雪乃は鯉登と結ばれた。
隠すつもりもないため、両親や親戚を含む周囲に報告すると皆喜んでくれた。
ただ一人を除けば、雪乃と鯉登は祝福された恋人同士だった。
その除いた一人である次兄、吉平は表向きは笑顔で祝福してくれた。
しかし鯉登は気づいていた。
その笑顔の裏の顔には怒りで染められていることを。
―――それから3年経ち、雪乃は女子高等師範学校で教師を目指して学び、すでに鯉登は士官学校へ入学していた。
今年で2年生になり、標準語も話せるようになった。
鯉登が東京へ行ってから雪乃は鯉登と文通をはじめ、遠距離恋愛の寂しさを手紙で補っていた。
他人から見れば大した事のない内容の手紙だが、離れ離れの二人からしたらそれでも楽しかった。
離れていても鯉登は雪乃一筋でいてくれるらしく、それが嬉しい。
ただ、最近…雪乃には悩みというか…心配事が出来た。
それは…
「また鶴見中尉の事書かれてる…」
雪乃は手紙を睨むように見つめていた。
手紙の文字は確かに育ちの良さを感じさせる鯉登の文字だ。
その内容はいつものと変わらない日常の事。
しかし最近新しく日常が加わった。
それが雪乃が呟いた『鶴見中尉』という人物の名前だ。
最近鯉登はどうやらその鶴見とやらに熱中しているらしく、鶴見の行になると方言が出てしまい、更には興奮しているのか文字も荒い。
最初こそその熱中さ加減に…まあ、はっきり言ってしまえばドン引きした。
『え?え…えええ…』としか感想が出なかった。
このドン引きをどう伝えればいいのか分からなかったので当たり障りのない返事で『鶴見中尉が好きなのは分かったから、もう書くな』と返せば次の手紙にも鶴見の事が書かれていた。
しかも行が増えていた。
相変わらず鯉登に遠回しは無効となる様だ。
今や雪乃は諦めて放置しており、それなのに鶴見の行は未だ衰えない。
雪乃は鶴見鶴見鶴見と鶴見という文字を見過ぎて最近ゲシュタルト崩壊しはじめていた。
今日も鶴見という文字が文字に見えなくなるほど書かれており、雪乃はグググと手紙を握りしめ唸る。
「今日も鶴見中尉鶴見中尉鶴見中尉…!もう鶴見中尉読み過ぎて鶴見中尉ってなんなの!?鶴見中尉って文字だっけ!?生き物だっけ!?もうそれすら分からなくなったよ!!」
中尉、と言うくらいだから相手は男だろう。
男に嫉妬という感情を向けていいのかは分からないが、感情をカテゴリーに別ければ雪乃のこの気持ちは『嫉妬』である。
顔も見た事のない鶴見中尉に雪乃は嫉妬していた。
しかし最近手紙を読んでも鶴見中尉という文字ばかりが目立ちもはや鶴見中尉という文字は生き物だったのでは?妖精さん的な?みたいな残念な感じになってきた。
もはや鶴見中尉は実在しなくて鶴見中尉は鶴見中尉で鶴見中尉なのでは?と思い始めた。(全くもって何が言いたいのか分からない)
「………私も浮気してやろうかな…」
雪乃は倒れるように机に突っ伏してぼやく。
その瞬間慌てた声が雪乃の耳に入る。
「お、お嬢様っ!?どうなさったのですか!?お加減が優れないのですか!?」
その慌てように顔を上げて振り向けば、幼い少女がお盆にお茶やお菓子を乗せて駆け寄ってきているのが見えた。
慌てふためく少女に雪乃は安心させるように笑顔を向けた。
「大丈夫よ、カナ…ちょっと…鶴見中尉を見失っていただけ…」
ははは、と笑うが目は笑っておらずどこか遠くを見つめていた。
その様子と『鶴見中尉』という名を聞いて少女…カナは全てを察した。
「また書かれていたのですね…ツルミチュウイ…」
「…浮気されてないだけマシなのか……浮気された方がマシだったのか……最近ね、手紙を見なくてもふと鶴見中尉の文字が脳裏に浮かぶの…いえ鶴見中尉は文字だったかしら…妖精さんだった気がするわ…」
「お嬢様それやばいですよ…お医者様をお呼びしましょうか?それか音之進様ときっぱりさっぱり別れましょう!」
「………うん…音之進が浮気したらね…」
「いや今してますって!もしかしたら只今絶賛ネンゴロ中かも!」
『別れちゃった方がいいんじゃないですかね〜いや別れるべきですよ!』と別れを促すカナに雪乃は曖昧な笑顔で流した。
カナはまだ10歳だが、川畑家に仕える使用人である。
使用人を纏めるトメの孫で、最近使用人になるためにこちらで働き始めた。
将来鯉登家に嫁ぐ雪乃付きの使用人として只今修行中である。
年も近く、カナは気さくな性格をしていたのもあり、二人の時は友人のように接してくれるとてもいい子だ。
他の使用人とも良好な関係を築いているのだが………ただし、一つだけ問題があった。
カナは異性がとても苦手なのだ。
同僚や客などの異性ならば問題なく接することが出来るらしい。
しかし本人曰く友人や恋仲など色々な意味で親しくするのは無理なんだそうだ。
かと言って同性が好きというわけではない。
トメやカナの母曰く、思春期によくある事らしい。
特にカナは主人として懐いている雪乃の恋人である鯉登を特別毛嫌いしている。
