(165 / 274) 原作沿い (165)

吹雪は止む気配はなく、老夫婦の言葉に甘えて今日はこの家に厄介になることした。
家はそれほど広くはなく、部屋も老夫婦の寝室と娘の一部屋だけしかない。
そのため、空いている娘の部屋に雑魚寝となった。
とはいえ、娘の部屋には当然だがベッドが一つしか置かれておらず、ベッドは子供達に譲り、大人は床で寝る事になった。
久々に個室ではなく皆で雑魚寝なので約一名注意しなければならない人物がいる。
月島は正座し、注意人物もその前に座らせる。


「いいですか、鯉登少尉殿…今回は全員で雑魚寝ですので無暗に発情しないでくださいね…子供もいる事をちゃんと理解してください」


その注意人物とは鯉登だった。
鯉登は呼ばれて素直に座ったが、分かり切った事を言われてカチンと来た。


「分かっている!発情とはなんだ!!いくらなんでも失礼過ぎないか!?私は少尉だぞ!?」

「少尉なら少尉殿らしくしてください…大体発情じゃないならなんですか、風紀が乱れるから人前で睦み合うのはやめてくださいとあれほど言ったのに何回も杉元にキスをするのは一体誰ですか」


何度も何度も注意すれど直らない鯉登の恋人溺愛には鶴見厨同等に頭を悩ます問題である。
いや、問題にするほどの事ではないが、こう目の前でイチャつかれて穏やかな顔を出来るのは鯉登と水城の身内のみだろう。
時代が時代ならば『リア充が』と唾を吐かれても仕方ない。(彼女無し妻無し軍曹談)


「ぐ……し、仕方なかろう…雪乃が可愛すぎるのだ…!!」

「他人のせいにしない!」


親のような月島の言葉に鯉登は『ぐぬぬ』と唸る。
まさにぐうの音も出ないとはこのことだ。
水城のせいと本気で思っていないが、傍に死んだと言われながらも想い続けた女がいるのだ…触れたいと思うのは仕方のない事だと思わないのだろうか。
しかしそれさえ分かってもらえなかった。
まったくこれだから独り身はと思わなくもない。(でも怒られるから言わない)



◇◇◇◇◇◇◇



鯉登が母親…部下に叱られている一方、水城は一人テーブルに向かっていた。
テーブルは食事をしていたリビングしかなく、そこを借りて何かに向かい合っていた。


(うーん…なんて書けばいいんだろう…)


テーブルに置かれて水城の手元にあるのは手紙だった。
水城は手紙を書こうと場所を借りたのだが、まだその手紙は白紙のままだった。
水城は相手になんて書けばいいのか分からなかった。
色々話したいことが沢山あるのに。
沢山ありすぎて何から書けばいいのか迷っていた。


「雪乃?何をしているのだ?」


うんうんと雪のように真っ白な手紙を見つめて頭を悩ませていると後ろから声が掛けられた。
1人だったため声を掛けられ水城は驚いた表情で後ろを向く。
そこには鯉登が立っていた。


「あれ、どうしたの?軍曹達と準備してるんじゃなかった?」


寝るための準備をしていたはずの鯉登が現れ水城は首を傾げた。
鯉登は水城の問いに向かいに座りながら『うぐっ』と言葉を詰まらせ気まずげに目線を逸らす。


「…居づらくなって避難してきたんだ」

「居づらく?…もう、また月島軍曹に怒られる事でもしたんでしょ」

「…………」


そう言いながら水城は鯉登の分の飲み物を用意するため席を立つ。
水城の言葉に言い返せない鯉登は無言で肯定した。
それに水城は鯉登に背を向けながらクスリと笑った。
楽しそうに笑う気配を感じながら鯉登はチラリとテーブルの上に置かれている物を見る。
そこには何の変哲もない文字が書かれる前の手紙が置かれていただけだった。


「…誰に宛てた手紙を書くつもりだ?」


その真っ白な手紙を見て鯉登はあっという間に不機嫌と変わる。
水城が手紙を書く相手に嫉妬しているのだろう。
嫉妬を隠しもせずむすっとさせる恋人に水城は苦笑いを浮かべ、鯉登の前に飲み物を置いた。
奥さんに用意してもらった飲み物で、スビテンというロシアの飲み物である。
スビテンはロシアで体を温めるための飲み物で、お茶が広まる前はこれが良く飲まれていた。


