暗い話になり、その場の空気は淀んだ。
エノノカとチカパシが室内にいるのに飽きて外に遊びに行ってから空気が緩和された気がしたが、しかしそれでも空気の悪さは変わらない。
谷垣は淀んだ空気に居づらさを感じていた。
特に鯉登と水城の間である。
(まさか杉元が鯉登少尉の婚約者だったとは…世の中何が起こるか分からんな…)
見つめ合う…いや、まるで睨み合うような二人を谷垣はそう心の中で呟きながらハラハラと見つめる。
水城と鯉登の事はある程度病院で鶴見から聞いていた。
元々は谷垣が疑問に思ったからだった。
なぜ一等卒で別師団の水城とすれ違うように軍に入隊した鯉登が水城の元に足蹴く通うのか…不思議に思ったのだ。
鯉登と水城…接点が見つからなかったから。
驚いた事に水城と鯉登は元々恋人同士で将来を約束した仲だったというではないか。
(俺はてっきり尾形上等兵と復縁するのだと思っていたが…)
尾形が水城を殺そうとする前までは谷垣も水城と尾形が夫婦となるのだと思っていた。
愛情がなさそうな二人だったが、険悪というわけでもなく、度々尾形は水城を抱いていた。
水城はアシリパのコタンで暮らすつもりだったようだし、尾形も脱走兵というのもあり、アシリパの望む通り静秋の事を考えて父親役として尾形と一緒になるのだろうな、と何だかんだ言いつつ傍にいる二人を見て思っていた。
それが…実は水城には鯉登という婚約者がいたと聞き谷垣は驚いた。
しかし、この旅で見た彼らを見て納得もしてしまった。
あの馬鹿ップr…仲睦まじい姿を見せられては納得するしかない。
正直、『俺でも流石にあそこまでデレデレにはならんぞ…』と思ったが、マタギは空気が読める子だから言わない。
「エノノカになにすんだッ!!」
チカパシの声に谷垣は外へ視線を向ける。
チカパシだけではなく、外から聞こえる騒がしさに水城達も気づいたのか、全員家の外へと出る。
「エノノカ!!」
外に出れば大きな木の周りに人が集まっていた。
その中にヘンケが血相を変えて孫の名を叫び駆け寄ろうとするが、周りのアイヌの男達に止められていた。
『来るな!!刺すからな!』
水城達も人集りが気になって覗いてみると、木の下にエノノカの首元に刃物を突き立て、エノノカを盾にしているアイヌの男がいた。
その男に向けて二人のアイヌの男が銃を向けている。
しかし相手は小さな女の子を人質にとっており、銃を向けている男達は容易に近づけないし撃てずにいた。
「なんだあの男は!」
「あいつ人を殺して逃げてきた」
鯉登もエノノカを人質に取られぎょっと驚愕し、鯉登の言葉に傍にいたアイヌの男が教えてくれた。
「後ろから回り込むぞ!」
エノノカは大切な旅の仲間だ。
いや、そうでなくても小さな子供を人質にとる相手に憤りを感じる。
男の背後に回り込もうとした鯉登に誰かがぶつかった。
その衝撃に鯉登はそちらに目をやるも…そこには―――
「雪乃!?」
水城がいた。
水城はエノノカが人質に取られて首元に刃物を突き付けられているのに無遠慮にズカズカと大股で逃亡犯の元へと歩いていく。
そんな水城に鯉登は止めようと手を伸ばすが、空を切る。
犯人は真っ直ぐ向かってくる水城に恐怖を感じた。
冷静さを失いあっという間に近づいてきた水城の首元にエノノカに当てていた刃物を向け、首元を斬るように引く。
「やられた…!」
「雪乃!!!」
それを見ていた月島は水城が首元を斬られたと思い焦った。
今ここで水城を失えば戦力を失うだけではなくアシリパ奪還に支障が起きるかもしれない。
そう思った。
