鯉登は入り口をチラチラと見つめ、落ち着きがない様子を見せていた。
それに問う者はいない。
月島も谷垣も答えが分かっているのだ。
「ただいまー」
そんな中、水城達が帰って来た。
水城の声に鯉登は弾かれたように顔を上げ入り口を見る。
それはまるで留守番をしていた犬が帰ってきた飼い主の声を聞いたようだった。
戻って来た水城達は服を洗ってもらっているからかニヴフ族の衣装を身に纏っていた。
2人ともよく似合っていて、アイヌとニヴフは似ている民族衣装なのか違和感はなかった。
水城は普段男装しているのもあり女性用の衣装を身に纏い、胸も隠すことはないその姿はどう見ても胸の大きい美女だった。
傷さえなければ引く手数多だっただろう。
「ねえねえ!どう!アシリパさん、可愛いでしょー!」
自分よりもアシリパを男達に見せる。
お団子姿も見せ、谷垣は『可愛いぞ、アシリパ』と褒めた。
谷垣に褒められアシリパは少し照れ臭そうに『ありがとう』とお礼を言った。
しっかりした大人顔負けの子供だがやはり年相応の女の子なのだろう、と谷垣は微笑ましく見つめる。
「雪乃!」
すると鯉登が水城へと歩み寄りジッと水城を見つめた。
何も言わずじっと見て来る鯉登に水城は首を傾げたが、何を言いたいのか気づいたらしく笑みを浮かべて両手を広げて見せる。
「いいよ、おいで」
その言葉を聞くや否や鯉登は水城の懐に飛び込むように抱きしめる。
片手しか使えなくて不便だが、十分くっつくことができるので足りなくなった分の水城を充電できる。
首筋に顔を埋め匂いを嗅げば当然異臭はしない。
行水をしたばかりだから肌もしっとりとしていた。
「はあ、やっと雪乃に触れることができる…」
「ふふ、もう、音之進ったら…くすぐったいよ」
深い溜息を吐きながら恋人を抱きしめ触れることが出来なかった空白を埋めるのに鯉登は必死だった。
腰に片手を回して密着させ、首筋に顔を埋めて息を吸う鯉登に水城はくすぐったそうに笑いながら受け入れる。
水城の匂いを堪能したらしい鯉登は腰に手を回しながら水城の琥珀色の目を見つめる。
「雪乃、私は我慢した」
「うん、偉いね」
「雪乃が近づくなと言ったから近づかなかった」
「うんうん、そうだったね、偉かったね」
「私は寂しかったぞ…そんな私に褒美はないのか?」
いや褒美ってあんた…、と谷垣と月島が思うのも無理はない。
小便だけではないが、汚れている手で傷に触れると菌が入って悪化する。
そのための接触禁止令なのだ。
恨めしそうに見つめる恋人に水城は苦笑いを浮かべ、彼の両頬を挟むように手を沿える。
「別にいいけど…でも音之進のご褒美ってえっちな事でしょ?怪我人やアシリパさんいるからここじゃなぁ…」
「むっ…別にえっちな事じゃないだろ…キスだぞ」
「でもキスはキスでも舌とか入れてくるじゃん?曲馬団の時そうだったし?」
「ぐ……それは……雪乃が可愛いからいけないのではないか…」
「え〜?私のせいにしちゃうんだ?」
「うぐっ…」
図星だったようで、キス一つで終わらす気がなかった鯉登は水城の言葉に返す言葉がなかった。
自分に弱い恋人を見て水城はついつい顔が緩んでしまう。
「しょうがないなぁ」
そして、結局は恋人の可愛さに水城が折れるのだ。
両手を頬に添えたまま水城は鯉登の口にキスをした。
案の定それだけでは足りない恋人から熱烈なキスを貰う。
「んっ、ん、だめってば…ン、」
流石に舌は入れられなかったが、その寸前の深いキスをされる。
水城は駄目だというが本気で抵抗はせずクスクスと笑う。
谷垣と月島はこの光景をこの旅で何度も見てきたためか、イチャつき出した二人から視線を逸らしながら『ああ、またやってるよ』と内心チベスナ顔になっていた。
ただ、初見の燈台の夫婦の娘であるスヴェトラーナは突然イチャつき出した日本人に目を白黒させた。
この反応が普通である。
ちゅ、ちゅ、と見たくもない他人の乳繰り合いを見せられながらも『早く終わらないかな〜』と心の底どころか腹の底から思っていた二人の耳にバチーンという音と痛そうに鳴く猿叫びの声が聞こえた。
