乃は自分を裏切ったのだと思ってくれればそれでよかった。
裏切ったのだと怒り呆れて興味も失ってくれればと思った。
それがどれだけ鯉登も水城自身も傷つくか、分かっているつもりだ。
だけど水城は彼を傷つけてでも拒むと決めた。
もう彼の知る川畑雪乃という少女は死んだのだ。
再会したからと言って簡単に彼を受け入れるのなら、吉平が死んで帰国した日にとっくに母に会いに行っている。


「出てって…」


鯉登は立ち尽くしていた。
まさかずっと生きていると信じやっと再会できた愛した女に拒まれ、更には彼女には自分以外の息子がいたとは思わないだろう。
水城は唖然とする鯉登の手を振り払う。
彼女の拒絶にどうしたらいいか分からなくなった。
絞り出すような彼女の拒みの声に…鯉登はふらりと病室を去っていく。


「……っ」


扉が閉まる音と彼の足音が消えていくのを聞き、ジワリと水城の視界が歪む。
耐えられなくなってギュッと目を閉じれば大きな雫が水城の琥珀色の瞳からポツリと零れた。


(ごめんなさい…)


なんて勝手な女なんだと水城は思う。
拒みながらも心は鯉登を求めている。
水城だって、雪乃だって会いたいと心の底では思っていた。
今だって彼を愛している。
彼以外の人間と添い遂げるなんて考えられないほどに。
だけど今更なのだ。
顔どころか体中にも傷を残し、彼以外の男の子供を産み愛する女を、誰が愛してくれるのだろうか。
今更水城は雪乃に戻れるはずもない。
彼が求めているのは水城ではなく、雪乃なのだから。
水城はたまらず顔を手で覆おうとした。
だけど血のついていない片方の手は先ほどまで鯉登と繋がっていた。
たったそれだけなのに切なく、辛く、そして愛しく感じられる。



◇◇◇◇◇◇◇



鯉登が退室し、静けさが痛いくらいに響く。


「失礼します」


暫くすると水城の耳にノックの音が届く。
ノックに返事を返せば扉が開かれ、家永が姿を見せた。
それだけではなく家中に続き鶴見と月島が入室してきた。



「家永…なんでここに…」


家永の姿に水城は目を丸くする。
鯉登がいたという事は自分たちは第七師団に捕まったと考えていいだろう。
囚人が軍人を前に手錠もなく自由の身の家永に怪訝とさせた。
捕まっているのかいないのか、全く分からず状況さえも把握できない水城は少し混乱していた。
そんな水城に鶴見は『全てを話そう』と声をかけた。


「治療を続けながらでも構わないかな?」

「ええ…どうぞ」


囚人ではあるが一応医師なので医師として聞けば頷きが返ってきた。
医師の許可も得たということで『では』と鶴見は鯉登が倒した椅子を立て直してその椅子に座り、護衛兼付き添いの月島はその後ろに控える。
水城は首の傷を見て貰っていた。
家永が来たのは、鯉登が呼んだからだ。
意気消沈の様子だったが、水城の傷に気づき家永を呼んだらしい。
それを聞き、水城は内心感謝しながらこれで諦めてくれればいいなと思う。
ガーゼを付けられ、後は頭と頬の傷の消毒をしてもらう。
シュルシュルと包帯を解く家永と大人しくしている水城を鶴見は見ながらじっと水城を上から下へと見る。
その視線に気づいた水城は顔を動かず怪訝そうな目線を鶴見に向ける。


「…なんでしょう」

「ああ、いや…ジロジロ見てしまってすまない…改めて君が女性なのだなと思ってね」


『なあ、月島』と声を掛けられ月島は『えっ』と鶴見を見る。
まさか同意を求められると思っていなかったのだろう。
ただ、この上官は確信犯だということを月島は知っている。
ニコニコと笑ってこちらを振り向く上官が何がしたいのか分かってしまう自分が嫌になる。


