(202 / 274) 原作沿い (202)

廊下から足音が聞こえ、鯉登はひやりとさせた。
明らかに誰かが来た音である。
この離れには恐らく仲居もおらず、いるとしたら自分と…あの、女性の草履の持ち主だ。
それはすなわち、こんな面倒くさい事に巻き込んだ見ず知らずの女という事である。


(くそ…遅かったか…)


足音はすぐに止んだ。
気配からしてこの部屋に到着したのだろう。
鯉登は隠すことなく、舌打ちを打つ。
ハプニングに緊張している…というよりは、『しまった』という後悔と失態の感情の方が強い。
もっと早くに退室すべきだった、と。
しかし後悔してももう遅い。
面倒な女でなければいいな、と覚悟を決め、襖から女が現れるのを待っていたのだが――――…
鯉登は静かに襖を開け現れた女を見て、驚きのあまり目を丸くした。


「雪乃!?」


入って来たのは、恋人である水城だった。
どうやら先に水城が来ていたらしい。
お湯を沸かしていたのか、手には湯気が立っている銅製のやかんが握られていた。
鯉登はまさか恋人である水城がくるとは思っていなかったため、呆気に取られたが…驚いたのはそれだけではない。
水城の姿にも驚きが隠せなかった。
そんな鯉登をよそに水城は恋人の姿を見て嬉しそうに笑みを浮かべる。


「音之進!来てくれたんだ」

「あ、ああ…つい先ほど案内されてな……それよりなぜ雪乃がここに…」


水城は自分の姿を見て驚く鯉登に照れたように頬を染め、そっと視線を外す。
鯉登の驚きように水城は、彼が知らずに来たことに気づく。
彼からの驚きの視線に照れながら水城は説明した。


「最近ずっとアシリパさんばっかりで音之進と二人っきりになれなかったでしょ?せっかく宿を取ったんだし…二人っきりになって恋人らしく過ごしたいなって思って……旅館の人に頼んで二人きりになれる部屋を頼んだんだけど……意外と女将さん達が乗り気で…白石と月島軍曹もそれに乗っかっちゃって…こんな大ごとに…」


水城もあの布団の敷かれている部屋を見たのか、恥ずかしさから更に頬を染め、もじもじとさせ声も段々と小さくなっていく。
鯉登が寂しいと思ったのと同じく、水城も鯉登と二人きりでいられない寂しさを感じていた。
だからせっかく集落ではなく個室を取れる旅館に泊まったのだから、鯉登と二人きりになれる部屋を借りようと思ったのだ。
勿論水城は鯉登と"そういう意味"で寝るつもりだったから、アシリパ達の泊まる部屋と離れた部屋を借りるつもりだった。
こんな立派な離れではなく、アシリパ達に"声"が届かない部屋なら狭くても構わなかった。
それが女将や仲居達が乗りに乗ってしまって、水城の意見をことごとく却下されてしまい、それに白石と月島の意見も加わり……あれやこれやと水城が参加しないまま、なぜかこんな立派な離れを用意されてしまった。
ボロボロな部屋よりも立派な部屋の方がいいのだが、なんだかさあエッチするぞ!と鯉登に言ってがっついているような気がして、逆に恥ずかしくなってしまう。
部屋代は月島が出してくれると言ってくれたが、そんな私情のために軍のお金は使えないと水城が断った。
月島からしたら面倒くs…気難しい上官の機嫌が良くなるなら上乗せしてでも払う価値はあるのだが、水城はそんな月島の苦労など気づいていない。
しかも、要約すると『いい井戸端会議のネタを提供してくれたから』と女将から豪華な食事とお酒を半額ではあるが、用意してもらった。
女将は最初無料でと言ったが、流石に気が引けるため断った。
押し問答の結果、半分出す事に落ち着いたのだが…水城は『どんだけ飢えてるの…』と女将と仲居の勢いに怖くなったとは誰にも言えない。


(それはそうか…月島があんな事に手を貸すわけがないか…)


