(141 / 274) 原作沿い (141)

話はとりあえずここまでとし、月島に水城が起きたら知らせるよう言われたので鯉登は月島の元へ向かった。
その間月島が持ってきてくれた朝食をもそもそと一人で食べていた。
暫くすると月島ではなく、なぜか鯉登だけが戻ってきた。


「あれ…音之進だけ?」


鯉登の後ろを見ても月島の姿はなかった。
呼びに行ったのに月島の姿がない事に不思議そうに鯉登に声をかけたが、鯉登は顰め面を見せる。


「問題が起こった…来てくれ、雪乃」


不機嫌な顔を見せる鯉登に水城は首をコテンと傾げた。
言われた通り鯉登についていくと、連れていかれたのは一階の酒場だった。
丁度朝食の時間を過ぎたからか、客がおらず、ガタンとした店内には店長が座って月島達と対峙していた。


「一体どうしたの…?」


中には谷垣もおり、水城が最後となった。
どうやら休んで回復したらしい。
月島達の元に歩み寄りながら水城がそう問えば、月島も鯉登と同じく不快そうに眉を潜めながら後から来た水城に教える。


「今この男に盗まれた犬を返すよう話をしていたのだが…その約束は反故にさそうになっている」

「はあ!?」


水城は思わず声を上げて驚いてしまう。
犬を盗んだのは腹立たしいが、犬達を素直に返してくれるなら毛をむしり取ってワカメスープに入れて本人に飲ませて返還してやるくらいで済ませる程度だった。
しかし、聞けば、水城達の試合は周囲に知れ渡り、そこで刺青の男に勝てる奴らが現れたと噂になっているらしい。
その噂を聞きつけてかは分からないが、刺青の男は今夜のスチェンカに参加するという。
そして、大勢が水城達の勝ちに賭けているのだとか。
それを聞いてまず思ったのが『そんな事知るか』である。
水城達は勝負をするためにはるばるこんなところに来たわけではないのだ。
本来ならその入れ墨の男の情報を聞くだけで、その男と試合をするためにスチェンカをしたわけではない。
しかし話は続きがあった。


「『お前らがワザと負けてくれれば俺は大勝ち出来る』と言っている」

「………」


水城は月島の言葉に黙り込み、表情を消した。
そんな冷めきった表情に気づかず店主はニヤニヤと笑っている。


「そんなことより犬を返す約束は?」


チカパシが一向に犬を返そうとしない男にそう問う。
そのチカパシの問いに男は笑った。


「『八百長が終わったら返す』と言ってる」


訳している月島も腹立たしそうに声を低くさせ、眉を潜める。
確かに1試合したら返す、試合したら明日返すなど、明確な約束はしていない。
ただスチェンカに参加しろと言い、それを水城達は承諾しただけだ。
昨日参加しただけで犬を返すとも、囚人の情報をやるとも約束していない。
だが、それはただの屁理屈だ。
参加したら犬は返すと言った以上、約束は守るべきである。
今更追加の条件を出されても水城は知った事ではない。
水城は月島の通訳を聞きヘラヘラと笑っている店主へ無言で歩み寄り…―――殴り飛ばしてうつ伏せに倒れた店長の貴重な毛を無遠慮にブッチンブッチンと抜いていく。
痛みと貴重な毛を毟られ店長は『Aaaaa!』と叫んだ。
そんな叫びなど気にも留めず、谷垣はエノノカへ声をかける。


「北海道のアイヌは刑罰で鼻や耳を削ぐものがあるそうだが…樺太アイヌはどうなんだ?」

「指の先っちょきるよ!」


樺太に来て、同じアイヌでも異なっている部分があると知った谷垣はエノノカに樺太アイヌの処罰方法を聞く。
樺太アイヌの窃盗者に対する刑罰では、初犯は人差し指を第一関節から切り落とす。
そして再犯するたびに他の指を斬っていくという。
エノノカはそう説明しながら自分の指を斬る動作を見せる。
鯉登も黙って水城が毛を抜くのを見守っており、子供達も止める様子も怯える様子もない。
この場に店主の味方は誰一人いなかった。
だからか、店主はロシア語で何か必死に話す。


