雪乃は兄に部屋に閉じ込められてしまった。
そろりと襖を少し開けて外を見てみれば向かいの壁には吉平がもたれて見張っていた。
気配で盗み見しているのに気づいたのか吉平の鋭い目と合い雪乃は慌てて襖を閉めた。
(そんなに夜這いっていけないことなのかな…)
兄が見張っているのならどう考えても逃げ出すのは不可能だ。
雪乃は諦め、布団を敷いて寝る事にした。
母には悪いがもう食欲はなくなり、おにぎりは明日の朝食べさせてもらう事にする。
布団を敷き終わり、灯っている行燈へ視線へ向ける。
中の蝋燭の火に合わせて光がゆらゆらと揺れるのを何となく見つめていた。
村にいた時は夜這いはそれほど珍しくはなかった。
若い男が意中の女性、または年上の女性に夜這いをし、夜を共にする。
都会は分からないが、少なくとも雪乃のいた村は珍しくはない。
揺らめく光を見つめながら雪乃は枕を抱え膝を立てる。
ゆらゆら揺れる光を見て思うのは、幼い頃の事。
(……あのまま村に戻ってたら…私、梅ちゃんと寅次の取り合いになってたのかな…)
顔を埋め光を見つめながらそうぽつりと呟く。
雪乃には初恋の人がいた。
村の人間で、幼馴染で、村一番で好きな人。
幼馴染はあと一人いて、器量のいいとても可愛い女の子だった。
名は梅子といい、よく寅次と雪乃と三人で遊んでいた。
雪乃と梅子はいずれ旦那を貰って子を儲けて…などと二人で将来の事を話していたり仲は良かった。
―――好きな人が同じだということ以外は。
雪乃も梅子も寅次が初恋で、お互いそれを話さなくても気づいていた。
だけどまだ友達でいたいから気づかないフリをして、でも心に寅次を取られる事や友情の終わりの不安を抱えながら仲のいい友達を続けていた。
しかし雪乃はここにいる。
(きっと…寅次と梅ちゃんは恋仲になって、結婚して…子供も作るんだろうなぁ…)
ライバルがいなくなれば必然とそうなるだろう。
寅次はいい男だし、人柄もいい。
梅子もいい女だし、器量よし。
今の雪乃の好きな人は鯉登だが、それでも初恋の人は忘れられないものだ。
けれど今更村に帰って二人に会おうという気はない。
むしろあの村には帰れないだろう。
きっと村の人は受け入れてくれない。
(寅次…梅ちゃんを幸せにしないと枕元に立ってやるからな!)
梅子とはライバル関係だったが、大切な親友でもある。
グッと拳を握り、目の前に寅次がいるかのようにそう言って拳を突きつけた。
脳裏にまだ死んでないだろ、と苦笑いを浮かべる寅次が浮かび上がる。
「……もう寝ようかな…」
昔の事を思い出して雪乃は無性に帰りたくなった。
ホームシックになりかけた雪乃は時間も時間だと寝ようかと考える。
話す相手がいないというのは案外暇だ。
蝋燭の火を消そうとしたその時…外が騒がしいのに気づく。
襖に近づき耳を当てて盗み聞きすればその声は兄の吉平と鯉登だと気づいた。
「そこをどけ!」
「どけないな…こんな夜更けに女性の部屋に訪れるとは非常識ではないか」
「こげん夜更けに
女の部屋を見張ったぁ非常識じゃなかんか!」
「俺は兄として妹を心配して見張っているんだ…非常識な男の君と一緒にしないでほしいな…そもそも君たちはまだ未成年だろう…交際をどうこう言うつもりはないが節度を持って雪乃と付き合ってほしいものだ」
「ハッ!雪乃と付き合うなと
言た口でないを
言!認めちょらんくせに保護者面はやめてもらおごたっね!いいからそこを退いてもらおう!!おいは雪乃に話があっど!」
「生憎雪乃は君に話はないと言っていた…それに雪乃はもう眠っている…こんな夜遅く訪ねるような輩には分からないが寝ているあの子を起こすのは忍びなくてね…早く自分の部屋にお帰り願いたいのだが」
兄と鯉登が言い合いをしているのを聞いて不穏な空気に雪乃は慌てて襖を開けて姿を現した。
突然出てきた雪乃のおかげで手を出しそうだった雰囲気も驚きへと変わり、息子を宥めていた静子とユキはホッと安堵する。
吉平は雪乃が出てくるのは読んでいたのかそれほど驚きはなかったが、鯉登は怒りで我を忘れかけていたのか驚いた表情を浮かべていた。
