『』=ロシア語
****************
エノノカ達からの情報のおかげで向かう方向は分かった。
北へ向かえばいずれアシリパと会う事が出来るだろう。
「何してるの、あの二人…」
水城は早速北へ向かうためエノノカ達にお礼を言ってアシリパ達を追おうとした。
エノノカ達のチセを出た水城はふと月島と鯉登がエノノカと話をしているのに気づく。
その呟きに谷垣も二人へ視線をやり、『ああ』と声を零しながら答える。
「報酬の交渉だ」
「報酬?」
「鯉登少尉が移動するのに歩きたくないからエノノカの爺さんを雇って犬橇で我々を運んでもらおうとしてるらしい」
その説明に水城は成程と納得し、鯉登達を見る。
エノノカは手袋を外し、そろばんを取り出して弾き始めた。
それに水城は驚く。
「そろばん弾いてるわ…あの子も小さいのにしっかりしてるのね…」
水城はあえてチカパシの方は見なかったが、アシリパも年の割にはしっかりと自分というものを持っていた。
自分のあの年代のころはすでに川畑家にいたが、エノノカやアシリパほどしっかりはしていなかっただろう。
エノノカ達を雇うのは成功したのか、祖父の橇を月島と鯉登が、エノノカの乗る橇を水城と谷垣、チカパシと乗り、北に向かって走り出す。
やはり歩くのとは違い、スムーズに、素早く、疲れもなくあっという間に次の村にたどり着いた。
エノノカの祖父が何かアイヌ語で言い、それをエノノカが訳して水城達に伝える。
「アイヌの女の子と三人の男…ここのロシア人の村の事聞いてたって」
「この村?じゃあ、立ち寄った可能性は高いわね」
キロランケ達はこの村に立ち寄った可能性が高いと聞き、水城は話を聞くことにした。
北に向かったと言っても広い。
ここにキロランケが立ち寄ったのなら、更に向かう先を絞り込めるかもしれない。
「あの建物が村で唯一の酒場らしい」
聞き込みと言えば、人の集まる場所が好ましく、酒場が聞き込みしやすいお店だった。
人も集まるし、酒が入っていれば口も軽くなる。
エノノカから聞いて谷垣が酒場の方を見る。
しかし月島は真剣な顔を浮かべていた。
「のどかな農村だと思って気を抜くな…南樺太にはロシア人の監獄がいくつかあったが…日露戦争で日本領になると閉鎖された…では囚人はどこへ消えたのか…日本軍が上陸したどさくさでほとんどが逃げた」
月島の警告に水城達の顔つきも変わった。
酒場に向かうのは変わらないが、いつもより警戒しろと月島は言っていた。
水城達は子供と祖父を外で待たせ、この村で唯一の酒場に向かい、中に入る。
中には当然だがロシア人ばかりで、その男達の多くはガタイもよく強面だった。
突然入った日本人、それも軍人が4人入ってきた途端、酒場の空気は一変する。
凍り付いたように静まり返り、中にいる数人のロシア人は鋭い眼光で睨むように水城達を目で追っていた。
『この男が来ませんでしたか?』
『知らない』
唯一この中でロシア語が出来る月島に頼ってしまうが、月島は谷垣から預かったキロランケの写真をカウンターでコップを磨いている店主に聞く。
しかし首を振られてしまい、月島は客に同じくキロランケの写真を見せて聞いた。
だが聞いても誰も返事はせず、鋭く睨みつける眼光だけが向けられた。
『日本の兵隊が俺達の村に何の用だ?』
やはりまだ日露戦争が終わったばかりというのもあって、ロシア人との間には深い溝があった。
しかし一人の男がガタリと立ち上がり、更にギロリと日本の軍人を睨みつける。
明らかに日本兵を毛嫌いしている態度の男に月島は黙っていた。
『出て行け!』
こちらに歩み寄り睨みつける男が何を言っているか分からないが、良い事ではないのは水城でも分かる。
近くにいた水城が標的になり、水城は自分を睨みつけ怒鳴り声を上げる男の売った喧嘩を買った。
「あ?何言ってるのかさっぱり分からないんだけど…私に触ったらぶっ飛ばすとこいつに伝えて、月島軍曹」
水城も一歩前に出て男を睨む。
そんな水城に傍にいた鯉登が『やめろ』と言い止めようと腕を掴もうとしたのと同時に、睨みつけ因縁をつけてきたロシア人が水城の胸元を掴んだ。
