月島は焦っていた。
水城は最初尾形やキロランケ達の事で焦っているのかと思ったが、どうやら違うらしい。
「少女が一人であの森に入っていくので止めようとしたが見失ったそうだ!この時期はまだヒグマも冬眠していない!だが!この辺りの森にはヒグマよりももっと狂暴な動物がいると言っていた!!」
北海道ではヒグマが危険な動物だったが、樺太では更に危険な動物がいるらしい。
それを聞いて水城の足は速くなる。
どうしてアシリパと思われる少女が一人で森に入っていったのかは分からないが、とにかくそれが本当なら急がなければならない。
「アシリパさん!!」
森に入り水城は叫んだ。
声で気づいてくれるかもしれないと思ったからだ。
それは同時にもしかしたらキロランケ達にも気づかれる恐れがあったが、今はアシリパが最優先だ。
「杉元!こっちに子供の足跡がある!」
谷垣が子供の足跡を見つけ、水城達はその足跡を辿って森の中を進む。
その足跡の主は早く見つかった。
しかし、その主を見て水城は落胆する。
「アシリパさんじゃない…」
その足跡の主は確かにアイヌの少女だった。
しかしその少女はアシリパとは似ても似つかず、全くの別人だった。
それに水城は深い溜息と共に肩を落とし、月島も溜息を吐く。
「樺太のアイヌの女の子だったのか…あの『フレップ姉さん』もいい加減だな…まあ、和人にとっちゃどっちもアイヌか…」
フレップを試飲させてくれた女性は確かにアシリパの写真を見て見かけた少女がアシリパだと言った。
しかし日本人にとっては西洋人の区別がつかないのと同じく、アイヌの区別も難しいらしい。
水城はアシリパとは長い付き合いだしアイヌとも交流が少なからずあるため区別は出来ているが、アイヌに関りがなく興味もない人間からしたら例え同じ国を故郷にしていても同じなのかもしれない。
「どうして一人なの?」
水城達の声や音でこちらに振り向く少女は軍人の姿だからか、少し警戒したような様子を見せていた。
それを感じ取ったのか、チカパシが話しかけてくれた。
同じアイヌだからか少女はチカパシに事情を説明する。
「ヘンケの耳悪い…ヌソから私落ちた…クコタヌフ帰る…ここまっすぐ私のクコタヌフ」
少し片言だが、日本語は通じて喋れるのかたどたどしく事情を話す。
どうやら橇から落ちたが祖父の耳が遠くて気づかれず置いて行かれたため近場のこの森を通っていたのだろう、と鯉登がまとめてくれた。
鯉登のまとめに少女は頷き、チカパシに声をかける。
「あなた、北海道のアイヌ?」
「うん」
「私会った…北海道から来た、アイヌの女の子」
「!!――待って!それってこの子!?」
女の子の言葉に水城はすかさず写真を見せる。
…が、またM字開脚している谷垣の写真を出していた。
それに女の子が首を振る前にリュウが何かに反応し吠え出した。
一同それに振り返ってみてみればそこにはヒグマがいた。
こちらに一心不乱に向かってくるヒグマにリュウは吠え続け、ヒグマの姿に月島達は銃を構える。
「子供たちを後ろに!!」
月島の指示に谷垣が子供たちを後ろへ下がらせ、盾になるよう前に立つ。
水城も二人が離れたのを見て肩にかけていた銃をヒグマに向けた。
ヒグマは近づいてきていたが、その様子に水城達は違和感を覚える。
「様子がおかしいぞ…」
月島は銃を向けながらヒグマを狙っていたが、何か様子がおかしい事に気づく。
こちらに向かってきているヒグマだが、水城達には目もくれていない様子だった。
少し手前でヒグマは暴れ出し、何かを振り払うように体全体を揺らす。
その体から血が出ており、水城達が銃を撃つよりも前に怪我をしているようだった。
すると体を揺らすヒグマからボテッと何か小さいのが落ちた。
その小さいモノは生き物で、のそりと起き上がる。
「こいつがヒグマを襲っていたの…?なに!?生き物!!」