「お、音之進!?大丈夫!?」
そちらに目をやれば鯉登が膝裏を押さえながら崩れ落ちているのが見えた。
痛いのか身体を震わせる鯉登に水城が心配そうに寄り添う。
「ないをすっ!!!」
怪我人がいるのにも関わらず鯉登は怒鳴り声を上げる。
それもあまりの痛さに標準語を忘れてしまっていた。
水城はあわあわと鯉登と…アシリパを見た。
アシリパの手にはどこにしまっていたのか、お仕置きのための棒であるストゥが握られており、ヒュンヒュンと風を切りながらアシリパはストゥで素振りしていた。
ちなみに
ストゥの乱用は決して許されない。
「ア、アシリパさん…?一体どうしたの?」
「水城…」
「え、な、なに…?」
水城は真剣な表情を浮かべ、硬い声をこぼすアシリパに思わずその場に正座した。
もう反射条件に近い。
何か怒らせることをしてしまったのだろうか、と耳としっぽがしゅんと下がっているが、アシリパは真剣な表情を崩さず言った。
「私はそんな破廉恥な女に育てた覚えはない!いいか!男は狼だ!男に流されるな水城!!」
「…へ?」
『はい!復唱!!"男は狼"!!』と言われたので何が何だか分からないがアシリパが言うのならと水城は『お、男は狼』と復唱する。
キョトンとした顔で復唱する水城にアシリパは『そうだ!』と満足そうに頷いた。
水城は本当に何が何だか分からなかったが、まあアシリパが満足そうだしいいかな、と考えるのをやめた。
「いいか、水城…優しいところはお前の美徳だが…優しすぎるのもダメだ…さっきもそうだっただろう?駄目なときは駄目と言うべきだ!嫌なら嫌だとはっきり言わないと相手のためにもならん!!」
(駄目なわけでも嫌なわけでもなかったんだけどなぁ…)
ペチペチとストゥを手の平で叩くアシリパに水城は気のない返事を返す。
嫌だとも駄目だとも水城は思っていないが、アシリパの言う事を否定する気にもならない。
アシリパのその言葉は自分を心配してくれての言葉なのだ。
そう思うと否定したくなくなる。
水城はすっかりアシリパ色に染まっていた。
しかしやはり異議を唱える者がいた。
「おい貴様!駄目だ嫌だと好き勝手言ってくれる…!!いつ!どこで!水城が!嫌だの!駄目だのと言った!!!」
「今さっき、私がいるから駄目だと水城は言っていただろう…それをお前は無理矢理水城に襲い掛かったではないか」
正確に言えば、駄目とは言っていないし、合意の上で襲い掛かっていない。
アシリパの中ではそうだと脚色されていた。
鯉登は痛みから回復したのか、ちょっと涙目になりながらもギロリとアシリパを睨む。
鶴見からも最優先はアシリパと言われてはいるが、これはこれ、それはそれだ。
愛する女との触れ合いを邪魔されては頭もくるというもの。
しかしこうもスパッと切って捨てられては違うと断言できず、ぐぬぬと唸るだけだった。
そんな鯉登を見つめながらアシリパは鯉登を指差し続ける。
「私の目が黒い内は水城に手出しはさせん!!」
「なぜ貴様に伺いを立てなければならんのだ!!雪乃は私の恋人だぞ!!私の女だ!!」
「私の女だと!?恋人面の次は所有物扱いか!!シサムの男はみんなこうなのか!?水城!悪いことは言わん!シサムの男は諦めろ!!恋人を女と呼ぶような男と一緒になればお前が不幸になるぞ!!」
アシリパと鯉登は水城を挟み喧嘩をし始めた。
喧嘩をし始めた日本人たちにスヴェトラーナがはらはらと見守っているが、これが普通の反応である。(二回目)
対してこの旅で慣れさせられた谷垣はもう無の境地であり、月島に至っては眠ったふりをして見なかった事にしている。
水城本人は『もう、やだ…音之進ってばアシリパさんの前で私の女だなんて…』と赤くなった頬を手で隠し自分の女発言に照れて役に立っていなかった。
不幸になると言われた鯉登はカチーンと頭にきたのか水城の腕を掴んで引き寄せ、アシリパを睨むように見下ろしながら声を張り上げた。
「おのれ…!言わせておけば好き勝手言いおって…!!自分の妻を女と呼んで何が悪い!雪乃は私の女であり私は雪乃の男だ!それの何が間違っているというんだ!!」