鯉登は、味噌を買った帰りに水城が白石を連れて自分達を先に帰らせたのも、この準備のためだろうと納得する。
鯉登に気づかれては意味がないし、アシリパの場合絶対に阻止されると思ったからだろう。
そう思うとあの時のイライラは自然と消滅していくのを感じ、鯉登は現金だなと内心自分に対して苦笑いを浮かべる。
それと同時に、月島のあの忘れ物は、仕組まれた事だったのだと思い出す。
まあ今冷静になって思い出せば、何ともわざとらしい口調と口実ではあったが。
そもそも、よく考えてみれば、月島が見ず知らずの女が自分に惚れて一夜を共にしたいから協力しろという無茶ぶりに答えるはずがない。
むしろ自分の水城への愛の深さを身をもって知っているため、阻止する側だろう。


「それで…その格好は…」


事情は納得した。
見ず知らずの女であれば、腹が立ち即答どころか何か言う前に断るのだが…不思議と水城なら喜びの感情しかない。
むしろ自分のためにと一生懸命考えて動いてくれる事に感激さえ覚える。
その感情が顔に出て、顔が緩みそうになった。
そんな顔水城に見られたくなくて、必死に力み、いつもの表情をキープする。
コホン、と咳払いして気を取り直し、改めて水城の格好を見る。
水城は普段男装している姿から一転し、女性の着物を着ていた。
決して安物ではなく、決して派手すぎない、落ち着いた柄と色の着物。
流石に髪は一瞬で長くはできないため、短い髪にも付けれる髪飾りを何とか探し、水城の髪を彩っていた。
着物は水城のように胸が大きいと、太って見えたり、衿合わせが綺麗に決まらず胸元がはだけたりと、逆にマイナスな印象となってしまう。
そのため水城は胸を潰しているのだが、それでも水城の身体は女性らしい滑らかな曲線を鯉登に見せてくれていた。
久々に見た着物姿の水城に、鯉登はドキドキと胸を高まらせる。
水城は頭の天辺から足先まで見る鯉登に更に頬を赤らめ、照れてそっと視線を逸らした。


「これは…その…お、女将さんが…貸してくれたの…私は別に頼んではいなかったんだけど……でも…せっかく恋人らしく過ごすなら見た目も女性らしくした方が音之進も喜ぶんじゃないかって…音之進が喜ぶならいいかなって…思って…」


ごにょごにょと恥ずかしさから声が段々と小さくなっていき、俯いていく耳まで真っ赤になっている水城に、鯉登は『ン"ン"ッッ』と声が出そうになるのを手で口を押えて何とか阻止する。
男のプライドにかけてそんな間抜けな声水城に聞かせられない。
再会した時から思っていたが、水城は昔よりも身なりに気を使わなくなった。
戦場に身を置き、女性としての意識が低下してしまったせいでもあるのだろう。
そんな水城が、自分のためだけに…そう!自分の事を考えて女性らしい姿になってくれたのだ!
恋人が自分のために恥ずかしがりながらも一生懸命になっている姿を見て滾らない男はいない。
恋人の可愛い姿を見て滾らない男がいたのなら、そいつはED(勃起不全)か、恋人への愛がないかのどちらかだろう。


「やっぱり…こんな女の人みたいな格好…似合わない、よね…」

「ッ――そんなわけあるか!!!」

「!?」


鯉登の反応が余りにも無反応だったため、水城の頭の中には『失敗』の二文字が浮かんでいた。
結局鯉登の為に色々考えたが、恥を掻いただけで終わった。
鯉登に対して寂しさを感じていたのは自分だけだったんだな、と悲しくなる。
しかもあまりの悲しさに『そりゃこんな傷だらけの男女が着物着ても喜ばないよね』とマイナスの方へと思考が向かってしまう。
しかし、そんな水城の言葉に鯉登が大きく声を上げた。
その声の大きさに水城はビクリと肩を竦め、俯いていた顔を上げて驚いた表情で鯉登を見つめる。
そんな驚く水城をよそに、鯉登は水城に近づき、やかんを持っていない水城の手を握った。


