静かだった。
誰もがキロランケの遺体を見つめ、誰もが口を閉ざしていた。
しかしそんな沈黙を白石がぽつぽつと呟いて破る。
「この流氷はアムール川の水が河口で凍ったものなんだって…キロちゃんが教えてくれた…春がそのまま故郷の水にとけて眠れる…」
白石は氷をキロランケの上に乗せていく。
この地は土がないため、彼なりの埋葬なのだろう。
手袋を取ってキロランケの目を覆い、目を潰させる。
「真面目すぎる男だったんだよキロちゃんはさ…!」
その言葉に誰も返しはしなかった。
しかし、アシリパにはその言葉が心に届く。
白石も泣きそうな表情でキロランケを見つめていた。
「どうしてアチャは死ななければならなかったのか…本人から聞きたかった…やっぱりアチャがアイヌを殺して金塊を奪ったから殺されたのか?」
結局、アシリパはキロランケに父が死んだ理由を聞くことはできなかった。
その前にキロランケはこの世を去ってしまい、こうして目の前で冷たく魂のない血肉だけの器になってしまった。
「アシリパさん…のっぺら坊は撃たれる直前に『アイヌを殺したのは自分じゃない』と…言っていたわ…」
「本当か!?」
水城の言葉にアシリパは悲し気にキロランケを見つめていたが水城へと視線を向ける。
驚いて見せるアシリパに水城は頷いて返した。
頷きを見てアシリパは安堵に似た息を吐く。
父のせいで囚人が逃げ人が死に、金塊を巡ってまた人が死ぬ。
父だけの責任ではないが、その一人の血を分けた娘として罪悪感はあった。
そして父はアイヌを殺していないと知り、その罪悪感が少し軽くなったのを感じる。
「ソフィア…」
そこでふとアシリパは思い出した。
そういえば、一人、いない、と。
アシリパは辺りを見渡す。
しかしそこには人一人いなかった。
「どうしたの?」
「ソフィアがいるはずなんだ…彼女なら全ての真相が分かるかもしれない…」
ソフィアの姿がないことに気づく。
はぐれたのか、それとも水城達を警戒しているのか…
彼女も堂々と人前に出れる人間ではないが、キロランケが死んでしまった今、もうアシリパが知る中では彼女だけが全ての真相を知っているかもしれない存在なのだ。
まだソフィアに聞きたい事が沢山あった。
しかしそのソフィアの姿はなく、水城もソフィアという女性の姿を探す。
ソフィアとは一度もあったことはないためどんな姿をしているか分からないが、こんな何もないところで女性一人というのは目立つのですぐ分かるだろうと思ったのだ。
しかし、ソフィアという女性どころか男の姿もない。
「いないね」
「うん…近くにいるはずなのに…どこに…」
アシリパが辺りを見渡しているのに気づいて水城が声を掛ける。
水城はソフィアという人物は会った事ないが、白石から聞いていたのもあり水城も辺りを見渡してみる。
しかしやはりそこには誰もいなかった。
「月島ァ!しっかりしろ…!」
「大丈夫です…」
辺りを見渡していた水城の耳に鯉登と月島の声が届く。
そちらに目をやれば月島が膝をついているのが見えた。
月島は銃を杖代わりにしてやっと立っていたが、ついに立ってられなくなったらしい。
キロランケが仕掛けた爆弾で怪我を負い、首筋を手で押さえるがコートは血で染まっていた。
「音之進!あなたも血だらけじゃない…!」
月島の方が重傷ではあるが、鯉登も無傷ではなかった。
水城は尾形を背負いながら鯉登のコートや顔が血だらけなのを見て駆け寄る。
傍に寄り添うかと思ったが、ふと水城は足を止め鯉登と少し距離を置いた場所にしゃがんで鯉登を心配そうに見つめていた。
「大丈夫?」
「…ああ、私はな…雪乃は怪我はないか?」
「私は大丈夫…尾形とは戦わなかったから…」
鯉登はピタリと少し離れた座り心配そうに見つめる水城に片眉がピクリと上がった。
しかし微かな変化だったため誰も気づかない。
水城の言葉に頷き、水城に怪我が無かった事や尾形と戦わなかった事を聞き安堵の表情を浮かべる。