鯉登は恋人が首を斬られ顔を青ざめて駆け寄ろうとするも男達に止められてしまった。
しかし…――水城は血を噴き出すどころか琥珀色の瞳を冷たくさせ男を睨みつけ、油断している男の髪を掴み顔面に膝を入れた。
エノノカも水城が死んでいない事に驚いたが、逃亡犯の手元にある刃物を見てハッとさせる。
「チカパシのマキリの…!」
水城は何も自分の力を過信し無計画に男に近づいたわけではない。
水城は後ろからチカパシが気づかれないようにマキリの鞘を被せたところを見ていた。
だから逃亡犯が決してエノノカも自分も刺し殺すことはないと分かっていたから無謀ともとれる行動をとったのだろう。
男は水城に膝を入れられ鼻から血が大量に出ていた。
痛みに動けなくなった男の隙をついて水城はエノノカの服を掴み思いっきりグイっと引っ張って男から離す。
「離れてて!!アシリパさん!!」
「?」
エノノカは目を瞬かせる。
水城は自分の名前ではなく、探している少女の名前を叫んだのだ。
しかしそれに気を取られている暇はなく、エノノカは男を水城に任せて祖父の元へ駆け寄って抱き着いた。
そんなエノノカをよそに水城はうつ伏せに倒れた男の頭を足で踏んで押さえ、腰に差していた銃剣を抜いて男に向けて振り下ろそうとした。
「待ってくれ!」
「あんたは殺さなくていい!」
水城は男を刺し殺そうとした。
相手は人を殺した男だ。
アイヌに処刑はないのを知っているため、この場で殺してもいいだろう。
そう思ったのだろう。
だが逃亡犯を追いかけてきたアイヌの男達に止められてしまう。
止められてしまい、水城は仕方なく力を抜く。
「雪乃…!!この馬鹿者!!なんという無茶をしたんだ!!」
案の定水城は鯉登に叱られてしまった。
鯉登は水城が犯人に向かって歩き出し首に刃物を向けられたのを見て生きた心地がしなかった。
周りに止められなかったら水城を追いかけ止めていただろう。
怒りもあったが、無事であったことへの安堵もあった。
銃剣を仕舞う水城に駆け寄り叱りながらも鯉登は水城の身体を思いっきり抱きしめた。
「えっと…ごめん…チカパシが刃物に鞘を差してたの見てたから大丈夫かと思って…」
「だからってあんな無茶するな!!心臓が止まったぞ!!」
止まるかと思ったではなく、止まったというのが鯉登らしいと水城は思う。
苦しいほど抱きしめるのも本当に心配しての事だろう。
ちょっと前まで重い空気が流れていたが、重い空気も今や桃色に変わっていく。
「しかし…無事でよかった…怪我はないな?」
エノノカが無傷なのは先ほど確認した。
水城の無事も確認し、水城が自分の言葉に頷いたのを見て胸を撫でおろす。
しかし、腰にやっていた手でマフラーを解き、両頬を包むように触れる。
少し首を露にするように顔を上げさせ、目の前の光景に鯉登は眉を顰めた。
「首が赤くなっているではないか…全く…お転婆なのも困りようだな」
困ったように呟くが、その表情は不快感しか感じない。
水城は鯉登の嫉妬深さに苦笑いを浮かべる。
水城の首に横一文字に赤い線があった。
それは刃物に差されていたチカパシのマキリの鞘の痕だろう。
相手は殺す気だったため強く力を入れたためか痕が残っていた。
不快の一言だ。
鯉登は赤く浮かぶ痕に唇を寄せ、舌で痕をなぞる様に舐める。
舌のぬめりや暖かさ、くすぐったさに水城はクスクスと笑う。
「ちょっと…ふふ、くすぐったいってば」
「黙っていろ…お前は私の物だというのに勝手に傷を増やしおって…お前はもっと私の物だという自覚を持て」
「んっ、ちょ、…ぁっ…」