「音之進、妬いてるでしょ」

「当たり前だ…私に隠れるように宛てて書く相手だぞ…妬かないわけがないだろ」


月島に通訳してもらい、水城はここを借りた。
寒いだろうからと暖炉やお湯を沸かしてくれて、飲み物だって用意してくれた。
小腹がすいたら食べなさい、とスーシュカというお菓子も用意してくれた。
待遇の良さに気後れしてしまうが、どうも水城を娘と重ねているようだった。
重ねるほど共通点はない。
人種も顔つきも体つきも目や髪の色、声や仕草だって全く異なっているのに、だ。
同じ妙齢の女性というだけで重ねるほど両親は娘を心配し恋しいのだろう。
水城は黙ってその行為を受け止めることにした。
むすっとさせる鯉登に水城は肘をつきながら目を細めて笑い…


「お母様に妬いてどうするの?」


そうこぼした。
その言葉に鯉登の表情は不機嫌な表情から唖然とさせ、目を丸くして水城を見る。
水城はそんな鯉登に白紙の紙を見下ろす。


「これね、お母様に宛てて書こうかなって思ってたの…でもいざ書こうと思ったらさ…色々書きたい事がありすぎて書けなくって…」


『困っちゃった』と眉を下げて笑う水城に鯉登は水城の手に触れて握りしめる。
その手に水城は紙から鯉登へと視線を向けた。
鯉登はまだ驚いている表情を浮かべてはいた。
水城の言葉に信じられない気持ちなのだろう。


「それは本当か…」


確認の言葉に水城は頷いた。
その頷きを見て鯉登の目は涙が浮かび、グッと水城の握る手の力を入れる。


「そうか…そうか…やっと…」


鯉登は胸が熱くなっていた。
出来るだけ静子の事は話題にしないよう気を配っていたつもりだった。
でも本心は説得したくて仕方なかった。
しつこいと怒られても呆れられても構わないから、ちょっとでもいい…少しでもいいから母に情けを向けてほしかった。
かと言って水城の心情を理解していないわけではない。
自分よりも水城の方が静子の事を考えて想っているはずなのだ。
だけど今までの出来事が、しがらみが、それを拒ませる。
母を大切に思うからこそ水城は母に会えないのだ。
悪いのは水城ではなく、そうさせる吉平だ。
だからこそ鯉登は複雑な思いだった。
だけどやっと水城は母と向き合おうと思えるようになった。
これは大きな第一歩だ。
これまで水城も鯉登も一歩ずつ前に進んでいる。
感極まるように呟く鯉登に水城は手を握り返した。


「ごめんね…心配かけさせちゃって…」

「まったくだ…だが…よかった…これで叔母上も安心なさるだろう…」


そう言って笑う鯉登の笑みは安堵が見えた。
平然としていたが、この様子からではよほど気を揉んでいたのだろう。
そう思うと罪悪感が強くなる。
鯉登を心配させたのもそう。
そして、


「でも…まだ会うのは無理かな…ごめん、今は手紙だけしか書けない…」


会ってやれない事への罪悪感もあった。
鯉登としては母と自分の再会と元の関係に戻ってほしいのだろうが、今の水城には手紙が限界だった。
会う気がないのではなく、今は会えない。
アシリパの事もそうだし、息子の事もそうだが、何よりまだ水城には心の整理がついていなかった。
母と会うのは簡単なのだろう。
鯉登に会いたいからとセッティングしてもらえれば時間が過ぎるのを待つだけで母に会える。
だけど今はそれが怖い。
謝る水城に鯉登は手を取って、その手に口づけを落とす。


「謝る必要はない…手紙だけでもいいのだ…今の雪乃に手紙でも書いてもらえただけでも大きな一歩なのだ……雪乃が叔母上に手紙を送ろうと思ってくれた事に私は感謝している…ありがとう…」


