月島が最後に入り、部屋のドアを閉める。
ガチャリとドアが閉まる音が静けさに響いたが、水城は今それどころではなかった。
「い、痛い…!音之進!痛いってば!」
鯉登は逃げないように水城の手首を掴んでいた。
感情が制御できていないのか、怒りの感情をそのままに力を入れてしまい水城が余りの痛さに声を上げた。
しかし水城の痛がっている声に気づかないように鯉登の力は弱まるどころか強くなった。
鯉登は部屋に入り表情をそのままに水城に振り返る。
「あれは本心か、雪乃」
鯉登が本気で怒っているのだというのは白石に天然記念物と言われた水城だって分かった。
怒っている鯉登から出された声はまるで絞り出したように低く唸り、水城はビクリと肩を揺らした。
あれは、というのは恐らく月島に言った罪悪感を感じているという先ほどの言葉だろう。
水城は本心かと問われ思わず俯いた。
それさえ許さないと言わんばかりに鯉登の手の力が強くなり、手首に掛かる力が強くなり水城は痛みに顔を顰めた。
「もう一度聞く…先ほど月島に言った言葉はお前の本心か」
腹立ち、怒り、苛立ち…鯉登の声色から読み取れる感情はこれらだろう。
水城は鯉登の苛立った声色に口を噤み、しかし、問いには頷いて返した。
水城が頷けば手の力は更に強くなる。
だが今の鯉登は水城が痛みに顔を顰めても気づかず水城を責める。
「何度言えば分かる!!私はお前以外の女などいらないのだと!!ただ私の隣にいてほしいだけだと何度言ったらお前に通じるんだ!!」
鯉登の言葉に水城は息を呑む。
分からない訳でも分かっていない訳でもない。
ただ罪悪感が強すぎるのだ。
グッと掴む鯉登の手が感情に合わせて強くなる。
もうか弱いだけの女ではなくなった水城にはそんなに痛くはない。
だが、痛く感じた。
それは鯉登の力が純粋に強いからか、それとも心の痛みからか…水城には分からない。
見た目はどうであれ、女を責める鯉登を月島は止めようかと考える。
しかし、それを水城が遮った。
俯いていた水城は鯉登への後ろめたさに押し潰されそうになりながらも震える声を零す。
「……そんなの…今更、言われても…」
「…なに?」
ポツリと呟かれた言葉に鯉登は更に声を低く唸るように零す。
聞こえていなかったわけではない。
小さい呟きも聞こえてしまうほどこの部屋は静まり返っており、鯉登や月島の耳にはちゃんと届いていた。
水城は鯉登を見ず俯いたまま続ける。
「私が死んだことにされて何年経ってると思ってるわけ?普通はもう私の事を忘れて新しい恋人を作っているって…結婚して子供も生まれてるかもって…思うものでしょ…それを今更想い続けたとか言われたって困るわ……勝手に義理立てして…私なんか忘れて見合いをすればよかったのよ」
「ッ!―――雪乃…!お前…っ!!」
俯いているから水城の表情も感情も分からない。
だが傍で聞いていた月島は水城の言い方にはどこか自棄になっているように聞こえる。
そして同時に『まずい』と咄嗟に鯉登の腕を掴んだ。
鯉登は水城の言葉にカッとなり頭に血を上らせた。
月島は殴ろうとする鯉登を止めるために腕を掴んだが、鯉登は頭に血を上らせようとも水城に手を上げるつもりはなかった。
鯉登は水城の言葉で全てを否定された気がした。
ずっと、ずっと、雪乃だけを想い続けて生きてきたのだ。
両親や雪乃の養母の周りからも雪乃が死んだと説得させられ、新しい恋を勧められた。
だが鯉登はずっと確かな証拠もないのにどこか雪乃が生きているのだと思い、ずっとその自分の勘を信じて今まで誰にも靡かずに自分の道を貫いてきた。
それをよりにもよってその想い続けてきた雪乃に否定されたのだ。
頭に血を上らせるなという方が難しいだろう。
「それもお前の本心なのだな!?今の私はもうただの過去に過ぎないというのか!?私はお前にとって邪魔な存在でしかないのか!!」
カッとなり、鯉登も思っていない言葉を投げつける。
興奮状態の鯉登に月島は水城を庇う。
「鯉登少尉殿!落ち着いてください!彼女は酒が入っています!思っていない事を言ってしまっているだけでしょう!」
「黙れ月島!!これは私と雪乃の問題だ!お前には関係ない!!」
酒が入った言葉や態度は本心の時もあるだろうが、酒が入っているから気が大きくなり思っていないことを言ってしまう事もある。
それを鯉登が理解しているかは分からないが今の二人は誰かが間に入らなければ今でさえすれ違っているのに更に修復不可能なまでに拗れてしまうほど危うい。
だが鯉登は自分と水城の間に入り込む月島を押しのけ、一言もしゃべらず俯いてばかりの水城に苛立ち肩を掴む。
「答えろ!!雪乃!!」
他の女に目もくれず雪乃を想い続けたのは自分の勝手だ。
だから水城の言う勝手に義理立てしたという言葉には反論できないし、するつもりはない。
だが、理解できても感情がそれを押しこんでしまう。
更に感情的になり責める鯉登に月島は流石に身体を張って止めようとしたが…
「だってそうでしょう!!!」
水城が声を上げる。
この部屋に入ってきて声を荒げる水城は初めてで、叫ぶように声を上げた水城に鯉登と月島は口をつい閉ざしてし水城を見下ろした。
2人の視線を感じながら水城は俯いたまま続ける。