「谷垣、2人を見てもらっていい?」
水城は谷垣に申し訳なさそうに二人の治療を頼む。
谷垣も顔を血で染めており、無傷ではないのが明らかだった。
本来なら無傷の自分が彼ら三人の治療をするべきではあると思うが、それが出来ない理由がある。
そんな水城に谷垣は何も言わず頷いてくれた。
「雪乃」
谷垣の方へ意識を向けていた水城の隙に鯉登はそっと手を水城へと向ける。
水城との距離はあるものの、手を伸ばせば届く範囲にいる。
しかしそれに気づいた水城は後ろへと下がる。
「…………」
「…………」
2人の間に沈黙が落ちた。
水城はジッと見つめてくる鯉登の視線に耐え切れず、そっと視線を逸らしてアシリパの方へと戻っていった。
「…………」
鯉登はそんな恋人の背を黙って見送り、伸ばしたが触れる事のなかった己の手を見つめた。
水城は明らかに自分を避けた。
近づいた時もそうだ。
なぜか傍に駆け寄らず少し距離を置いた場所に足を止めた。
(…気が変わった…?まさかな…)
一瞬、最悪な方へと思考が傾いた。
元々自分達は敵同士だったのだ。
後ろに背負う男か、アイヌの少女か…
どちらか知らないが水城は再会を果たしたのだ。
気が変わっても可笑しくはない。
「あ!向こうに人影がある!!」
思考の波に身を委ねていた鯉登だったがアシリパの声にハッと現実に引き戻される。
キロランケに刺された腕を固定するため谷垣が即席で布のギブスを作り、それを受け取り首にかけながらアシリパに声を掛ける。
「アシリパとやら!お前を確保するために我々は来た!杉元も我々に協力する取引をしている!」
普段は雪乃と呼んでいるが、アシリパは雪乃よりも杉元の方が聞き慣れていると判断した。
この問題はとりあえず安全な場所に移ってからだと気持ちを切り替える。
『私の許可なしに離れるな』と言い勝手な行動をしないよう注意した鯉登だったが…
「ちょっと見て来る!!」
「私も行く!」
アシリパは全く聞く耳持たなかった。
鯉登は初対面でアシリパにナメられてしまう。
水城もアシリパを追いかけて尾形を置いて着いて行ってしまい、鯉登は呆気に取られて女性陣二人を見送った。
(いや…雪乃…お前ェ…)
流石に蔑ろされた感が半端なく、鯉登はピキリと額に青筋を立てた。
ドサリと降ろされた尾形がピクリともしないが、もはや水と油の関係の相手が目の前で瀕死になっているのさえどうでもいいほど鯉登は水城にカッチーンと来ていた。
「お、落ち着いてください…その…杉元はアシリパといるときはいつもあんな感じなので…」
「…落ち着け?私がこんなことくらいで心を乱されているとでも言いたいのか、谷垣一等卒」
「へ!?い、いえ!!」
月島の治療も終え、谷垣は鯉登の様子に気づいた。
わなわなと手を握り締め震わせるその様子はそれはもう立派な嫉妬する彼氏である。
この旅で鯉登と水城のバカップルを見てきた谷垣は鯉登の思考を読んだ。
ついフォローをすればギロリと睨まれた。
それにササっと目を逸らせば鼻を鳴らされた。
内心『いやそれどう見ても心乱まくりでしょ?』と思ったが言うとうるさいので言わないでおいた。
「え…え?なに?もしかして鯉登ちゃんって杉元と仲良くなっちゃった系?どっちかって言ったら喧嘩しそうなのに……しかもその感じ…もしかして杉元に恋しちゃった??」
『鯉だけに』、とくっっっっそつまらないギャグを言いながらニタニタとからかい口調で白石はそう鯉登に言った。
谷垣はそんな白石に『シライシィーッ!』と顔を青ざめたのは言うまでもない。
とはいえ白石は水城に恋人がいるのは知っているが、それが鯉登だとは知らない。
白石は鯉登という苗字は知っているが、鯉登の名前が音之進だとは事は知らないのだ。
どういうわけかサラシが巻かれていないのを隠していないのは白石も事情をは知らないが気づいている。
そのため鯉登は水城=男という認識ではないのだろうと白石は思い、アシリパに着いていく水城にギリギリと歯を食いしばり睨んでいるのを見て嫉妬だと気づいたらしい。