「待ってくださいお兄様っ!私も音之進に話があります!」
「だから言っただろう、話なら明日でも出来ると」
「今日しか出来ん話もあると知らんのか
貴様」
「ではその今日しか出来ない話をしてもらおうか…今日しか出来ないのなら場所がどこであろう構わないだろう?」
「構うわ!なんで
貴様に聞かれんなならんど!普通は席を外すもんじゃろ!」
「非常識な輩にはそれ相応の態度があるって事だ…雪乃、明日帰るのだから早く寝なさい」
また言い合いが始まってしまった。
どうやら鯉登も母のユキに言われて雪乃の夜這いを待っていたらしい。
しかしいざ待ってみれば、吉平が雪乃を強引に部屋へ帰したと静子から聞かされ、頭に来て怒鳴り込んできた…ということだ。
静子も息子よりも甥の鯉登の味方らしく鯉登の言葉に賛同するように頷いた。
味方が一人もいないというのに吉平は姿勢を崩す事無く妹を守る兄として鯉登を追い払おうとした。
しかし、そんな吉平の裾を雪乃が掴み、二人の言い合いは止まった。
「お兄様…どうか私の我儘を許してください…私…音之進と話がしたいのです…」
「女一人の部屋、そして夜深い時間に男を部屋に迎え入れるということがどういう意味か…雪乃、お前は分かっていて言っているのか」
雪乃の我儘は兄として認めることは難しい。
妹とはそれほど親しいというわけではない間柄ではあるが、養子とはいえ、吉平は一応雪乃を妹として認めている。
いくら想い人とはいえ未婚の男女が一つの部屋で二人っきりという意味を理解していないような妹の願いに吉平は眉をひそめた。
静かな怒りさえ感じる吉平の問いに雪乃は静かに頷く。
「分かっています…ですから話が終われば音之進を部屋へ帰しますから…それで許してもらえないですか」
雪乃も今日の事を謝りたいと思っていた。
兄が許してくれないから明日にしようと諦めたが、鯉登は来てくれた。
鯉登の好意を無下にはしたくはなく、雪乃は鯉登と一夜を共にする事を諦めた。
しかし吉平はそれさえ許したくないのか『駄目だ』と言いかけた時、母と叔母に割り込まれてしまう。
「そうね!あなた達にはまだ早かったかもしれないわ!今日は仲直りだけしなさい!ね!静子さん!」
「ええ!お姉様!!雪乃さん、ちゃんと音之進さんをお部屋へ帰すのですよ!」
雪乃の提案を却下しようと口を開きかけた時、母と叔母が間に入り込んで阻止されてしまう。
あれほどせき止めていた流れが鯉登の方へ流れそうになり、吉平は焦りを見せる。
「は!?ちょ…母さん!ユキさん!!背中を押さないでください!!話だけだなんて僕は信用しませんよ!!雪乃は未婚の女性なのですよ!?兄の僕が見張っておかないと…!!」
「無粋よ吉平さん!あまり意地悪すると雪乃さんに嫌われますよ!」
「そうですよ吉平さん!さあ、今日どなたに挨拶しどのようなお話をしたのか母に聞かせてくださいな!」
しかし吉平も強いが母も強し。
愛する娘と息子達の邪魔をこれ以上させないと二人係りで吉平の背中を押してどこかへ連れ出してくれた。
鯉登と雪乃はあっという間の出来事に呆気に取られた。
「えっと…寒いし…入ろっか…」
「あ、ああ…」
嵐が去ったような静けさに2人は目を瞬かせて母と叔母を見送った。
暫く立ちつくしていたがビュウビュウ吹く冬の冷たい風が肌を撫で、雪乃は鯉登を部屋に入れる。
自分の部屋ではなく宛がわれた部屋ではあるが、想い人と二人きりというのは少し緊張する。
テーブルはもう畳んでいるため雪乃は座布団代わりに布団の上に正座で座り、鯉登に『どうぞ』と目の前を案内する。
布団の上に案内された事に鯉登は一瞬動きを止めたが、動かない鯉登にキョトンと小首をかしげる雪乃を見て毒気を抜かれたように肩の力を抜き雪乃と向かい合うように座る。
「……………」
「……………」
やはり二人の間には沈黙しか落ちない。
しかし話だけして鯉登を部屋に帰すと兄に言った手前何か話さなければならない。
「「あの…」」
それは鯉登も同じことを思っていたのか、雪乃と鯉登は声を重ねた。