その瞬間、言った通り水城は自分に触れたロシアの男を一発顔を殴った。
殴られた男はすかさず殴り返し、水城もまた殴り返す。
二発目は殴られた腹立たしさから力を込めて殴り、男は反撃するでもなくそのままノックアウトした。
ドン、と音を立てて床に落ちる男を見てカウンターにいた店主と周りの客は唖然としていた。
そんな客を無視し、水城はハッと二発で倒れた男を鼻で笑いながら見下ろした。
「ここはダメね…酔っ払いしかいないわ…近所へ聞き込みに行きましょう」
そう言って水城は溜息を吐く月島や目を丸くする鯉登のそばを通り過ぎ、店を出て行った。
「雪乃!」
水城は外を出ながら殴られて出る鼻血を鼻で思いっきり息を吐き出すのと同時に出した。
真っ白な雪に赤い血が散らばる。
唯一の店の聞き込みは無駄に終わった。
殴られ損となってしまったが、今はキロランケ達が寄ったらしきこの村での聞き込みを最優先とさせる。
犬は待たせるかと考えていると水城は鯉登に後ろから声を掛けられ、肩を掴まれてしまう。
「雪乃!大丈夫か!?」
鯉登は水城の肩を掴んでそのまま体を自分の方へと反転させる。
水城はその鯉登の行動に目を丸くし、鯉登は水城が殴られ心配そうに見ていたが水城の頬にある殴られた痕を見て眉を潜めた。
「なぜ殴った!」
「触ったら殴るって言ったので…」
「だからってあんな大男を殴る奴がおるか!お前は女なんだぞ!」
鯉登の言葉に水城含むその場にいた全員が『えっ』と思った。
鯉登を見れば至極真面目な顔をしており、冗談で言っているわけではないようだった。
(あ…そういえば…杉元は女だった…)
そして谷垣は気づく…水城の性別を。
いや、性別が女だというのは知っているのだ。
だが男顔負けの戦闘能力や普段男装しているため、どうしても女性だと忘れてしまう。
月島もそうなのだろう。
アシリパ達もそうだし、あの女に甘い白石にでさえ女扱いされていない。
水城自身、男装しているせいで男装して今まで女性扱いされたのは鯉登だけだった。
牛山は一応女として見ており誘われたはしたが、普段の扱いで女性扱いなど一切されていない。
自分を女として抱いていた尾形だって普段は女性扱いなどしない。
顔はいい方だ(と言われている)し、体だって牛山や尾形も太鼓判を押すほどだ(と思う)。
だからこそ自分を普通に女性扱いする鯉登に驚いた。
ちょっと、真剣に怒る鯉登もかっこいいな、とかは…思わなくも、ない、かな…とかは思ったり思わなかったり…
「私は…」
一応男装してるから女扱いはやめて!、と言いかけたその時エノノカが走ってこちらに向かってきているのが見えた。
その後ろにはチカパシが続き、二人はどこか焦っているようにも見えた。
「イ、イヌ…!イヌ盗られた!!」
「えええ!?」
鯉登に注意をしようと思った水城だったが、エノノカのまさかの言葉に水城は驚いた声を上げた。
エノノカとチカパシが祖父のところまで案内してくれたが、祖父の傍には犬がいた。
犬が盗まれたと聞いて全頭の犬が盗まれたと思ったのだが違うらしい。
「ロシア人話しかけてきた…凄く沢山おしゃべり…その人いなくなったらイソホセタの紐切られてた!」
イソホセタ、とは犬橇の先頭に繋がれているリーダー犬の事である。
イソホセタは賢く勇気があり操縦者に忠実な犬しかなれない、犬橇の中でも優秀な犬である。
リーダーだと一目でわかるよう、頭に『セタキラウ』という縦長の頭飾りがつけられており、その説明に犬たちを見渡して確かに一番目立つあの犬がいないのに気づく。
「"おしゃべりロシア人"も仲間だろう…良くある盗人の手口だ…そいつを探そう」
犬橇を使っている民族にとって、犬は移動手段でもあるが、家族でもある。
『おしゃべりロシア人』がしゃべり倒している間に犬が盗まれたのだろう。
犬を盗んで売るのなら一頭だけ盗むのは変だ。
そのロシア人の目的が分からないが、盗まれた犬を返してもらうためそのロシア人を探そうと動こうとしたとき、一人の男がこちらに近づいているのが見えた。
「あ!!"おしゃべりロシア人"だ!!」