ロシア人もヒグマより狂暴な動物がいると言っていたので、恐らくこの動物がそうなのだろう。
名前は分からないが、見た目は可愛かった。
しかしヒグマからポロリと落ち、ヒグマが人間など見向きもせずその動物から一目散に逃げるように離れたのを見て少なくともヒグマには恐れられてはいるようだった。
「鯉登少尉殿!離れてください!」
逃げていくヒグマを谷垣と水城は見送る様に視線を向けていると、月島の声がし視線をそちらに向ける。
そこにはヒグマの背から落ちた動物に近づく鯉登がいた。
「これがさっき言ってたヒグマより狂暴な奴なのか?なんか弱そうだが…目もつぶらで可愛いではないか月島軍曹」
確かに、と水城は同意する。
確かに、見た目は可愛い。
だがあのヒグマが一目散に逃げる姿を見てしまえばそうは言ってられないだろう。
この動物の名はクズリと言い、現地ロシア人も『クマよりも恐ろしい』と恐れられるほど気性が荒い生き物だった。
その恐ろしさを察知したのか、ヒグマにひるまず立ち向かうリュウはクズリを見た途端遠くへ逃げてしまった。
近づく鯉登をあまり触れないようにしていた水城も流石に止めようとしたとき―――クズリが素早い動きで鯉登の背中に飛び移った。
その動きはヒグマより小柄だからか、早く、鋭い牙や爪が鯉登の背に食い込む。
「音之進…!!」
水城は思わず鯉登の名を叫ぶ。
それと同時に鯉登に襲い掛かるクズリを月島が蹴り飛ばし銃を撃つが、クズリは近くの木に登ってしまい銃弾は木に当たってしまい失敗する。
「こいつ素早いぞ…!!」
草の音を立てながら素早い動きでクズリは動き、あっという間に後ろに下がっている少女の背後を取る。
クズリは大型の哺乳類を襲う際に木の上から背中へとびかかり背骨を攻撃するらしく、先ほど鯉登の背中に飛びついたのも、熊の背中にいたのもその生態のためだ。
「危ない…!」
目では確認できていた。
素早く木で姿が隠れていたのもあって、クズリがどこにいるのか分からなかった。
気づいたときにはすでに少女の背中に飛びかかろうとしており、水城も駆けつけるが間に合うか分からない。
そう思った時―――チカパシが少女に飛びつきクズリから助けた。
「でかしたわよ!チカパシ!!」
水城は二人に襲い掛かかろうとするクズリの背中と首の肉を毛皮ごと掴んで上から体重を掛け抑え込む。
「谷垣!!その子を連れて下がってて!!―――その子はアシリパさんの情報を持ってる!!」
谷垣にチカパシとアイヌの少女を託し、水城は月島に振り返る。
「投げるよ!!いい!?月島軍曹!!」
「よしッ!!」
ググ、と力任せに抵抗するクズリに水城も力任せに抑え込む。
月島と連携するため、月島を見ればすでに銃を構えていた。
月島の合図と共に水城はクズリを軽く持ち上げ投げ捨てる。
放り投げられたクズリに向かって月島は銃を放つが、段差に積もった雪で見えなくなった。
「やった!?」
「わからん…とにかく離れるぞ!走れ!」
姿が見えなくなり、仕留めたか分からない。
銃では仕留めたか分からず、とにかくここから離れ安全な場所に移ることにした。
しかしクズリは死んでおらず、銃に怖がるどころか人間に向かってきていた。
クズリの足の裏は成人男性の手の平ほど大きく雪の上ではカンジキの役割となって素早く移動できた。
そのため、ガンジキがない人間との距離を縮めるのは簡単だった。
離れていたのにあっという間に距離を縮められた水城はすかさず銃を構え、月島はその隙に傷を負った鯉登を回収する。
谷垣も逃げるため子供二人を脇に抱え、水城は銃を放った。
しかし相変わらず銃の腕は上がっておらず、木に当たっただけだった。
「また外した…」
こんな時くらい当たってくれてもいいじゃない!、と自分の腕に腹を立てるが、そうしている間にもクズリは近づいてきている。
(こうなったら剣で刺し殺してやる…!)