何かをされたわけではなく、何となく反りが合わないらしく、トメ達曰く慕う主人を取られて嫉妬しているのだとか。
だから時々別れさせたがるのだ。
だからか鯉登との仲は傍から見れば悪い。
しかし何だかんだで仲は良いと雪乃は思っており、周囲からも喧嘩するほど仲がいいと言われている。(知らないのは本人達のみ)
笑って流す主人にカナはお茶とお菓子を机に並べながら手紙を洋封筒に入れ戻す雪乃を見て溜息をつく。
溜息を吐かれた雪乃はカナへ目をやり首を傾げた。
「どうしたの?」
「いえ…勿体ないな、と思いまして…」
「勿体ない?」
お盆を降ろして雪乃の傍に控える様に座るカナの言葉に雪乃はまた首を傾げた。
その仕草にまたカナは『ああ、勿体ない』と嘆くように呟いた。
「お嬢様、とてもお綺麗なのに…どうしてあんな猿なんかと恋仲に……お嬢様?世の中にはもっと素敵な殿方は沢山いらっしゃいますよ?」
勿体ないとは雪乃が鯉登と恋仲になった事。
猿、とは鯉登の事だ。
自顕流の猿叫を叫ぶその声でカナは鯉登を猿と呼んでいる。
隠していないし、本人に向かって堂々と呼んでおり、直さないので雪乃も思わず受け入れてしまった。
それに鯉登も鯉登で対抗するようにカナを『子猿』と呼んでいるので、結局はお互い仲が良いだけの話である。
勿論二人ともTPOは弁えている。
カナの言葉に雪乃は『そうねぇ』と肘をつき考える。
「この間のお団子屋さんのお兄さんはどうです?とても好青年だと思いますけど」
「あの人恋人いるわよ?」
「ああやっぱり優良物件は決まるの早いですねえ……じゃあよくパーティーでお話になられている方はどうですか?川畑家にも引けを取らない家柄だと思いますし鯉登家ともわたり合えますよ」
「でもあの方自分の家の自慢ばかりなさって話していてもつまらないわ」
「ですね…私も聞いてて欠伸でそうでしたもん」
世の中男は腐るほどいるといってもそう簡単に良い男が見つかるものではない。
簡単に見つかるのなら結婚できない女、そして男は生まれないだろう。
それからカナが周囲の男達の名を上げても雪乃に論破されていまう男達ばかりだった。
人通り終えると雪乃はしみじみと思う。
「やっぱり私、音之進が好きなのね」
その言葉にカナはまた溜息をついた。
いつも色々な男を勧めるが結局はこの結論に行きつくのだ。
カナもカナで名前を上げておいて『やっぱ猿しかいなくね?』と思うため少し悔しい。
溜息をついた後カナはふと思い出す。
「そういえば…呉服屋から連絡がありまして…ご注文の浴衣なのですが少し完成が遅れているらしいです」
カナは祖母からの伝言を思い出し雪乃に伝える。
実は今週は連休があり、休日にお祭りがある。
連休だから東京にいる鯉登も戻ってくるらしく、丁度お祭りがあるのだからとお祭りデートを誘われた。
それを母に告げれば喜んで贔屓にしている呉服屋で浴衣をオーダーメイドで新調してくれた。
更に鯉登から聞いたのか叔母も参加し鯉登が好きそうな浴衣を選んでくれた。
その浴衣の完成が少し遅れるらしく、雪乃は驚いた表情を浮かべる。
「珍しいわね…あそこの呉服屋さん仕事はきっちりしているのに…」
「はい、なんでも新人の方が布の発注を間違えたらしくて…それで遅れてしまったみたいです…どうされますか?今から別のお店で浴衣を探す事もできますが…」
呉服屋はまだ他にもある。
鯉登好みの浴衣ではなくなるが、急を要するのだから仕方のない事だと割り切らなければならないかもしれない。
「完成はどれくらいかしら」
「遅くて当日には完成すると…」
「当日…」
「呉服屋からはあちらのミスなのでお嬢様がよろしければ着付けや髪や化粧も全て呉服屋がしてくださると仰られています」
川畑家と呉服屋との関係は長い。
だから多少の無理は聞いてくれるし、贔屓の家に離れられれば商売人として痛いのもあるのかそれなりのサービスをしてくれる。
あの呉服屋と雪乃の関係もそう短くはなく、血が繋がらない川畑家の長女と知っていても丁寧に対応してくれたし可愛がってくれた。
そもそも注文した浴衣は母と叔母が考えて選んでくれたのだから着なければ失礼だろう。
それに鯉登との結婚の際婚礼衣装をあちらで頼むつもりでもいたのもあり、あまり無下にはしたくはなかった。
「そうね…もしもの時は前の浴衣を着ればいいんだし…最近鶴見中尉の事ばかりだから意趣返しじゃないけれど音之進も少し待たせるのもいいかもしれないわね」
久々に会うし逢引らしい事をしたいと雪乃が待ち合わせはお祭りの近くにしてもらった。
そこから呉服屋は近く、むしろ呉服屋から出発すると楽だ。
『もういっその事デートをドタキャンすればいいんじゃないですか?』と言うカナの頭を雪乃は撫でながら呉服屋の言葉に甘える事にした。
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