「つ…妻…だと…!?」
肩を抱き、そう告げる鯉登にアシリパの背景には稲妻が走った。
ズガーン、と大きな音を立て稲妻が落ちるほどショックを受けたアシリパは鯉登から水城へと視線を向ける。
「水城…そ、それは本当なのか…」
「え?」
「この男と
ウムレになるつもりか…?」
『妻だなんて…そんな…まだ早いよ…』と照れて頬を赤らめる水城だったが、聞き慣れないアイヌの言葉に首を傾げ、アシリパはショックを隠せないまま和人語に訳す。
夫婦と訳され水城はほんのりと頬を赤く染めたまま頷いた。
「うん…その…まだ言ってなかったけど…音之進とは元々婚約者だったし…色々あって離れ離れになっちゃったけどお互い忘れられなかったから…」
『ごめんね、報告が遅くなっちゃって』、と照れながら言う水城にアシリパはガクッと膝を折った。
懐いている大好きなお姉さんに知らない間に恋人が出来たようなショックである。
「ア、アシリパさん?どうしたの??」
「フン…放っておけ…腹でも減ったのだろう」
適当に言いながら鯉登は跪き頭を垂れるアシリパの傍に寄ろうとする水城を肩を抱く力を強くして止めた。
一部始終見ていた(見せられていた)谷垣は遠い目で子供相手に勝ち誇った笑みを浮かべる鯉登に『大人気ないです…鯉登少尉…』と思った。
「お腹減ったの?ニヴフ族の人に何か食べ物分けて貰おうか??」
「もう時間も時間だ…今腹に入れたら夕食が入らなくなるのではないか?」
鼻で笑う鯉登の言葉を信じたのか、ニヴル族に何か分けて貰おうと外に出ようとした。
しかしそれを阻むようにもっともらしい事を言って引き留める。
それに『それもそっか…』と納得してしまう。
「アシリパさん、もうちょっと待てる?」
「……、…」
「ん?待てないかな?待てなかったら谷垣が携帯食持ってたからそれ貰う?」
「………な…」
「え?ごめん…良く聞こえない…」
「〜〜ッ私は!認めないからな!!」
お腹でも減ったのかと思い聞いてみると何やらもごもごと言っているではないか。
しかし耳を近づけようとしても鯉登に肩を抱かれて近づけず心配そうにもう一度声を掛けるとガバリと起き上がりアシリパは涙目で鯉登を睨み指さした。
その言葉に水城は目を瞬かせ、鯉登は眉を顰める。
「水城はアイヌの女として生きるのを決めた!そのために色々勉強しているんだ!!大体!亭主関白か何か知らないが伴侶を女と呼び所有物扱いするような男なんかに水城をやれるかぁ!!」
水城は鯉登と再会するまでこの争奪戦を終えた後アイヌの女として息子と共にアシリパのコタンで暮らすことを決めていた。
アシリパとしては尾形が裏切るまでは、尾形と一緒になるとばかり思っていたのだ。
尾形と一緒になってアイヌとして生きるのだと。
しかしそれは尾形の裏切りによって潰えた未来だ。
とはいえ水城がアイヌとして生きる事には変わらないと先ほどまで思っていたのだ。
それが突然現れた男(連載2話初登場)に横から掻っ攫われて(元々恋人でした)『はいそうですか』と言えるものか。
アシリパの言葉に鯉登は顔を顰めながらもあくどい笑みを浮かべ、更に水城を強く肩を抱いて抱き寄せる。
「別に貴様に認められなくとも構わんが?私と雪乃の結婚になんら関係もないのだからなぁ?」
「ぐ…っ」
水城の恋人としてアシリパよりも有利というのもあり態度が強く出る鯉登に、アシリパはぐぬぬと唸る。
確かに水城とアシリパは相棒ではあるが、結婚となる話は別だ。
本来結婚はお互いの両親の許可を経てするものだ。
外野が言ったって何ら結婚に影響はない。
アシリパは言い返せずにいたが、ふと思い出す。
「静秋…そうだ!水城の息子はどうするつもりだ!?静秋は尾形と水城の子供だぞ!!」
思い出した事とは水城の息子である静秋の事だ。
静秋は尾形と水城の間に生まれた子供である。
いわば鯉登とは血の繋がらない赤の他人の子供だ。
結婚うんぬんの以前に静秋の問題をどう解決するんだと聞く。
赤の他人…それも敵対している男との子供をお前は愛情を与えられるのか、と。
もはや自棄である。