お互い俯いていた顔を上げたので必然的に見つめ合い、雪乃も鯉登も目と目が合った瞬間頬を染めパッと視線を逸らした。
「な、なに…音之進…」
何か言いたい事があるのだろうかと思うが、そりゃあるかと自問自答する。
まずは鯉登の話を聞こうとそう呟けば鯉登はこういう時譲り合いになるから遠慮しない方がいいと思ったのか咳払い一つした。
「……今日はすまんかった…」
「え?」
「あん茶店ん時や…お前を怒らせてしまうようなこと
言てすまんかった…」
ユキにも怒られたのだろう。
謝るのが恥ずかしいが落ち込んでいるようにも見えた。
「私も…お茶かけてごめんね…」
「いや……雪乃が怒るのは当たり前や…
家族を侮辱されたんじゃしな…」
雪乃もその事を謝りたかった。
いくら怒ったとしても人にお茶をかけるのはやりすぎだと冷静になって気づいたのだ。
しかし、鯉登は首を振ってくれた。
苦笑いを浮かべる鯉登に雪乃は口を開きかけたが止めて俯いた。
しかし、どうしても気になったのもあり、鯉登に問う。
「あの時…なんであんな事言ったの?……さっきといい…どうして音之進は吉平お兄様を嫌っているの?」
それは兄に対しての態度だった。
鯉登が兄二人に対してあまりいい感情を持っていないのは知っている。
特に勘当された長男である菊之丞は毛嫌いどころではなく、軽蔑さえしていた。
菊之丞の場合は仕方ないが、吉平は軍人として父の名に恥じない働きをしているはずなのだ。
人としていいか悪いかは雪乃には分からないが、鯉登がそこまで嫌う要素があるとは思えなかった。
しかし自分が知らないところで何かあったのだろうかと鯉登に聞くも鯉登はその話題に触れてほしくなかったのか顔を険しくさせ雪乃から顔を逸らす。
「…雪乃、お前あいつをどう思もちょい」
「どうって……血が繋がってない私を妹として受け入れてくれてる人かな…いい人か悪い人かは分からないけど…菊之丞お兄様よりは好きだよ」
「……………」
吉平の事を聞かされ雪乃はそれに素直に答える。
その答えに更に顔を険しくさせる鯉登に雪乃はますます訳が分からなくなった。
しかしそんな雪乃をよそに鯉登はガシリと雪乃の肩を掴み真剣な表情で見つめた。
「よかか!これからあいつとは二人きりに
なっなじゃ!?」
「なんで?」
「なんでもだ!あいつと二人きりになっな!あいつがどげん甘か言葉を
言てん絶対付いて
いっなじゃ!?」
本当に意味が分からない。
事情を知らない雪乃が鯉登の言葉に思うとしたらこれだろう。
『いいな!?』と揺さぶる鯉登に雪乃は目を回しながら慌てて両肩にある鯉登の手に触れて止める。
「ち、ちょっと待って!!話が見えないよ!一体お兄様と何があったの!?」
「……っ」
ペチペチと手を叩かれ雪乃の言葉に鯉登は何も言えず息を呑んだ。
勢いが止まったのはいいが、今度は黙り込む鯉登に雪乃はどうしたらいいのか分からなくなった。
声をかけようにも鯉登が何を言いたいのか、何を考えているのか分からなくて下手に言えず、ただ鯉登が話してくれるのを待つしかなかった。
鯉登は何か言いたげに口を開くがすぐに閉じ、雪乃から逸らすように俯くが…決意を決めたように口を開いた。
鯉登は全てを話した。
あの夜に起こった全てを。
その内容に雪乃は目を丸くする。
「……うそ…」
雪乃は鯉登の言葉を信じなかった。
否、信じられなかった。
兄が自分に恋慕を抱いているかもしれないと、信じたくなかった。
血が繋がらないとはいえ、雪乃にとって吉平は兄は兄でそれ以上でもそれ以下でもない。
それが突然兄は自分に惚れているから気を付けろと言われてもどう反応したらいいか困る。
明らかに戸惑う雪乃に鯉登は落ち着くまで待っていてくれた。
「…待って…整理させて……一昨日お兄様は音之進に身を引けと言ってきたのね?」
「ああ」
「それでお兄様は私に想いを寄せてる…のよね?」
「…ああ」
「…ごめん…全く整理できないし理解もできない…」
頷くだけの鯉登の返事を聞くたびに雪乃は息が苦しくなる気がした。
こんなに言っても理解すらしない雪乃に流石の鯉登も腹が立ったのかつい怒鳴ってしまう。