「だって…私は音之進を裏切ったんだもの……もう、貴方に愛される資格なんてないんだもの……だから…貴方を裏切った私なんて忘れて…別の人と幸せになってほしかったのに…再会して…まだ…私を想ってくれていたなんて…誰が思うの……どうして…どうして私を忘れてくれなかったの…どうして…諦めさせてくれなかったの…」
嘘だ。
死んでも想ってほしいと心の底から願った。
他の女なんかに鯉登を奪われたくないと強く思った。
だけど現実として考えてみて、それは無理な事だと水城は諦めていた。
所詮、自分は兄によって死んだ事にされた人間だ。
死体となった時点ですでに川畑雪乃という女は鬼籍に入れられ、この世に川畑雪乃という女は消えた。
しかし、死んだとしても恋人を想うのは誰だって出来る。
死んだ恋人を想い、一生独身でいることだって可能だ。
だけど現実…鯉登には家のために子孫を残さなければならない。
鯉登の立場を考えれば一生独身などありえないのだ。
だから諦めた。
現実を見ているつもりで、水城は仕方のない事だと諦めて不安で押し潰されそうな気持に蓋をしていた。
しかし再会してみれば鯉登はずっと誰にも心を奪われず想い続け、生きていると信じ続けてくれたというではないか。
だからこそ水城は後ろめたさや罪悪感を感じている。
そんな純粋に思い続けてくれていた鯉登に対して自分はどうだ。
自分はたかが吉平と結婚したくないという理由から男装をし戦場でこんな消えない傷を残しながらも人の死を踏み台にして生き残り…吉平と尾形と寝た。
それだけでも…二人の男と体を重ねただけでも鯉登に対して裏切りだというのに、水城は尾形の子供を産み、愛し、育てている。
まだ吉平の子供でないだけマシなのかもしれないが、そんなの僅かな差である。
鯉登はずっと想い続けてくれたのに、自分は勝手に諦め他人に体を許し子を成した。
これで罪悪感を感じないわけがない。
こんな事言うつもりはなかった。
先遣隊として鯉登と共に行動を共にすることになったのは予想外ではあるが、アシリパを取り返す間だけの我慢だと思っていた。
アシリパを取り返した後の事は水城も分からないが、鶴見の部隊に留まるにせよ、コタンに戻るにせよ、これ以上鯉登に近づく気は水城には一切なかったのだ。
酒のせいだと言えばそうだろう。
だが、これこそ水城の本心である。
「雪乃…」
鯉登も通じたのか、吐き出された言葉に疑う気すらなかった。
裏切ったという言葉の意味が分からないわけではない。
確かに尾形と寝たことへの憤りはある。
だがそれは水城に対してはない。
そもそも後ろめたさや罪悪感と言えば、鯉登だってあるのだ。
鶴見から吉平にいいように使われたと聞き、自分がもっと気をつけておけばという罪悪感を鯉登だって感じている。
お互いがお互いに後ろめたさや罪悪感を感じ、更には鯉登は水城への想いゆえに大事にしすぎたためにお互い気持ちが通じていてなかった。
ただ、それだけだ。
それだけだと気づくと先ほどまでの怒りが収まった。
拒み続けられ内心焦りと悲しみが強まっていったが、それはただ怖かっただけなのだろう。
まだ自分の手を取ってくれるほどの距離ではないにせよ、水城の本音を聞き、鯉登は一歩水城に近づくことができた気がした。
後は話し合い、鯉登の気持ちも水城の気持ちもお互い受け入れ理解し合うだけだ。
そう思ったその時―――その場に水城が座り込む。
「!、雪乃!?どうした!!」
力を抜くように座り込む水城に鯉登と月島は目を丸くした。
鯉登は慌てて身体を抱きしめ俯き座り込む水城に駆け寄る。
具合でも悪いのかと心配になり背中を擦ってやろうと丸まっている水城の背に触れる。
「…っ」
その瞬間、水城は息を呑みピクリと身体を跳ねた。
それに鯉登は気づかなかったが、月島は気づき思い出す。
(そういえば…体が火照っていると言っていたな…)
水城は欲情していた。
怒りと後ろめたさに一時は収まっていたようだが、本音をぶちまけてしまい気が緩んだからか火照りが戻ったのだろう。
「鯉登少尉殿…お話があります」
「それは今でなければいけないのか…雪乃が心配だ…後にはできないのか?」
鯉登が水城の背中を撫でるせいか、それとも彼を求めているからか、水城は口に手を当て声を我慢していた。
それを吐き気と勘違いしているらしい鯉登は『トイレに行くか?』と心配そうに声をかける。
ただ、トイレに行って一人で遊んで済めばいいが…それでは解決できない。
話があると鯉登からしたら空気を読まない月島の声掛けに鯉登は眉を潜め月島を見上げた。
鯉登の焦れたような言葉に月島は表情を崩さず、しかし真剣な表情を浮かべ頷いた。
そのおかげか、鯉登は月島の話を聞く気になったらしい。
「雪乃…少しの間離れるが…大丈夫か?」
心配そうに声をかければ水城は俯いたまま無言で頷いた。
それが余計に心配を仰ぐ。
本当ならそばにいてやりたいが、月島の話を聞くと言った手前撤回はできないだろう。
水城をベッドに座らせ鯉登は後ろ髪を引かれる思いで月島と共に部屋を出る。
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