しかしそんな問題解決済みの鯉登は水城の肩を抱いたまま鼻で笑って蹴散らす。
「そんなものすでに解決しているに決まっているだろう?水城の子供は私の子供だ!!」
「なん…だ、と…」
先手を打たれていたと知りアシリパはガクリと俯く。
本音を言えば悔しさ半分、安心半分。
悔しさは打つ手がなくなった事への悔しさ。
安心は静秋が蔑ろにされていなかったことへの安堵、そして嬉しさ。
しかしだからと言って相棒である水城を簡単にやるわけにはいかなかった。
姑のごとく次のカードを探していると…
「え、アシリパさん結婚に反対なの?…じゃあ、しょうがないかなぁ…」
水城の言葉に鯉登は呆気に取られた顔を浮かべて恋人を見つめる。
しょうがないで済ませる恋人に『は??』とこぼす。
「おい待て…それはどういう意味だ?」
「だって、アシリパさんが駄目って言うんだもの」
「いやいやいや、ちょっと待て…おい…お前…雪乃お前…私と結婚する気がないってことかそれは」
アシリパが言うからしょうがない。
それを地でいく水城の言葉に静かに鯉登の機嫌が降下していくのを傍から見た谷垣にも分かった。
しかし水城は気づかないのかコテンと小首を傾げむすっとさせる恋人を見つめる。
「そうじゃなくて…アシリパさんが認めてもらうまで頑張って説得して、それから結婚しよってこと」
水城の言葉に鯉登は『なるほど』と納得しかける。
だがしかし、ハッと我に返り『いやいやいや』と首を振った。
「そうじゃない!なぜ私達の結婚なのにアシリパの許可が必要なのだと聞いている!」
「だってアシリパさんは私の相棒だもの」
「相棒だものってお前…」
どんな結果になったとしても争奪戦後に結婚する事を決めている。
鯉登としては争奪戦後すぐに雪乃と籍を入れ鶴見や月島を招待した結婚式を開くつもりだった。
なのに水城はアイヌの少女の一言で結婚の延期を受け入れた。
それがおかしいと鯉登は言っているのだが、水城からの返答は『相棒だから』で終わり鯉登は怒る気すら起きない。
しかし、ドン、と何かが水城に突撃したような衝撃を感じ鯉登はそちらを見る。
そこには水城に抱き着くアシリパがいた。
「嬉しいぞ!水城!!私を蔑ろにせず考えてくれたのだな!!ありがとう!水城!!」
「〜〜っ当たり前だよアシリパさん!私が相棒のアシリパさんを蔑ろにして結婚するわけがないじゃないっ!!」
抱き着くアシリパ。
顔を上げれば満面の笑みで嬉しそうに笑うアシリパ。
それに落ちないようでは水城ではない。(?)
嬉しそうに破顔するアシリパに水城はキュウンと母性本能を擽られた。
抱き着くアシリパに水城はぎゅっと抱きしめ返し、顔におっぱいを押し付けられるアシリパは『ハハハ、息ができないぞ水城』と笑っていた。
「雪乃!!」
しかし、やはり例の男…鯉登が声を上げた。
吉平に目を付けられなければ今頃すでに結婚して何人か子供もいるはずだったのだ。
それが吉平という男のせいで水城と引き離され今に至るまでずっと水城を想い続けてきた。
他の女によそ見もせず、水城だけを見続けてきたのだ。
もう死んでいると周囲に言われながらも我慢に我慢を重ねてやっと水城を見つけた。
本当なら今すぐにでも籍を入れて結婚したいというのに。
閉じ込めたいほど愛しているというのに。
だというのに…目の前の恋人は彼氏よりも少女を取った。
「音之進!私、音之進と結婚できるまでアシリパさんを一生懸命説得するからねっ!!頑張るからっ!!」
『私とアシリパ、どちらが大事なんだ』と面倒臭い女のように鯉登は叫ぼうかとも思った。
しかし、名を呼ばれた水城は鯉登へ振り向き強い眼差しでグッと拳を握って笑顔を向けた。
その笑みに…そのアシリパが反対しても頑張って説得しようとするほど自分との未来を考えてくれる姿に…
「あ、ああ…頑張ろうな…」
鯉登は負けた。
勢いを弱めて頷く鯉登に谷垣と月島は『あ…これ将来尻に敷かれるやつ…』と思ったとか。
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