水城の腕もそうだが、何より動きが素早すぎて銃の弾が当たらない。
もうこうなったらアシリパと会った時と同じく懐に飛び込んできたところで決めるしかない。
水城がそう思い銃に剣をつけようとしたとき―――
「エノノカ!!」
「ヘンケ(お爺ちゃん)!!」
こちらに一人の老人が犬橇で駆けつけてくるのが見えた。
恐らく少女の名前なのだろう…エノノカと呼びながら駆けつける老人に少女はパッと顔を明るくさせる。
どうやら途中で落とした孫を迎えに来てくれたらしく、タイミング良く来てくれたその犬橇に全員乗り込む。
暫くクズリは追いかけていたが諦めたのかいなくなっていた。
「パーセ!!」
「ヘンケが『重い』って言ってる!犬が疲れちゃう!」
そのままエノノカと呼ばれた少女の祖父が操る犬橇に乗り、鯉登の治療と詳しい話を聞くため、エノノカ達の村へと向かうことになった。
しかし、重量オーバーなのか引っ張る犬の速さが少しずつ落ちていく。
「谷垣一等卒!貴様のせいだ!牝牛のように太りよってからに!」
「ええ!?」
「そうね…谷垣、あなたインカラマッのヒモだった時に沢山食べさせてもらったのよね?再会したときシャツがピチピチだったもの」
「俺はヒモだったわけでは…」
「走って痩せろ!谷垣一等卒!」
その原因がなぜか谷垣に集中する。
谷垣はインカラマッとチカパシと共にアシリパを追いかける旅をしていた時、インカラマッに食べさせてもらっていた。
水城が再会した時にはシャツがピチピチになっており、だからボタンがよくはじけ飛ぶ。
何度もインカラマッにボタンをつけ直してもらうのを見ながら水城は『新しいの買えよ…』と思ったが、幸せそうな二人を見てその言葉を飲み込んだ。
谷垣は鯉登に牝牛のようにと罵られ、後ろにいる水城には胸を揉まれ、散々なのに、更には橇に落とされエノノカの住む集落まで本当に走らされた。
エノノカの住む集落は大泊の近くで、やはり住む場所が違えば同じアイヌでも雰囲気が全く別物だった。
「私とヘンケ、ここで二人で住んでる…でもここ『夏の家』…私達寒くなるとあっちにある『冬の家』に移る」
「へえ…樺太のアイヌは家が2つあるのね」
エノノカが水城達を案内している間に、祖父は『セタクマ』という犬を繋ぐ竿に犬を繋ぐ。
その傍には走らされ息が上がり座り込んでいる谷垣もいた。
「こっちが冬の家」
冬の家をエノノカ達アイヌは『トイチセ』と呼び、夏の家を『サハチセ』と呼んでいる。
そのトイチセにお邪魔させてもらい、まずは鯉登の治療を行った。
「臭い臭い!何を塗っているのだ!?」
「熊の油だそうです…熊の油は傷に良いのだとか…」
水城は物珍しくついエノノカ達の家を見てしまう。
水城の耳に鯉登と月島の会話を聞き水城は鯉登達の方へと目をやった。
鯉登は上半身を脱ぎ傷を塗ってもらっていた。
樺太は北海道よりも北に位置するため、過酷な自然環境に適応した独自の生活形態を生み出した。
だが、鯉登の怪我の治療に熊の油を使うところを見て水城は習慣や環境が違ってもアイヌとして生きるために得られた知識は同じなんだなと素直な感想を心の中で零す。
しかし、それ以上に水城は目を奪われるものがあった。
(…音之進の体…すごい…)
それは鯉登の体だ。
水城の目線の先には鍛えられた体を持つ元恋人がいた。
その体に水城は見惚れてしまう。
(分かっていたけど…音之進も大人になっているのね…)
当たり前だが、その鍛えられた体に時間の経過を感じしみじみとさせる。
もうあれから4年だ。
4年も経てば少年だった鯉登も、今は立派な成人となり、軍人として訓練などで体は鍛えられていた。
しかしそれは鯉登だけではなく吉平や月島や谷垣…そして尾形もそうだ。
水城は筋肉がつきにくい身体だったため筋肉はつかなかったが、体を重ねたとき尾形の体は鯉登のように鍛えられた体をしていた。
男達の中では華奢だった吉平だって一般の男に比べたら鍛えられた体だった。
4年前、まだ鯉登は10代だった。
裸を見る前に水城と鯉登は離れ離れになってしまったが、恐らく10代の頃よりも鍛えられた体なのだろう。
そう思うと惚れた弱みもありうっとりと見てしまう。
しかし見すぎたのか視線を感じた鯉登は水城の方へ視線をやり、水城は鯉登と目が合ってしまう。
水城は思わず自分のはしたなさに頬を赤らめ鯉登から目を逸らしてしまった。
「雪乃、さっきから私の方を見ていたが…どうした?」
「い、いえ……い、痛そうだなと……月島軍曹の言う事を聞いていればそのような傷を負わずに済んだのにと思っただけです」
水城は心の中で『何言ってんの私!』とダン、と床を叩きたくなった。
こんなことを言いたいわけではない。
これじゃツンレデどころかツンツンじゃない!、と可笑しくなっている水城はそれでもツン、とそっぽを向くように顔を背ける。
勿論谷垣と月島には水城の気持ちなど分かり切っていた。
谷垣からは生暖かい応援している目、月島からには呆れたような目で見られ、水城は心では号泣していた。
しかし…突っかかってくると思った鯉登はふと笑い『そうだな』と大人の対応をする。
水城はそれに怪訝とさせ顔を背けながらチラリと鯉登を盗み見する。
鯉登は水城は見ていなかったが、どこか嬉しそうに機嫌がよかった。
「?…鯉登少尉殿…何やらご機嫌ですね」
それは月島も同じことを思ったのか、首を傾げながら上官にそう聞く。
若いとはいえ将校の父を持つ鯉登にそんな質問を出来るという事は、鯉登と月島の関係は良好なのだろう。
そんな月島の問いに鯉登は頷いて返した。
「分かるか?…雪乃が名を呼んでくれたのだ…怪我を負ってしまったが、その甲斐があったというものだな」
その言葉に点点点、とその場は静まり返った。
それに気づかないほど鯉登の機嫌はいいようで、月島と谷垣は静かに水城を見る。
「〜〜〜〜ッッ」
水城は茹蛸以上に顔を真っ赤に染まっていた。
ぶわっとまるで猫のように毛やマフラーを逆立て顔を真っ赤にして鯉登を見ていた。
しかし耐えきれなかったのか軍帽のツバを下げて顔を隠し、恥ずかしさに体を震わせていた。
(私の馬鹿ぁ!!なにそれ!!全然気づかなかった…!!な、名前で呼んでた!?私あの時音之進を名前呼んでたの!?)
