夜通し走って水城達はやっと亜港監獄付近に到着した。
空はすっかりうっすらと明るくなっており、もうすぐ日が明ける。
橇から降り、キロランケと尾形が目的とする監獄を見ようとするが、遠すぎて肉眼では見れない。
月島が双眼鏡で監獄の様子を見ていた。
「アシリパさん…」
ついに目と鼻の先に彼女がいる。
ずっと探して追いかけていたあの子がこの場所のどこかにいるのだ。
水城は緊張に心臓の鼓動が激しく動くのを感じる。
ぎゅっと手袋をしている手を握り締め胸元の…心臓の部分を押さえるように添える。
「大丈夫だ…アシリパならきっと無事だろう」
傍にいた谷垣が水城の小さな呟きを拾いそう水城の肩に手を置く。
谷垣も水城と旅をしてきたため、この中で水城とは一番仲間意識が強い。
フチのためにアシリパを追いかけてきたくらいだから谷垣もアシリパをとても心配しているのだろう。
だけど彼は自分よりも水城の方がアシリパを心配しているだろうと気遣ってくれた。
水城は谷垣の言葉に小さく頷く。
「そうね…白石がいるんだもの…きっと、大丈夫…」
尾形とキロランケだけだったらここまで穏やかにはいられなかっただろう。
だが、アシリパの傍にはきっと白石がいてくれる。
水城はそう思えて仕方なかった。
以前ならきっと途中で逃げ出しているかもと思っていただろう。
だけど彼と過ごし、彼という男を水城は信頼していた。
「…………」
その傍で鯉登は谷垣と笑い合う水城をジッと見つめていた。
その表情に感情は読めない。
ただ、水城を、恋人を、見つめていた。
それぞれの思いで樺太の地に立っていると…突然爆発音とともに遠くに煙が上がったのが見えた。
「なにかが爆発した…」
「亜港監獄だ!」
ドン、と遠くからでも聞こえるその音は夜明けの静けさを破るような音だった。
双眼鏡で見ていた月島がその煙が上がる方へと視線を向ける。
そこはキロランケ達の目的地、そして水城達の目的地でもある亜港監獄だった。
「アシリパさん…!」
「おい!杉元!待て!!単独行動はするな!!」
「雪乃!待て!!」
煙が上がり、爆発音がした…それはすなわち爆弾だ。
水城は顔を青ざめる。
アシリパが爆発に巻き込まれていたらと思ってしまい、彼女の元へ駆けつけようとした。
それを月島が制止し、鯉登が腕を掴んで止めた。
「離して!アシリパさんが…っ!」
「杉元!落ち着け!あれはキロランケの爆弾だろう!アシリパはきっと無事だ!」
証拠はない。
谷垣は憶測で言っていた。
だが水城には通じたのか鯉登の手を振り払おうと暴れていたが大人しくなった。
泣きそうな表情を浮かべていた水城を鯉登は掴んでいた腕を引っ張り抱き寄せる。
(すぐそばにアシリパさんがいるのに…なのに…っ!)
鯉登の腕に抱かれながら水城は悔しさに唇を噛む。
やっとすぐそばまで近づくことが出来たのに駆けつけることができない。
尾形とキロランケからアシリパを奪い返すことすらできない。
それが悔しくて、腹立たしい。
ぎゅっと服を握り締める水城に鯉登は何も言わず抱きしめ頭を撫でて宥めるしかできなかった。
◇◇◇◇◇◇◇
爆発は二度起こった。
水城達は煙の元へ向かうように真っ直ぐ亜港監獄に向かっていた。
二発目の爆発の時点で水城達は低く唸るような爆発音の振動が体に響くほど近づきつつあり、水城達はやっと遠く離れていた亜港監獄に辿り着いた。
壁を丸太で囲い、その壁をぐるりと見て回ればやはり思った通り壁は壊されていた。
「キロランケが爆破して囚人を逃がしたんだ」
「一歩遅かったが奴は近いぞ…」
派手に壊されている壁を破壊したのは一発目か、それとも二発目かは分からないが、一歩遅く逃げられてしまった。
水城は粉々になった木片を見下ろしながら、胸を撫でおろしていた。
谷垣の言う通りあの爆発音はキロランケの爆薬だろう。
そもそも鍵となるアシリパにキロランケが危害を加えるわけがないのだ。
ちょっと考えれば分かる事なのに、あの時はすぐそばにアシリパがいるという焦りから冷静になれなかった。
水城は深呼吸する。
冷たい空気が肺に入り、その冷たさに頭が冷えていく気がした。
そして、大切に持っていたマキリをリュウの鼻先に向けた。
「どう?リュウ」
匂いを嗅いだリュウはフンフンと床を嗅ぎ、ある方向へと身体を向けて空を嗅ぐ。
「そっちなの?匂いを見つけたのかしら?」
「おいおい…流氷の上を逃げたというんじゃなかろうな?」
リュウが示した方向は水面を漂流する氷達だった。
地面流氷が広がり、ところどころ割れて動いている。
鯉登はいつ割れるか分からない流氷を見て顔をしかめた。
そんな鯉登の言葉に水城はリュウの頭を撫でる。
「リュウがあっちと言うなら私は信じる」
リュウは猟犬だが、その頭の良さは遭難した時に分かった。
今まで犬は犬だと思っていたが、確かにその頭の良さに姉畑の時などで助けられたこともあり、水城は考えを改める。
鯉登は水城の言葉にグッと言葉を飲み込んだ。
