すぐそばに水城が迫っている。
水城を女として抱いていた尾形だが、本気になった水城と一対一で対抗できるほど腕力に自信があるわけではない。
自然と足は速くなっていき、気持ちが焦り始める。
「何を思い出した?早く教えてくれアシリパ!」
キロランケの事も話した。
黙っていたことを聞かれたがキロランケを警戒しての事だとも話した。
息子も引き取って母を守れなかった事に対して罪滅ぼしをしたいとも言ってやった。
だけどアシリパは口を堅く閉ざす。
キロランケでも駄目だった。
息子でも駄目だった。
ならば、と水城がいる方へ視線を送りながらアシリパを見下ろし…
「俺は水城に頼まれた」
「!?、水城?」
最もアシリパが信用し信頼しているであろう相手の名を告げる。
その名前に初めて大きな変化を見せた。
そんなアシリパに尾形は心が冷え切ったまま続ける。
「網走監獄で…撃たれた二人に近づいた時…水城にはまだ意識があった」
尾形の言葉にアシリパは息を呑む。
そんなアシリパを見つめながら尾形はその時水城から聞かされた話を教えてやる。
「あいつから親友の妻に金塊を少しでもいいから分けてほしいと頼まれた…自分の事は事故で死んだ事にしてくれと……それから静秋の事も任された…『私の代わりにあの子を育ててやってくれ』、とな…」
親友のため、そしてその妻のために水城はこんな眉唾物だった話を信じて毎日採りつくされた砂金を探していた。
それはアシリパも知っているし、だからこそ水城と出会えた。
その後水城から息子である静秋の事を任されたと尾形は言った。
死ぬのが分かった水城が愛する息子を父親に託したのだ。
それはまさに美談だった。
誰もが涙を流す美談。
女どもが好きであろう美談である。
しかしアシリパは信じられなかった。
「そんなこと一度も話さなかったじゃないか!!『見に行った時はすでに死んでた』って…!!」
樺太に向かう前…網走監獄を離れる直前…水城が死んだと言ったのは尾形だ。
水城の死を確認したのも尾形ではないか。
なのに今更生きていたと聞かされてどうやって信じれというのか。
しかし、尾形は声を荒げるアシリパを冷静に見下ろしていた。
「アイツが最後に話したのは故郷にいる親友の未亡人の事だったからだ…こんな話…アシリパは聞きたかったか?」
「…ッ」
尾形はアシリパを同じ感情を持つ少女だと思っている。
自分の知らない水城の親友とその妻の存在にアシリパは可愛らしい事に嫉妬していた。
尾形もそうだ。
その親友を何度か尾形は見た事があった。
水城から親友だと紹介されたことは一度としてないが、よくつるんでいるところを見た事がある。
言葉も短いが交わしたこともある。
水城は吉平の事があったため誰かと一緒にいること自体珍しいのでよく覚えていた。
アシリパほど可愛らしいモノではないが、尾形も内心はその親友に嫉妬していた。
自分達の知らない水城を知っている男と女。
吉平以外動かすことが出来なかった水城を動かすことが出来た女。
水城に惚れた男と言わせた男。
その話を聞きたかったか…尾形はそう言っていた。
可愛い顔してアシリパの腹の中は自分と同じで黒く染まっている。
そう思うと愉快だが、不愉快でもあった。
「アイツとは結局復縁できなかったが…それでも俺は俺なりにアイツを愛していた…こんな事になるならあの時お前の言う通り半分のお椀を食べさせておけばよかったと思っているよ……アイツにも白無垢を着させて…俺は外で仕事をしてアイツは子供と家を守る…アイツは女の身で戦争に赴いていたからそんな普通ならなんでもない女の幸せな生活を送らせてやりたかった…そんな妻の最後の頼みの為に教えてくれ…」
半分残されたご飯を食べなかったのは、水城の気持ちを優先したからだ。
そう告げる尾形は悲し気に視線を伏せる。
普通なら結婚を申し込むのだが、水城はそれよりも親友との約束を優先したいと言った。
全てが終わったら一緒になろうという約束もしたし、二人きりで結婚式の真似事もした。
だから真似事ではなく本当の結婚は全てが終わり親友の妻をアメリカに見送った後にするつもりだったとアシリパに告げた。
「その人の名前は聞けたのか?」
今まで自分達の間で水城の話題はどこかタブーのような空気があった。
最後の水城の記憶は手を伸ばす自分の手に手を伸ばしかけた水城の姿だ。
都丹に引き上げられたあの時の姿が目に焼き付いて離れない。
あの時はまだ生きていたのだ。
あの時はまだそばにいたのだ。
アシリパは親友の妻の名前を聞きたがった。
信用していないかは尾形には分からない。
恐らく水城の話をもっと聞きたがっているのだろう。
その問いに尾形は伏せていた目をアシリパへと向ける。
「ああ、確か…」
水城から聞いたという名前を尾形は教えた。
アシリパも水城から名前は聞いたことがないからそれが本当か嘘か見極めは出来ない。
「軍に問い合わせてもきっと水城の育った故郷は分からないだろう…アイツは無理矢理軍人として生きる事を強いられてきた…日本軍は女を徴兵していないからな…出生は偽りだ…杉元水城という名前も本物か危ういだろう…だが、アイツの最後の頼みだ…俺は何としても…どんな手を使ってでもアイツの言う親友の妻を見つけ出す…」
幸い、水城の親友は本物の男だ。
男の方を調べればすぐに出るだろう。
肝心の名前が一致しないが、中尉の情人で通り友人一人もおらず目立っていた女の傍にいたのだ。
軍に残っている人間の1人か2人くらいはその男の顔と名前を知っている奴がいるかもしれない。
そう尾形は付け足す。
「他には…?他には何を言っていた?」
水城の話題に今まで押し殺していた感情が溢れたように、アシリパは胸が張り裂けるように痛くて仕方なかった。
「アイツは…故郷に帰りたいと…静秋と俺を置いていくのが申し訳ないと言っていた…最後まで母としても妻としても役目を果たせなかったのが悲しいと………だからアイツのためにも…」
ああ、とアシリパは嘆く。
水城はちゃんと尾形と向かい合っていたのだな、と。
安心したのと同時に、悲しくなった。
自分がアチャに会いに行きたいと言わなければ今頃水城は尾形と仲睦まじい姿を見せてくれたのではないかと思ってしまう。
でも悔やんでも水城はここにはいない。
水城はもう…
アシリパは必死に水城は生きていると信じていたのに、尾形の言葉でその心が粉々に砕けていくのを感じる。
「ッ…他には?全部教えてくれ……最後に何か食べたいとか…言ってなかったか?」
「ああ…言ってたぜ…アイツは―――…」
アシリパはその言葉を聞き、ハッとさせ瞑っていた瞳を開ける。
アシリパの問いに尾形は答えた。
しかし、その答えにアシリパは疑念が生まれる。
「あんこう鍋…?」
尾形は答えた。
水城は最後に『あんこう鍋』が食べたいと言っていた、と。
アシリパはその尾形の答えた言葉に顔を上げ尾形を見上げる。
「そいつは水城じゃない…尾形…お前…誰の話をしているんだ?」
アシリパは尾形の言う言葉に偽りだと見抜いた。
尾形はアシリパの言葉に悲しげだった表情を消し、強く射貫く視線を向ける彼女を冷たく見下ろした。
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