その言葉に水城は目頭が熱くなったが目をギュッとつぶって泣くのを我慢した。
ずっと心苦しかった。
鯉登に優しくされるたびに、母の事も考えて、鯉登を想えば、母を想えば、こんな現状が正しいわけではないと自分を責め続けた。
その必要がないのに、だ。
水城が自分を責める事はないのだ。
水城も被害者の1人なのだから。
しかし、自分がもっと強かったらと水城は思う。
もっと強く心をしっかりと持って兄に対抗していたらこんな事にはならなかったのだと。
自分が弱かったから母は全てを失ってしまった。
自分さえ拾われなければ…あの時山賊に殺されていれば…と自分を責めていた。
それが鯉登の言葉に救われた気がした。


「しかしよく決心してくれた…実を言うとこの旅の間に思い返すのは無理かと肝を冷やしていたのだ」


考えてほしいとは言ったが、水城が余りにも何も言わないため樺太での旅でこの問題を解決するのは無理かと諦めかけていた。
だから感激もそうだがら、驚きも強い。


「今日、遭難したでしょ?あの時死にかけてさ……このままアシリパさんや坊だけじゃなくて…お母様に会えないまま死んでしまうのかなって思ったの…今は会えないけど…それは嫌だったから…」


水城が手紙を送る気になったのは今日の出来事がきっかけだった。
いや、元々鯉登に言われた時に考えていたのだ。
会うのは無理でも手紙なら書けるのではないか、と。
でも中々踏ん切りがつかなくて、先延ばしにして今に至っている。
死にかけた事で水城はこのまま死んで一生母に生きていたことを伝えられないのかと思ったら居ても立ってもいられず、真っ白だった紙にやっとインクを染み込ませる気になったのだ。
それを聞いて鯉登は『そうか』とだけ返した。
これ以上言うべき事はないと思ったのだ。
理由がなんにせよ水城が母と向き合えるほど心の余裕が出来た…それだけで十分だった。


「ただ…まだ迷ってることがあって…」

「迷ってること?」

「うん…お兄様の事なんだけど……お母様には言わないでおこうかなって…」


悩み、とは兄である吉平の事だった。
母を思えば兄の事は伏せた方がいいと水城は思っている。
しかし、そうはいかない理由もある。


「しかし…それではこれまでの事をどう説明するつもりなのだ…ただの反抗期というだけでは説明がつかんだろ」

「そうだけど…だって、言えないじゃない…お兄様が私を女として見ていて自分の趣味のために自殺したことにして軍人として戦場に連れ込んで犯していたなんて…それこそもっとお母様のお心が病んでしまうわ…」


きっと軍にいたことは隠し通せる事ではない。
見た目で隠したとしても根本に刷り込まれた物までは隠し通せるものではない。
母の事を思えば兄の事は隠すべきだ。
もうこれ以上母を苦しませたくはないし、母の負担が増えるだけだ。
だが、兄なくして水城の今の現状を話すのは難しい。
なぜ姿をくらませたのか、なぜ身体中傷だらけなのか、なぜ今まで会いに来てくれなかったのか。
それを納得できるほどの嘘を思いつかない。
川畑雪乃は将来愛した男性と一緒になることが決まっている幸せな令嬢だったのだ。
それが急に傷だらけの女に変わった。
そんな劇的な変化に何もないでは通じないだろう。
鯉登も静子の現状を知っているため無理にとは言えなかった。


「いつかは言わなきゃいけないことかもしれない…でも、今は言えない…だからあえて何も書かないことにしようと思ってる…だから音之進も聞かれたら言わないで…誤魔化してなんて言わない…だけど…言わないで…お願い…」


鯉登を見つめ水城は懇願する。
鯉登に嘘を吐かせる事に抵抗がないと言ったら嘘になる。
だけど今は嘘を吐かなければ水城は母に手紙なんて出せない。
鯉登もせっかく水城が母と向き合えるようになったのに、断って振り出しには戻りたくないと思った。
それに鯉登も静子の心にこれ以上波風を立てたくはなかったため、鯉登は頷いて返す。
頷く鯉登に水城はホッと安堵の笑みを浮かべる。
鯉登も水城の笑顔を見て胸を撫でおろした。


