(19 / 29) 少女時代 (19)

雪乃は鯉登の部屋へ行く事は覚悟を決めた。
だが、その前に色々準備しなくてはと静子に言われ雪乃はお風呂へ入り、体の隅々まで清める。
髪を乾かしている間に母から色々と性行についてのアドバイスを教えてもらう。
髪を乾かした後寝巻きに着替え、風呂場を出てここで静子とは別れることになった。
静子は確認のようにアドバイスをもう一と告げた後、ギュッと娘の手を取る。


「いい?雪乃さん…閨事も大切だけれど、まずは仲直りしてからよ?」


これからの行為は立派な『夜這い』である。
鯉登とこれからそういう行為をするのだと思うと緊張して上手くできるか心配になった。
緊張と気恥ずかしさから雪乃はまっすぐ前を向く事ができず俯いていた。
今の雪乃の気持ちは静子も良く分かる。
静子と秋彦は好いた者同士ではないが、見合いから逢引を重ね、結婚を決め、初夜を迎えた。
好いた者同士ではないが、それでも秋彦との時間は切なく楽しかったのを覚えている。
今は傍にいる事が幸せだが、静子も初夜の時心臓が止まりそうなほど緊張していたものだ。
雪乃は経験者といえどその経験は生かせないだろうし、両者初めて同士だ。
きっと失敗してしまうかもしれないが、それはそれでいい経験になるだろう。
だが、それ以上に大切な事があるのを忘れてはいけない。
只今雪乃と鯉登は喧嘩中なのだ。
雪乃も年頃だし、鯉登もやりたい盛りだろうからきっと忘れてしまっているだろう。
まず仲直りしてから事に及ぶよう伝えれば雪乃は無言で小さく頷いた。
もう一杯一杯なのだろう。
そんな娘が可愛くて静子はフフと微笑む。
しかし…


「母さん?雪乃?こんな時間にどうしたのですか」


2人は声をかけられ引き留められた。
振り返ればそこには次兄の吉平が立っており、丁度吉平もお風呂に出たのか寝巻きに着替えて母と妹を不思議そうに見つめていた。(親戚が集まるため風呂は複数ある)
雪乃は何故か兄に見つかった事に内心焦っていた。
雪乃はそれを身内に見つかってしまった羞恥からだと思っていた。
静子は息子と鉢合い、焦るどころか笑みを浮かべる余裕を見せる。


「あら吉平さん、遅かったのですね」

「ええ…先輩方が中々放してくださらなかったですからね…ですが明日から隊に戻らなければいけないので帰らせていただいたのです…それで、お二人はどうしてこんな時間に入浴をなさったのですか?」


吉平は今日一日軍関係の人達に挨拶回りをしていた。
将校の息子としてそれ相応の地位を貰っているが、それでも人間関係は大事だ。
特にボンボンだの二世だのと煩く影で好き勝手言う輩は。
やっと解放されたのがついさっきで、やっと一日の汚れを落とせたのだ。
しかし時刻はもう皆寝静まっている頃…
普通なら女性が風呂を入る時間帯ではない。
それを指摘すれば静子は笑みを深めて答える。


「皆さんとお話していたのですがお話に夢中になってしまってこんな時間になってしまったのですよ…吉平さんが心配なさることではありません」

「なるほど………―――音之進くんのところへ夜這いに行くつもりでしたね」


兄はたったそれだけの母との会話で雪乃が鯉登のところへ夜這いに行くことを読み取った。
それには雪乃は目を丸くし『流石軍人だ』と感服する。
長兄を見て育って来たせいか、次兄は特に勉強に力を入れている。
頭がいいかは雪乃には分からないが母との会話でここまで読み取れるほどの頭脳はあるのだろう。
しかし母も母で負けていない。


「でしたらなんなのです?音之進さんも雪乃さんも想い合っています…夜這いは当たり前でしょう?」

「情けない…川畑家の女主人である貴女がそんな事ではどうするのですか…貴女は雪乃を諫めるべき立場ではありませんか…こうは言いたくはありませんが貴女や父がそんなだから兄が勘当されるまで甘さに気付かないのですよ」

「想い合っている者の手助けをしてはいけないのですか?私は母として娘の恋愛を応援しているのです…そもそもこの国は夜這いを禁じていませんよ」

「だからいいと?母さん…貴女は雪乃を世間の笑いものにしたいのですか?雪乃は川畑家の人間です…川畑家の人間が想いを寄せているからと夜這いをするなどはしたない行為を許したと世間が知れば私達どころか鯉登家の皆さまも笑い物になってしまいますよ」


二番目の子供は昔から頭が固い所がある。
規律を重んじる人間に育ったのは嬉しいが、度が越えるのは考えどころだ。
静子も母として女として負けじと言い合うが、吉平が埒があかないと母に守られるように後ろにいる雪乃の腕を掴み部屋に戻そうと引っ張る。


「吉平さん!お待ちなさい!!」

「待ちません…雪乃、聞きなさい……夜這いは卑俗な事だ…母さんに何を言われて唆されたか分からないが未婚の女性が安易に男性の寝室に行くものではない…お前は養子といえどもう川畑家の長女なのだ…その自覚をきちんと持ち、弁えなさい」


雪乃が何か言う前に吉平に遮られてしまう。
雪乃に説教じみたことを言いながらも吉平は雪乃の腕を引っ張り部屋に戻るために廊下を歩く。
母がどうにかして吉平から雪乃を離れさせようとするが、やはり息子といえど軍人なのかビクともしない。
一瞬夫を呼ぼうかと思ったが、流石に夜這いの事でこんな騒ぎになっていると知られるのは恥ずかしいというか…叱られる。
結局雪乃の抵抗する暇もなく、そして静子が雪乃を奪い返す暇もなく、吉平は雪乃を部屋に戻した。


「いいか雪乃…今日は一日お前の部屋の前で見張っているから後から夜這いしようと考えるなよ」

「お、お兄様…でも……せめて音之進と仲直りさせてください…今日音之進と喧嘩してしまったので…」

「そんなもの明日でも出来るだろう」


母が兄の背から心配そうに見ているのが分かった。
雪乃は諦めた。
これ以上騒ぐと父や鯉登だけではなく、親戚達にも迷惑が掛かると。
この家は鯉登家でもなければ川畑家でもなく、母の両親の家だ。
祖父母にも迷惑がかかると雪乃は抗うのを止めた。
しかしせめて喧嘩の仲直りだけはさせてほしいと頼むが、やはりキッパリと切り捨てられた。
言い返そうと思ったが、兄の鋭い目に口を噤む。
雪乃は昔からこの次兄の目が苦手だった。
無感情で冷たい目だと周りは言うが、雪乃にはどうしてもその奥にある黒い何かが怖くて仕方なかった。
何も言わない妹を部屋に残し吉平は襖を閉め、宣言通り見張るつもりなのか壁にもたれる。
そんな次兄に静子は不満そうに見つめたが、言い合っても埒があかないとその場から立ち去った。
吉平は母がどこに消えたかなど予想できたが、どうでもよかった。

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