「ないごて理解せん!あいつは雪乃を一人の
女として見てるんだぞ!?」
「分からないよ!!だって私音之進の事が好きなんだもん!!!」
「…っ!」
理解していない雪乃がもし吉平に横から取られたらと思うとあの時から気が気じゃなかった。
喧嘩した後だって亀裂に入り込まれるんじゃないかと怖かった。
それなのに雪乃は呑気にも吉平の想いなど気にも留めていない様子を見せる。
それが鯉登を苛立たせた。
だが、雪乃の言葉に鯉登は息を呑む。
息を呑む鯉登に雪乃は見上げ、グイッと迫る様に近づく。
「私はずっと音之進のことばっかり考えて…!音之進しか見れないのにお兄様の事なんて分からないよ!!今更お兄様の事なんて考えられないよ!!」
突然近づく雪乃に鯉登は思わず後ろへ身を引かせてしまう。
嫌だというよりは心の準備が出来ていなかったのだろう。
その証拠に鯉登は雪乃の熱烈な告白もだが、何より近すぎる雪乃の顔のアップに顔を赤くしていた。
そんな鯉登に気付かず雪乃は鯉登の片手を取って己の胸へと持っていく。
正確に言えば心臓で、胸元であるが…鯉登の手がむにっとしたものに触れ『ひぇ』と思わず零してしまったが、その目はちょっと寝巻きの隙間から見える雪乃の谷間に固定していた。
しかし雪乃は雪乃で必死なのか赤い顔から真っ赤になっている鯉登に気付かない。
「ほら…分かるでしょ?私音之進といるとこんなに鼓動が早く動くんだよ?こんなの…音之進だけなのに……私…音之進しか見えないんだよ…」
確かに鯉登の耳にドクドクと鼓動の早い音が聞こえるが、それは己の心臓の音である。
だが、鯉登が冷静だったのなら雪乃の早い鼓動も感じ取れただろう。
しかし今の鯉登は16歳にしては豊満な胸に集中しており、頷く事しかできなかった。
「わ、分かったから手を離さんか!!はしたなか!!」
「あ」
雪乃は叫ぶ鯉登の言葉でやっと破廉恥な事をしている事に気付く。
好きな人に胸を触らせた事に気付き雪乃は頬を赤らめ手を離した。
不穏な空気が散って微妙な空気になり、雪乃も鯉登もついお互いの顔が見れず俯いてしまう。
鯉登はチラリと雪乃を見る。
俯いているため胸元が見えてしまったが、あの柔らかい感触を思い出してしまい慌ててまた視線を逸らすもそっと雪乃の手に触れる。
鯉登の手が触れると雪乃はビクリと肩を揺らしたが拒否はしなかった。
拒まれなかった事にホッと安堵しながらもそもそと話し始める。
「…おいも…」
「?」
「おいも雪乃の事が好いちょっ!」
鯉登が描いた告白とは全く異なるが、雪乃は想いを告げてくれた。
だからこそ鯉登はそれに答える。
本当はもっと雰囲気を大事にして鯉登から告白するつもりだった。
予定が大幅に変更となったし、男として格好が悪い展開になってしまったが、まあ、お互い片思いから脱出できるのならいいと思う事にした。
顔を上げ雪乃の顔をしっかりと見て鯉登は告白する。
あとは雪乃が頷いてくれるだけ…そう思った。
しかし―――
「あ、待って、まだ駄目」
雪乃の言葉に鯉登は呆気に取られ雪乃を見つめた。
明らかに両想いだったはずなのになぜか雪乃からはお預けを貰った。
ここではっきり『ごめん』と言われないだけマシだと思うのか、それともはっきり断ってくれたほうがいいと思うのか…それは分からないが、鯉登は思わず『はあ?』と声を零してしまった。
そもそも告白してきたのは雪乃の方なのに、なぜ自分の告白はお預けを貰わなければならないのか…鯉登は解せなかった。
「………待てってなんじゃ…告白してきたんなお前の方じゃろ」
「そうじゃなくって……その…確認っていうか…なんていうか…」
「確認?今更確認すっ事なんちなか」
「あるよ……私の過去を聞いて…それから判断してほしいの…」
「…!」
告白しておいて自分への想いは応じないつもりか、と鯉登はむっとさせた。
不機嫌な鯉登だったが、雪乃の言葉に目を丸くする。
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