それだけならまだよかった。
それだけなら『うるさい』で済んだだろう。
「あっら〜でも残念だねぇ…杉元、もう相手いるよ??」
しかし、白石は見事に地雷原の地雷だけを踏み続ける男だった。
その言葉に鯉登から表情という表情が消えた。
スッと無の表情になった鯉登はゆらりと立ち上がり、器用にも片手で軍刀を抜き…
「ほう…その話詳しく聞かせてもらおうか」
目が据わり白石を見下ろすように睨む鯉登は軍刀を白石へと向ける。
ヒュンと空気を切る音と鯉登の据わった目に白石はこれまでにないほど顔を青くさせた。
「え…え!?え、え…えッ!?ちょ、まっ…ええ!?待って!!ちょっと待って!!なんでキレてんの!?」
「その、話を、詳しく、聞かせろと、私は、言っている」
「ひぇぇっ!冷静な口調が逆に怖いっ!!」
顔は鬼のごとく恐ろしいのに口調は冷静なのがまた恐ろしさを演出している。
苛立ったように大股で軍刀を向けたまま近づく鯉登に白石は怖くて慌てて逃げ、『人って感情が振り切れると逆に静かになるんだな…』と完全に油断していた谷垣の後ろに隠れる。
「おい!俺を巻き込まんでくれ!」
「だってぇ!鯉登ちゃんってば怖いんだもの!!こんな時に限って杉元いないし!!」
『自業自得だろうが!』、と谷垣は思わず乱暴に言う。
しかしそれは仕方ない。
なんと言っても相手は鯉登である。
あのバカップルさを恥ずかしげもなく見せつけて水城に恋愛感情のれ文字もないと言っている相手に牽制する鯉登である。
恋愛関係のとばっちりほど面倒くさいものはない。
しかし残念ながら月島を介抱しているため後ろに隠れる白石を嫉妬の鬼に引き渡すことはできない。
お前行けよ!やだよお前いけよ!、とお互い背中を押しあっていると『ああ、なるほど』と嫉妬の鬼が1人納得したように呟く。
その呟きに二人は嫉妬の鬼へと視線を向け―――心臓が止まった。
「白石由竹…雪乃の相手というのはお前だな…?」
鯉登がそう静かにこぼした。
表情も相変わらず感情が抜けながらこぼしたが、目は口ほどに物を言う言葉があるように、白石を見下ろすその目は軍人の目ではなく、人を数百人殺したような人殺しの目をしていた。
白石はそんな鯉登を見て『ひぇぇ』とおちゃらける余裕はうまれなかった。
ただただ顔を青くし、言葉や息どころか、心臓の動きを止めた。
「首を差し出せ白石由竹…今、この瞬間、この場で、貴様の首を刎ねてやろう」
鯉登はそう言って笑った。
…が、ニヤリと口角を上げ、言動や雰囲気や表情から不気味にしか見えない。
顔が整っている分表情一つでこうも恐ろしく思えるのかととばっちりを受ける谷垣は現実逃避に思う。
「いやッッ!!いやいや!!!いやいや待ってよ!!何でよ!!何で俺が首を刎ねられなきゃならんのよ!!」
「貴様が私の雪乃を寝取ったからだろうが」
「寝取るもなにもこちとら素人童貞で寝取られるような女と寝た覚えないんですが!?大体雪乃って誰よ!!」
「貴様…誰が寝取られる女だと…?」
「んもおおお!!ぜんっぜん話通じないぃぃ!!」
鯉登には恋人を想い、恋人以外とは寝ない童貞宣言をした自分にあれやそれやと面白がって色々と吹き込む友人が多くいた。
その中に寝取られを面白可笑しく教える奴がいた。
そいつは彼女を寝取る方が好きらしくほぼ付き合ってきた女は彼氏と交際中に寝取った女達だった。
雪乃を想い続けてきた鯉登からしたら友人ではあるが、その男を心底軽蔑していた。
だが、実際されてみれば更に寝取られというのは軽蔑すべき存在であると理解を改める。
「そこに座って首を差し出せ…まあこの寒さなんだ…すぐには死ねんと思うが…私の雪乃に手を出したのだから苦しんで死ぬのは当然の罰だろう?」
「ひぇッ…駄目だこいつ!何言っても通じねえ人種だ!!」
キロランケの隣を指定して首を差し出せと述べる軍人に白石の顔色はますます青くなるばかりだった。