もう水城の瞳に不安が見られなかったのだ。
(あの少女一人のために雪乃の心はゆらゆらと揺れ動く…そこまで心を許しているという事なのだろう…)
正直、嫉妬しかない。
尾形とは別の嫉妬が鯉登の心を蝕む。
だが、不思議と尾形ほど悔しさはなかった。
同性だというのと少女だというのもあるのだろう。
そして、水城の真っ直ぐアシリパを想う心に鯉登は負けたのだ。
真っ直ぐな瞳で見つめて来る水城に鯉登は『そうか』と言いかけた時―――
「うわうッ!!!」
谷垣が叫んだ。
その瞬間パンパンだったコートのボタンが一つ弾け飛ぶ。
その声に全員振り返れば、監獄の中からトラが顔を覗かせていた。
トラは谷垣の声に驚いたのか、ビクリと体を跳ねさせる。
「トラ!?」
トラなど日本では野生で見られない。
見るとすれば動物園くらいだろうか。
日本にはトラは生息していないがその危険性は広まっている。
水城達は慌てて肩にかけていた銃を構え、リュウ達は逃げていった。
トラも突然の事で驚いたのか威嚇するように牙を見せ低く鳴いた。
「に、逃げた…?」
しかし銃に驚いたのか、トラは水城達に向かってくるでもなく監獄の中に消えた。
水城はトラが姿を消した事にホッと安堵の息を吐く。
クマも戦いたくない相手だが、トラも出来れば戦いたくはない。
特にあのトラはアムールトラといいトラの中では最大種である。
銃があるとはいえあまり相手にして体力を消費するのを避けたかった。
「とにかくリュウがあっちを示しているならアシリパさんは流氷の方に向かったはず…」
「…分かった…なら急ぐぞ!」
月島も水城の言葉に頷いた。
監獄にはトラがいる。
その中で探すのも困難だし、アシリパがいるのならキロランケ達もわざわざ危険なトラのいる監獄にいつまでもいるわけにはいかないだろう。
それに大きな穴が開いているのに関わらず誰も出てこないところを見るとすでに脱獄は成功しているのだろう。
逃げた犬を呼び戻し、早速橇でアシリパ達の元へと向かおうとした。
しかし…
「このデコボコな『流氷原』を犬橇で進むのは一苦労だぞ!」
「天候も酷くなりそうだ!!このまま追うのは危険かもしれん!!」
水城の言葉とリュウの鼻を信じて流氷を進む月島達だったが、今まで走って来た道のりと違い、流氷なのもあって真っ直ぐ進む事が困難だった。
それどころか流氷が盛り上がり一々その度に橇が止まり人の手で持ち上げるという手間が増えた。
更には天候も崩れはじめ、吹雪いてきた。
状況は最悪ともいえる。
「さっきの爆破を見たでしょう!?すぐに近くにいるはずなのよ!!リュウも反応してるし!!」
月島達は進むのが困難だと諦めかけていた。
しかし水城だけはこの好機を逃したくはない一身で意地でも進むつもりだった。
やっとなのだ。
やっと、アシリパとの距離が縮んだ。
雲を掴むような今までの状況とはわけが違う。
水城は自分の首に繋がっている紐を咥えて引っ張るリュウの紐を橇から切り離しリードのように持ってリュウの導く方向へと走っていく。
「今なら追いつける!!」
「ちょ…待てよ!!杉元ッ!!」
谷垣が慌てたように水城の背中に声をかける。
しかし水城は立ち止まるどころか振り向く事なく、吹雪いている中アシリパの元へ向かおうと一人走っていく。
「…あの馬鹿…!」
月島は流氷で持ち上がった橇を降ろしながら一人突っ走る水城にそうぼやいた。
そしてチラリと鯉登を見る。
鯉登は何故か黙ったまま、橇に乗って水城の背中を見送っていた。
「よろしいのですか…このままでは杉元が一人で行ってしまいますよ」
さきほどから静かな上官に月島は余計なお世話かと思いながらもそう告げる。
鯉登は水城を見送っていた瞳を月島に向けたが、すぐに水城へと目線を戻す。
しかし水城の姿は吹雪で隠れてしまってもう見えなかった。
「…今私がついて行ったとして…雪乃の邪魔にしかならん…ならば私は私で動くだけだ」
「…………」
そうポツリと呟く上官に月島は何も言えなかった。
本心はついていきたいのだろう。
引き留めたいのだろう。
だけど水城は今、アシリパの事で頭が一杯なのだ。
水城のアシリパを想う心に鯉登は恋人として身を引いた。
(できることなら雪乃の進む先にアイヌの少女だけいてほしいと願う……あの男のために雪乃が手を下すなど…絶対にあってはならないことだ)
冷静に見えて鯉登は煮えたぎったような熱い感情が身体の内に沸き起こっていた。
ギリッと奥歯を噛みしめ苛立つ声を押さえながら口内でポツリと呟く。
リュウの案内する方向にアシリパがいるのは確かなのだろう。
犬の嗅覚は人間よりも優れている。
水城とアシリパが再会できるのなら喜ぼう。
だが、尾形との再会は鯉登は喜ぶどころか怒りしか感じない。
愛しい女の手で殺されるなど、最高の死に方ではないか。
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