「俺達が刺青の男を追っていたことを本人にバラすと言ってるぞコイツ」


それを月島が訳す。
しかし、そんな脅しに怯える人間などここにはいない。


「お前…交渉の相手を間違えたな」


水城は静かに、しかし低くそう囁いた。
その静かな怒りは言葉が通じなくても店主にも通じたのか、冷たく見下ろす水城に顔を青くさせる。


「月島軍曹…この後の我々の予定をこいつに伝えろ…まず犬を取り返すまでお前の指を斬り落としていく…お前を裏庭に埋めた後我々はスチェンカの会場へ行き刺青の男を確認する…スチェンカはやらずに男を森へ連行し射殺して皮を剥ぐ」


水城が押さえ込んでいる店主を鯉登も見下ろしながら冷たく言った。
これは脅しであった。
犬を返す約束を反故した罪を罰した後殺して埋める、という脅しだった。
そして店主の脅しは効かないという意味も込められている。
店主は想像した反応と全く異なることに焦る。
侮っていたのだろう。
所詮は少数の軍人達だと。
女と子供も交じっているので余計に侮っていたのだろう。
しかし蓋を開けてみれば脅しで引く奴らではなかった。
むしろ逆に脅される立場となってしまった。


『お前たちが持っていた写真の男の情報がまだある!!』


苦し紛れのように店主はそう叫んだ。
写真の男、という言葉に水城から渡されたキロランケの写真を取り出して店主に見せる。
その写真に店主は水城に押さえつけられながら何度も頷いた。
しかし、そう容易く信じられるほどこの店主に対して月島達の信頼度はないどころかマイナスであった。
鯉登は延命のための嘘だと思い真に受けず軍刀を抜く。


「人差し指からだ…雪乃は離れていろ…月島、手を押さえろ」


鯉登の言葉に月島は『はい』と断る事もなく水城と店主の元へ歩み寄ろうとうした。
月島も約束を破り身勝手に八百長をやらせて儲けようとしていた。
それに腹を立てたのだろう。
しかし、それを水城が手で制して止める。


「ちょっと待って…本当に何か知っているかもしれないわ」


まさか水城に止められると思っていなかった鯉登は微かに目を丸くさせた。
それは鯉登だけではなく、月島達も意外そうに水城を見つめていた。


「この場を逃れたい一心ででまかせを言っているに決まってる」

「俺もそう思う…一切信用できない」

「こいつの口車に乗ってまた『賭けスチェンカ』なんぞ時間と労力の無駄だ」


月島だけではなく谷垣も店主の言葉を信用していない。
否、水城だって心から信用しているわけではないのだ。
疑う視線をそのまま店主へ向ける男達をよそに水城はエノノカへ視線を向ける。


「ごめんね、エノノカちゃん…でも…アシリパさんの行方に繋がる情報として万にひとつでも可能性があるなら…私は無視なんて出来ない」


水城は店主を信用してはいない。
ただ、一つでも情報があるのなら、信用がない相手からでも信じたかった。
エノノカは水城達がアシリパを追っているのを聞いていたので水城の言葉に首を振ることはできなかった。
悲し気に頷いたエノノカに水城はもう一度『ごめんね』と謝る。


「…………」


そんな水城を鯉登は軍刀を収めながら眉を顰めて見つめる。
水城がアシリパに対して特別な感情を抱いているのは理解はしてはいる。
ただ、理解しているのと、それを飲み込めるのとは違う。


(…気に食わん)


金属音を小さく立てながら軍刀を収めた鯉登は心の内でそうこぼす。
はっきり言って理解はしているが、嫉妬しないとは言わない。
鶴見の事を棚に上げて鯉登は水城のアシリパへの心酔さに嫉妬していた。
やっと再会して恋が実り、薬のせいとは言え恋人らしく身体を重ねることができた。
なのに水城はアシリパの事になると今のように誰が見ても信用が出来ない情報を信じてしまう。
それが気に入らなかった。
それはただの男の嫉妬だと自分でも分かっているから口にもしない。
ただ、ちょっと態度にしてしまうのは許してほしいところだが。
付き合いが長いとはいえ、恋人としては色々ありすぎてまだほぼスタート時点に立っているのだ。

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