水城はあの時、鯉登がクズリに襲われたときに水城は無意識に鯉登の名前を呼んでしまった。
それを鯉登はちゃんと聞いており、覚えていた。
しかし水城は無意識だったため覚えていなかった。
一生の不覚だと水城はついにその場にうずくまってしまう。
そんな面倒くさい大人などよそに子供二人は仲良くおしゃべりをしていた。
「さっきは助けてくれてありがとう…名前は?」
「おれチカパシ!ちんちんが勃起するって意味だ!」
「ボッキ?」
その会話を聞いていた水城は先ほどまで湯気が出るほど恥ずかしかったが、チカパシの下ネタ(のつもりではないが)に顔を上げて子供たちを見た。
まだエノノカは勃起という言葉の意味を知らないのか首を傾げ、水城は保護者の谷垣に『ちょっと子供になんて言葉教えてるの』と非難の目を向ける。
谷垣には通じたのか、谷垣は心覚えあるのでそっと水城のジト目から逃れるよう逸らした。
「私エノノカ…『フレップ』って意味…フレップ沢山食べてゲ〜〜って全部ゲボしたからついた名前」
「…ねえ…他に名付けるきっかけなかったの??」
恥ずかしさなど吹き飛ぶような二人の名前の意味に水城は思わず突っ込んだ。
特に嫌でもないのか水城の突っ込みをエノノカとチカパシは首を傾げ、純粋無垢な二人の目線に水城は先ほどの谷垣と同じくそっと目を逸らす。
「あのね、北海道から来たアイヌの女の子もフレップ食べたの」
「!…それって…この子?」
エノノカの言葉に水城はアシリパの写真を取り出す。
今度は間違えず、エノノカはその写真に写る少女をジッと見つめた後頷いた。
「そう、この女の子!」
水城はエノノカの頷きに一気に目の前に光が差した気がした。
一日目は情報を手に入れるのは無理だと諦めていた水城は安堵の息を吐く。
しかし、聞きたいことはそれだけではない。
「連れの男達がいなかった?」
「うん、三人いた」
その言葉に今度は谷垣が写真を見せる。
そこに写っているのはキロランケだった。
キロランケの写真を手に取りジッと見つめながらエノノカは頷く。
「この男はいたか?」
「いた…『北へ向かう』って言ってた」
「北…」
やっと重要な情報が手に入った。
一日目でアシリパの姿だけではなく、彼らが向かう方向まで分かったのは順調と言えよう。
「…女の子は…どんな様子だった?元気だった?」
アシリパがこの樺太にいることが分かった。
そしてキロランケと尾形が向かう方向も分かった。
水城はアシリパの様子が気になり、エノノカに聞く。
「元気ない…とてもとても悲しそう…何も話さなかった…」
「………」
「でも…フレップの塩漬け出したら食べた」
そう言ってエノノカはアシリパ達にも出したフレップの塩漬けを水城達にも出した。
水城はその粒を一つ口に入れる。
口の中でしょっぱく、甘い味が広がった。
「その女の子、フレップいっぱい食べたらちょっと元気になった…ちょっと笑って『ヒンナ』って言ってた」
その言葉に水城はジワリと涙が溢れる。
ヒンナ、という言葉を教えてくれたのはアシリパだ。
彼女はよく美味しい物をヒンナと言っていた。
「…アシリパさんだ…間違いなくアシリパさんだわ……確かにこの村にいたのね…やっぱり樺太に来てたんだ…っ」
水城はアシリパの話にやっと笑顔を浮かべることができた。
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