「雪乃はどんな姿だろうと愛らしい女だ!!いや!美しい女…いや!!むしろ両方を備えている!!!私は雪乃が男の姿であろうと女の姿であろうと愛している!!!」

「音之進…っ」


鯉登のストレートな告白に水城も彼に骨抜きにされているため、ドキンと鼓動がなる。
そこがバカップルと普通のカップルの違いだろうか。
やかんを持っているため両手で握り返すことはできないが、鯉登の言葉に頬を赤らめ、うるうると瞳を潤わせる。
乙女な水城に鯉登はそっと顔を近づけ、キスをする。
水城も目を瞑って受け入れ、鯉登からのついばむような口づけにうっとりとさせた。
角度を変えて何度も口づけをする鯉登に黙って受け入れてくれる水城に、鯉登は彼女の腰に手を回す。
密着させ鯉登はキスをしながらも、水城の体に触れた。


「んっ…ま、まって…だめ…」


洋服と違い、着物は着込むため水城の柔らかな肌の感触は得られない。
それでも、その布の先には夢中になるほどの柔らかい肌が待っているかと思うとたまらなくなる。
腰に回されていた鯉登の手が、お尻に触れようとしているのに気づき、水城はするりと鯉登の腕の中から抜け出した。


「雪乃?」


あまりにも自然と抜け出されてしまい、鯉登は怪訝とさせながら水城を見る。
水城は頬を赤らめながら、熱くなった頬に手を当てながら困ったように笑う。


「せっかくのご飯が冷めちゃうわ…それにこの着物借り物だから…」


そう言って水城はやかんをテーブルの上に置く。
どうやらお預けを食らったようで、鯉登は『そうだな』と納得したように頷いてみせる。
その頷きに水城はホッと安堵の息を吐き微笑んだ。
そんな水城も愛らしく、鯉登は湧き上がる衝動を何とかグッと抑えた。
納得したように見せかけてはいるが、納得できるはずもなく…
本当なら水城を襲いたい気持ちが強い。
しかし、我慢である。
今この瞬間、我慢以外の選択肢はない。
とは言え…鯉登はチラリと障子に近づく水城の後ろ姿を見る。


(ン"…が、我慢だな…流石に堪え性のない男とは思われるのは今度に支障が……しかし…我慢か………できるだろうか…)


後ろ姿だけでも女性らしい身体のラインに強く惹かれる。
水城ならばどんな姿でも愛せるが、やはりいつもと違う、それも女性らしい服装を着ると違った。
ニヴフ族の衣装も目新しく水城を飾り立てるのに十分な物だったが、やはり日本男児は着物を好むらしい。
今すぐにでも隣の寝室に連れ込んで、その綺麗に着付けされている着物を欲望のまま引っ剥がして一つになりたい……我慢我慢だと思っていると余計にそればかり意識してしまう。
とは言え、借り物の着物を汚したくないという水城の気持ちも分かる。
ここは男が引いた方がいいだろう…鯉登は深呼吸して何とか落ち着いた。
そんな鯉登の苦労など気づかず、水城は目を輝かせながら鯉登に振り返る。


「ねえ音之進!見て!すごい綺麗な庭だよ!」


障子を開ければ縁側を挟んで立派な庭が広がっていた。
嬉しそうに報告してくる水城は、先ほどのような甘い空気はない。
あまりにも普通に接するため、鯉登は駄々洩れ寸前だった本音が引っ込んだ。
『そんな雪乃も可愛いな』と真顔で思う。
手招きをされたので、水城の隣に移動し庭を見る。


「ほう…樺太でこんな立派な日本庭園を見られるとはな…やはりこの宿を選んで正解だったな」

「そうだね…」


樺太は言っては悪いが本土に比べてしまうと人の多さも店の質もそう多くも良いわけでもない。
ただ、ここは温泉が売りというのもあってか、他の街に比べると質は良い方だ。
良い旅館に泊まったが、はっきり言ってここまで質のいい旅館だとは思っていなかった。
関心したように零す鯉登をチラリと見た後、水城はコテンと隣に立つ鯉登の肩に頭を寄せた。