嫌がるように抵抗する水城の首の後ろを掴み抵抗を無効化させ、舐めたり吸ったりと、他人の痕跡を上書きする。
鯉登の舌や唇が意味ありげに触れるため水城はつい甘い声がこぼれる。
身体が熱くなるのを感じて水城はやばいと思い鯉登の服を掴んでやめさせようとした。
しかし所有物を穢された怒りで頭に来ていた鯉登は無視をし水城へのマーキングを続ける。
鯉登との触れ合いに水城も少しその気になりかけたが、ここは外で、まだ周りに人が多くいる。
青姦と人目という羞恥プレイは勘弁してほしい。
そう思っていると…鯉登が悲鳴を上げた。
「つ、月島!!冷たいではないか!!」
水城は突然の事に目を丸くしていた。
鯉登は水城に上書きをしていたが、突然背中に冷たい物を入れられ悲鳴を上げた。
どうやら背中に雪を入れられたようである。
「所かまわず発情しない!」
「発情などしておらんわ!!上書きしていたんだ!!」
月島の言葉に噛みつくが、あれはどう見ても発情していたのでは…、とチカパシの目を手で隠し水城達から目を逸らしていた顔を真っ赤にするマタギはそう心の中で呟いた。
「私は言いましたよね、風紀が乱れると…上書きするのでしたら二人きりの時になさってください」
「その二人きりになる機会がないから仕方ないじゃないか!!」
「ではよろしいのですね?杉元の愛らしく喘ぐ姿をご自身以外の男に見られても…鯉登少尉殿はそういうご趣味がおありだったのだと、鶴見中尉殿にご報告してもよろしいのですね?」
「つ、鶴見中尉殿の名を出すのは卑怯だぞ!月島ァ!!」
月島の言葉に鯉登は想像した。
愛らしく甘い声で喘ぎ、可愛い顔を見せてくれる水城を不特定多数の男に見られる姿を。
そういうプレイも嫌いではない。
嫌いではないが…腹が立つ。
水城は月島と鯉登のもはや漫才でしかないやり取りから抜け出し、奪い返したマフラーを巻きなおしながらとばっちりが来る前に距離を置く。
すると逃亡犯に銃を向けていた男の二人が近寄って来た。
「すまなかった…あの男はここから東にある我々の村の物で人を殺して逃げた」
「やっと見つけて連れて戻る途中で逃がしてしまった…あの男は我々の村で処罰する」
男達の言葉にマフラーの端を背中に流しながら水城は呟く。
「確かアイヌには死刑は無かったわよね…止めてくれなくても私がやってあげたのに…あなた達手ぶらで帰れたわよ」
「…樺太では我々のやり方がある」
「へえ、どんな?」
アイヌに死刑はないとアシリパから聞いており、それは樺太も同じであることをエノノカから聞いた。
それを指摘すれば、それでも男達は男達のやり方での刑の仕方があるのだという。
それを漫才を終えた鯉登が興味深そうに問う。
「眼に針を刺し、底のない棺を被せて生き埋めにする」
その刑を樺太アイヌは『イトイウリ』と呼んでいる。
その刑は極刑ではないが、ある意味極刑である…生き埋めの刑だった。
加害者を閉じ込めた棺の上に被害者の遺体の入った棺を埋葬するものだ。
だからこの男達は水城が止めを刺すのをとめ、遺体が待つ自分達の村へ連れていこうとしたのだ。
「生き埋め刑か…刑罰であっても直接的な殺人を避けたいのだろうな…」
「それだけ彼らにとって殺人は不浄で忌み嫌うものなんでしょう」
鯉登と月島の言葉を水城は黙って聞いていた。
しかし脳裏にアシリパが以前言っていた言葉が浮かぶ。
――人を殺した熊は悪い神となって地獄に送られる…私も人を殺したくない
そう彼女は言っていた。
水城は同時に彼女の父の言葉も思い出した。
167 / 274
← | 目次 | 表紙 | →
しおりを挟む