その男を見たエノノカが男を指さす。
こちらに歩み寄ってきているこの男が『おしゃべりロシア人』らしい。
『ついて来い』
水城達は警戒していたが、おしゃべりロシア人と呼ばれた男はクイッと顎をしゃくり水城達に背を向け、先ほど出て行った酒場へと姿を消した。
水城達は全員月島へ『どうする?』と視線を送る。
地位的に少尉の鯉登がトップなのだが、実質このメンバーを仕切っているのは月島だ。
水城達の視線に気づいたのか、頷き、水城達は男についていくことにした。
酒場の中に入れば、カウンターにいた店主と水城が殴った男が一緒のテーブルに座っていた。
その男は水城に殴られた顔に布を当てていた。
おしゃべりロシア人の男はそのテーブルへ向かう。
どうやら店主が水城達に用があるらしい。
『犬を返してほしければスチェンカに出ろ』
店主は水城達を見ながら何か言っていた。
月島は聞きなれない単語に首を傾げた。
月島以外ロシア語は不自由なため、説明を受けていた月島に鯉登が『何を言ったのだ』と問うと月島は日本語に訳し答えた。
「どうやら杉元が殴り倒した男は何か賭け事の参加者でこんなに目が腫れては出られないから責任取れと言っています」
「責任だと…?雪乃を差し出せというのか」
『責任を取れ』という言葉に鯉登が反応する。
責任を取る=体を差し出せ、と思ったのか鯉登は水城を背に隠しギロリと店主を睨み凄んだ。
自分を庇う鯉登に水城は嬉しい反面庇われるほどもうひ弱な女ではないため、複雑な表情で鯉登を見つめる。
店主は鯉登の睨みにビクリと肩を揺らし身を引かせたが、そんな店主をよそに月島はそれを否定する。
「いえ…そうではなく…店の主人はこいつに大金を掛けていたらしいですね……で、犬を返してほしければこいつの代わりに参加しろと言っています」
鯉登は水城を女として見ている。
というよりは水城ではなく雪乃として見ている。
そのため周りは男扱いするが、鯉登だけは女扱いを隠さない。
女を隠そうとしない水城だが、胸を潰し男装を続けているためロシア人から見ても水城は男にしか見えない。
店主の言葉に水城は自分が殴った男を見る。
確かに、布を取れば腫れており重症ではないが賭け事をするには腫れが視界を遮って全力は出せないだろう。
しかし言葉が通じなかったとはいえ仕掛けたのはあちらだ。
店主の言葉に水城は鯉登の背中から出て座る店主を見下ろすように睨みつける。
「いいからさっさと犬を返せ…店ごと潰して宗谷海峡に浮かべてそのうっすい毛をむしり取って魚の餌に海に撒くぞこの薄毛野郎…――と伝えて、月島軍曹」
「あの犬は私が高いエサ代を出して雇っている…――すぐに渡さんとそのパヤパヤ頭を三枚おろしにして犬の餌にする――とロシア語で伝えろ月島軍曹」
「…難しい表現の通訳は出来ません」
鯉登に庇われ複雑そうだった表情も一変させ、日本語で店主を脅す。
しかし鯉登が水城の腕を掴んで自分の背中の後ろに戻し続けて脅した。
水城は今度は複雑な表情ではなくムッとさせながら鯉登の後ろ姿を睨む。
月島は『このすれ違いカップル面倒くさい』と思いながら通訳出来ない単語もあったので、拒否した。
「Та кого в ищете искали человека с наколками который лриехал с Хоккайдо」
真顔で上官と元一等卒に失礼なことを思っていた月島だったが、続けられた店主の言葉にハッとさせ水城達から店主へと振り向く。
「なに!?我々が探していた男…つまりキロランケ達は『北海道から来た刺青の男を探していた』…と」
店主はキロランケを知っていた。
あの時は他所者への警戒と日本軍を嫌っていたため言わなかったのだろう。
だが、彼らの事情が変わってしまった。
賭けに出るはずの男が突然現れた日本兵に負傷させられた。
店主はその責任を水城に取らせるつもりだった。
キロランケの情報だけではなく、入れ墨の囚人の情報も店主はちらつかせ水城達はスチェンカに参加することになった。
122 / 274
← | 目次 | 表紙 | →
しおりを挟む