「そうですね…ずっと男だと思っていた分驚きがあります」


月島も水城を男と思っていた分、女性だと聞かされ眠る水城を見て驚いた。
女性が弱いとは言わないが、女性の身で軍人となっただけではなく『不死身』とまで名付けられるほどの強さを持っていることにも驚いた。
鶴見は勿論月島も女の身で気づかれず軍人でいられた疑問などない。
水城の傍には必ずと言っていいほど吉平がいた。
それが答えだ。
恐らく月島の言葉に含まれる意味を鶴見も分かっているのだろう。
月島の言葉に鶴見も頷いた。
そんな2人の反応に水城は苦笑いを浮かべる。


「そうでしょうね…やはりみんな驚きます」


水城は苦笑いを浮かべた。
水城は鶴見に対し敬語を使っているため、見た目以外は男装の時と同じである。
いつもはサラシを巻いて胸を潰し着こんで体の線を出さないようにしていた。
しかし今は患者服を着ており、胸のサラシも解かれていた。
どう見ても女性である。
だからどんなに頑張っても男には見えない。
しかし思い込み効果というものは本当に人の目を欺くようで、大抵は優男として見られ女と気づく者は少ない。
女と言えばみんな驚くのだ。


「それで…一体何がどうなっているんです?」


頭の傷の消毒を終えた後、頬の傷の消毒も終え、包帯を新しいのに変える。
頭の傷は場所が少しでもズレていれば、そして水城の運がなければ水城は帰らぬ人だっただろう。
だが、あれだけの怪我を負いながらも運が死を凌ぎ、死からの帰還を鶴見に見せてくれた。
鶴見は女の身でありながらもまさに不死身だと賞賛する。
家永に包帯を巻かれながら水城は目線だけ鶴見に向け、先を促す。
水城の言葉に『ああ、そうだったな』と水城に見惚れていた鶴見は我に返り、事情を説明した。
鶴見は包み隠さず話し、水城は全てを聞いてまず思ったのは『成程』だ。


(だから音之進は私に気づいたのね)


鶴見に心酔している彼なら恐らく傍についていたはず。
頭を撃たれた時、軍帽が落ちただろうし、鯉登に気づかれるのも当たり前だろう。


(その時…音之進は何を思ったんだろう…死んだと聞いた恋人が瀕死で倒れていた……悲しんでくれただろうか…)


考えないようにしていたのに、やはり思うのは鯉登の事だった。
包帯も巻き終えた水城は『はあ』と溜息をつく。
そんな水城に鶴見はくすりと笑みを浮かべた。


「気になるかね?」

「?」

「鯉登少尉の事だ…君は彼と婚約者だったと聞いていたからな」


鶴見は水城の心情が見るように分かる。
乙女心は複雑だが、分かりやすくもある。
切なそうに溜息を吐く女性が思うのなど想い人以外ない。
鶴見の言葉に水城は目を伏せた。


「私は…杉元水城です…もう川畑雪乃という人間には戻れない…その少女は自殺をした亡者なんです……"鯉登少尉殿"にはそうお伝えください」

「それは君自身が伝えた方がいいと思うが?」

「分かっています…でも…きっと鯉登少尉殿はもう私には会いに来られないと思うので…」


鯉登の様子から明らかに水城と何かあった事は馬鹿でも分かるだろう。
何かあったか気にはなったが、今聞いても彼は例え心酔している鶴見でも話さない。
落ち込んでいる様子だったので1人にさせるのも必要かと敢えて月島を付けることはしなかった。
笑う水城だったが、その笑みは悲し気で、泣きそうだった。
女性のそのような顔を見るのは心が痛む。


「……一応伝えてみよう……ただし、伝えるだけだ…彼を説得する権利は私にはないのでね……それでも構わないかね?」


せめて、伝えるだけは伝えてやろう。
女性と分かっても水城はまだ鶴見のお気に入りである。
普段なら面倒だと思うが、何者でもない水城の頼みだと受け入れた。
ただ鯉登を説得してくれとなれば話は別だ。
これは鶴見が間に入るべき問題ではない。
これは鯉登と水城…二人で解決すべき問題だ。
そう伝えれば水城は分かっているのか、頷いた。

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