「女将さんからね、聞いたんだけど…この離れは要人の人のための客室なんだって」

「ああ、それは私も仲居から聞いた…こんなところまで足を運ぶという事はよほどここの温泉はいいのだろうな」


肩に頭を乗せるため、水城との距離が近く、ふわりと水城の香りがした。
アシリパのいるところでは、甘えてくれない水城の甘えに、無意識に喉を鳴らしてしまう。
しかし、我慢している手前、水城の肩に腕を回すくらいの接触しかできなかった。
気を紛らわすために庭に目を向け、仲居の言っていた言葉を思い出す鯉登の言葉に、水城は目を細め微笑んだ。


「温泉もだけど……ここを利用する要人の人たちの多くが女性と一緒に来るんだって」


その言葉に鯉登の時間が止まった。
しかし、だからか…鯉登は隣の部屋の意味を理解した。


(なるほど…どうりで用意周到だと思った…)


乗り気になって協力してくれたのは感謝する。
水城が自分のために動いてくれたことも嬉しいのだが、何より、寝室の用意周到ぶりに多少の疑問があった。
紙は必需品だから、あっても可笑しくない。
この時代、洋風の家が珍しく、格式高い旅館で行燈があるのだって可笑しくはない。
ただ…二人で一つの寝具と、避妊道具が置いてあるのに違和感があった。
普通は一人用の寝具を二つ並べるものだし、旅館と言えど売春宿ではないのだから避妊道具がある事自体可笑しい。
そういうサービスをする旅館にしては男女の宿泊客を自分達と同じフロアの部屋に泊まらせており、かと言って自分達が案内された部屋に避妊道具があったわけではない。


「…確かに…本土では浮気もバレかねんだろうな…ここでは人目も避けれる…いい隠れ宿だ」


旅館に離れなど珍しいものがあるのだなと思ったが、その理由も納得した。
先に見て回ったらしい水城曰く、台所、トイレ、お風呂、その他何のためにあるか分からない個室が数室…さながらこの離れは少し小さめの豪かな一軒家だった。
どうやら裏口があり、本来は浮気相手と訪れた要人達は裏口から直接この離れに泊まり、裏口から帰っていくらしい。
それなら他の宿泊客と顔を合わすこともないし、必要最低限(例えば食事の用意や風呂を掃除・入れる等)な事は信頼できる口の堅い仲居が世話をしてくれるらしいので、妻に気づかれず浮気をするにはもってこいの場所だろう。
それも仲居は極力客と顔を合わせないようにしているらしいので、この部屋では浮気相手と二人きりの空間だ。
その分、料金も高く、一見さんお断りらしい。
とはいっても、バレるときはバレるのだ。
ただの火遊び程度なら、浮気はするものではない。
しかし、鯉登はハッと気づく。


(待てよ…と、いうことは、だ……―――雪乃を思いっきり甘やかしてもいいってことだな…!?)


鯉登は気づいた。
ここでなら思いっきり水城を鳴かせてもいいということに。
今までアシリパがいるから、月島達がいるから、そして壁が薄いからと満足に抱き潰す事もできなかったため、多少の鬱憤は鯉登も溜まっていた。


「雪乃…!」


逢引きの話をするという事は、これは今すぐ抱いてくれという水城からのお誘いと思ってもいいだろう。
そう鯉登は思い、水城に迫ろうとした。
しかし…


「そろそろ寒くなってきたし…ご飯も冷めちゃうから食べちゃおっか」


水城はそんな鯉登からするりと抜け出し、食事が並んでいるテーブルに座る。
水城を抱きしめようとした鯉登の手は行き場を失ったが、水城の『寒いから早く閉めて』という凍えるような冷たい言葉に渋々障子を閉めるために動かした。


「美味しそう!アシリパさんにも食べさせてあげたいなぁ…」


鯉登が向かいの席に座ったのを見て、水城は手を合わせる。
いただきます、と言い、箸を取って豪華な夕食を見下ろしながらそう呟いた。
アシリパがいないというのに、相変わらずアシリパ厨な水城の言葉に、鯉登は…


「……ソウダナ」


と気のない返事を返すのに精一杯だった。



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