仕舞には『杉元ーー!杉元おおおお!!』と最強の盾を召喚しはじめた。
…が、アイヌの少女ではない時点で最強の盾の召喚条件には満たしていないわけで…
最強の盾の召喚に成功する前に、目の前に立ちふさがる鬼の機嫌を損ねるだけだった。
「と、とにかく俺なんもしてねえよ!!雪乃ちゃんって子とも会ったことないしさ!!鯉登ちゃんの勘違いなんじゃないの!?」
「勘違いだと…?」
「そう勘違い!!大体さ!普通立派な軍人さんの恋人が俺なんかを相手にする!?考えてみてよ!!身体に刺青入れてる坊主頭!経済力皆無!生活力皆無!!そんな男にあんたの言う雪乃ちゃんがあんたを放って惚れると思う!?」
『あ…言ってて悲しくなった…』と白石は自分で言っておいて内心涙がちょちょぎれた。
大体だ。
大体その雪乃という女など白石は身に覚えがない。
この若さで少尉であるため、それはそれは立派な家柄なのだろう。
そんな少尉殿の恋人がならず者の自分を相手にすると思うだろうか。
少尉殿の恋人なら相手もそれなりの家柄だろうし、ごろつきの悪さに惹かれて寝たとしてもそんな女、忘れるわけがないだろう。
しかし悲しいかな…白石は素人童貞である。
素人童貞とは、風俗嬢以外の女性と関係を持ったことがない男の事で、まさに白石がそれにあたる。
言っていて悲しくなるが、事実だから仕方がない。
しかし必死のおかげか、鯉登は『ふむ』と考えるそぶりを見せ、軍刀を降ろした。
焚火が燃え広がりそうになるも鎮火できそう、というべきだろうか。
しかし…
「え、なに?どうしたの??」
そこに空気が読めない奴が着火剤を投入した。
水城の登場である。
その後ろにはなぜかスチェンカで拳を交えた岩息と、燈台の老夫婦の娘がいた。
水城はアシリパと人影の方へ向かい、岩息達と再会し彼らを連れて戻ってくれば目の前で軍刀を抜く恋人と、それに対峙するような谷垣と介抱されている月島と、月島ごと谷垣を盾にしている白石という不思議の光景が広がっていた。
谷垣は水城の姿に安堵したが、それ以上に顔をひきつらせた。
水城はこの場で唯一鯉登を止められる。
しかし、それは同時に騒動を更に大きくすることができるともいえる。
谷垣としては解決してから来て欲しかった…が本音である。
更には白石が水城の姿に『杉元ぉ〜〜っ!!』と谷垣から水城の後ろへと避難してしまい、谷垣は頭を抱えたくなった。
「白石由竹ェ!!!貴様…!!やはり貴様が私の雪乃を寝取ったのか!!!」
「ええええ!?なんでぇ!?今さっき納得しかけたじゃん!!」
「黙れ!!雪乃から離れろ!!刀の錆にしてくれるわ!!!」
「いやだから!!!その雪乃ちゃんって誰よ!!!」
白石からしたら訳の分からない言いがかりをつけられているとしか思えず、その訳の変わらない言いがかりで首が飛びそうになるのは勘弁願いたい。
この貴公子顔の狂人に対抗できるのは、化物しかいない。
そう思って水城を盾にした。
しかしなぜかそれが火に油を注ぐことになったらしく、水城に庇ってもらっているのになぜか雪乃という女の事で更に怒らせてしまった。
アシリパは白石と鯉登の言い争いに首を傾げており、白石は『今のどこにその女の要素があるあったわけ!?』と水城という名の安全圏にいるというのもあって段々と腹が立ってきた。
そのせいもあって白石は調子に乗り水城の背中から顔を出してビシッと鯉登を指さす。
「さっきから雪乃雪乃って言ってるけど!!鯉登ちゃん杉元と良い仲なんでしょ!!それって浮気なんじゃないの!!?」
水城という頼りになる壁に隠れているためか、大きく出る白石に谷垣は本気で頭を抱えた。
白石は事情を知らないため仕方ないとは思うが…これ以上嫉妬の鬼を刺激しないでくれ…と思うのも無理はない。
事情を説明したくても二人の攻防戦が激しすぎてマタギには口がはさめなかった。
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