「ところで…聞こうか迷っていたことがあるのだが…」


暗くなった話題から逸らすように鯉登は以前から気になっていた問いを水城にする。
聞こうか迷っていたことと聞き水城は小首を傾げた。
鯉登は『なに?』と首を傾げる水城に少し間を置いて続けて問う。


「息子の名前を聞いてもいいだろうか」


その言葉に水城は目を見張って鯉登を見た。
目を見張る水城に鯉登は触れていた水城の手を強く握り真っ直ぐ見つめた。


「雪乃が子供を大切に思っていることは分かっている…溝を埋めるのに時間がかかるということも…だけど子供の名前が分からないままでは前に進めない気がするのだ」


水城が息子の名前を言わないのは自分の決意をまだ信用していないからかと思っていた。
水城は尾形との間に出来た子供に対して愛情を与えている。
きっとこの想いは通じているのだろう。
だが本当の父親が尾形という事で気後れしているのかもしれないと鯉登は思っていた。


(そういえば…教えていなかったっけ…)


水城はそこでまだ息子の名前を教えていなかった事を思い出す。
元々水城は息子を名前ではなく長く呼んでいた『坊』と呼ぶことが多い。
無意識ではあるが、息子を利用されることを恐れていたのだろう。
だから鯉登に言われるまで気づかなかった。


(…教えてもいいのだろうか……あの子の名前を聞いて…音之進は怒るかしら…)


息子の名前は両親から一文字ずつ貰った。
勝手に貰ったというのもあるし、何より、息子は鯉登の血を継いでいない。
鯉登からしたら嫌っている相手の子供に水城の両親から一文字ずつ貰ったと聞いてどんな気持ちになるのだろう。
水城は言うのを躊躇した。
それを感じ取ったのか、鯉登はグッと握り締める力を強くした。


「私は子供を引き取ると決めた以上その子の父親のつもりだ…父親として関わらせてもらえないだろうか…」


その言葉に心が震えた。
疑っていたつもりはないが、実感がなかった。
ずっと静秋を一人で育てるつもりだったし、何より父親は欲しいが夫は望んでいなかった水城は息子の父親という存在に実感がわかなかった。
だけど鯉登のその言葉に彼が静秋の父親になる覚悟を感じた。
水城は子供の名前を変えるつもりはない。
しかしもしも鯉登が否定しても話し合いを重ねて納得してもらう覚悟を決めた。


「静秋よ…あの子の名前は静秋…静かな秋って書くの」


鯉登はやっと息子の名前を知る。
静かな秋、と聞き思い浮かぶ漢字に鯉登は『そうか』と言うよりも驚いたように微かに目を見張った。
しかし、すぐに目を細め笑った。


「静秋…叔父達の名前を貰ったのだな…良い名前だ…」


鯉登は認めてくれた。
静子と秋彦の名を継いだ子供は自分の血が継がれていないのに、それを認めてくれたのだ。
水城はその言葉だけで胸が一杯になった。
しかし不安はまだ拭えない。


「…そう思ってくれるかしら…お父様も…お母様も……結婚もせず相手も愛さず子供を産んだ娘なのに…勝手に名前を貰って…不肖の娘の子供なんかにと怒らないかしら…」


鯉登に認められて安心したが、まだ父や母に認められるか分からない怖さがあった。
自分は不肖の娘だと水城は思っている。
だからそんな娘に名前を勝手に使われて怒らないのだろうかと。
アシリパや白石にも吉平にされたことは言えなかった。
だけど鯉登は事情を知っているし、吉平の事や自分の事だってよく知っている。
だから二人には打ち明けれない不安も鯉登には話せた。
目を伏せ不安がる水城に鯉登は席を立ち水城の隣に座り肩を抱く。


「そんな事ない…叔母上も叔父上も…お前の子供を邪険に思うはずがない…例え相手が誰であろうとお前の子供ならばあの人たちにとっての孫には変わらない…愛している娘の子供に自分達の名前がつけられると知れば叔母上も叔父上もきっと喜ばれるだろう…」


アシリパや白石にも言われた言葉だ。
彼らの言葉に水城は胸の内の不安が拭われた気がした。


「そうかしら……そうだったら…嬉しいな…」


不安はまだあるが鯉登の言葉に安堵し、水城は彼に寄り添いそう囁いた。

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