(204 / 274) 原作沿い (204)

お風呂は最高だった。
だが、気持ち的に最悪だった。
水城を傷つけたいわけではないので、我慢をするつもりではあるが、不安の方が強い。
愛する女性と共寝をして我慢が出来るだろうか。
むしろ眠れるだろうか。


(…ここまで来て決意を曲げれば鯉登家の名折れ…一晩くらいどうってことない!)


不安を抱えたまま部屋の前に辿り着いてしまった。
向こうには女性らしい姿をした恋人がいる。
個室に二人きりなため、意識しないようにしようとしても無駄だろう。
しかし、自分が決めた事を曲げ、嫌がる恋人に無理強いするなど薩摩隼人としてならない事だ。
意を決して鯉登は襖を開ける。


「あ、おかえり」


襖を開けると、水城がお茶を飲んでまったりとしていた。
着物を着ているのもあって、まるで夫の帰りを待ってくれた妻のように見えて、鯉登は『ン"ッ』と何とも言えない声を零す。
幸い鯉登の声は水城の耳には届いておらず、平然を装って水城が入れてくれたお茶を呑んで喉を潤す。


「お風呂どうだった?」

「気持ちよかったぞ…流石温泉を引いているだけある」


水城に聞かれたので、素直な感想を述べれば水城は『そっか』と笑った。
何気ない会話だが、それさえ幸福に変わるのだから恋とは分からないものだ。
ただ、普通に会話ができる自分に鯉登は感激していた。


「じゃあ次、入らせてもらおうかな」


水城は鯉登が出たので自分も入ろうと席を立つ。
鯉登はお茶を呑みながら『ああ』とだけ返し、見送った。


(フフ…なんだ、やればできるではないか…)


戻ってくる前は我慢できるかが不安だったが、何だかんだで普通に接することができた。
触れてはいないのもあるだろうが、一緒にいる分には平気のようで自信をみなぎらせていた。


「せっかくなんだ…たまには健全に過ごすのも悪くはないかもしれんな」


お風呂で熱くなっている体を少し冷まそうと鯉登は障子を開けて庭を見つめながらそう呟いた。
何も恋人だからと毎回体を重ねなければならないわけでもない。
健全な関係を挟むのもそう悪くはないだろう。
なんて言ったって自分達はもう離れ離れになる事もないのだから。
しかし、鯉登は知らない。
この自信は数十分後に覆ることになると…



◇◇◇◇◇◇◇



そして、その数十分後。
水城がお風呂から出て戻って来た。
ゆっくり浸かってきたようで、鯉登よりも長い時間お風呂に入っていた。


「良いお湯でしたー」


満足気に笑いながら戻って来た水城を、鯉登は『お帰り』と出迎えようと、水城の方へ振り向き―――固まった。
カチン、と凍り付いたように固まる鯉登に気づかず、水城は『喉渇いたなぁ』と言いながら鯉登の向かいの席に着き、急須を揺らしてまだ入っているか確認する。
入っていたので湯のみにお茶を入れていたのだが…鯉登からの視線に気づき、視線を鯉登へと向けた。


「なに?」

「は!?な、何がだ??」

「いや…じっと私の顏見てるから…もしかして顔に何か付いてる?」

「な、何でもない!!何も付いていないから安心しろ!!」


鯉登がじっとこちらを見ているのに気づき、水城は首を傾げ声をかけるが、何故かてんぱって返ってきた。
顔を赤くしてバッと勢いよく顔を背ける鯉登に水城は『そう?ならいいけど…』と納得いかないがこれ以上突っ込めば怒られるので突っ込むのをやめて淹れたお茶を飲む。
鯉登は『美味しい』とお茶を飲んでほっこりとさせる水城にチラリとまた視線を向ける。


(……これはダメだろ…)


鯉登は水城を見つめ、そうポツリと心の中で呟いた。
鯉登の視線は水城に向けられているが…正確に言えば、水城の胸元である。
水城は着物から浴衣に着替えていた。
風呂に入ったのでそれは可笑しくもないのだが…少し着崩れしていたのだ。
着崩れしていたのか、それとも浴衣のサイズが少し小さかったのか…
水城は本来しっかり閉めるはずの胸元が開けていて、谷間が丸見えとなっていた。
そのため、豊満な胸が更に強調されてしまっている。
それだけではない。
大雑把に言ってしまえば旅館の浴衣は一枚だけの布である。
何枚も重ね厚い生地を着る着物と違って、浴衣は身体の線が出やすい。
更に言えば、お風呂から出たばかりというのもあって、体温が上がり肌はピンク色に変わり、頬は赤く染まり、髪はしっとりと濡れている。
それに加えて…お茶を淹れる時、座るために屈む時も、机に肘をつく時も、むにっと胸が寄って強調されるというダブルパンチである。
我慢しようと思っても本心はムラムラしている男にその光景は辛いものがあった。
いや、むしろ地獄と言っていい。


(ン"ン"…が、我慢…出来るだろうか…)


もう何回か分からない呟きを零す。
普段の水城も愛らしく美しいのだが、普段と違う恰好というのもあって今の水城は更に輝いて見えた。
もう水城の気持ちなど気にもせず、本能のままその体を貪りたい気持ちで一杯である。
しかし、それをした瞬間水城からの信頼は失われるのは必須。
むしろ絶縁を叩きつけられるだろう。


(頑張れ…私…!)


目の先の利益よりも、未来の利益。
目の先の欲に素直になり、愛する女性を失うか。
将来を想いギリギリな理性を必死に保ち、愛する女性を得るか。
どちらを取るかなど考えるまでもないだろう。


「はあ、ちょっと、熱いね…」

「そ、そうか…?」


鯉登の脳内で理性軍と本能軍が戦っているとも知らず(しかも理性軍が圧倒的に不利)、水城はパタパタと顔を手で仰ぐ。
畳みに手を置き足を崩して姿勢を楽にする水城だが、その姿は誰が見ても艶めかしく色っぽい。
伏目がちなのがまた男心を擽る。


「熱いなら少し開けるか…」

「ん?いいよ…開けたら開けたで寒いしさ」


今すぐにでも庭に飛び出し、小さいながらも立派な池に顔を突っ込んで『あ゙ーーーッッッ!!!』と叫びたい気持ちだった。
意味もなく滅茶苦茶大声で叫びたい気持ちだった。
今の水城は傍にいるだけで理性がゴリゴリと削られているため、気を紛らわせるために熱いという水城のためにと装って障子を開けて外からの風を入れようとした。
片膝を立てて立とうとする鯉登に水城は止めた。


「しかし、熱いのだろう?」

「そうだけど…でも風邪引いちゃうでしょ?」


まだ暖かい時期ならいいのだが、流石に雪が積もっているこの時期に湯上りに冷たい風に当たるのは体に悪いし、湯冷めしてしまうだろう。
水城の言葉も一理あると、内心『くそ…』と色っぽい水城の傍から離れるいい口実になれたのにと思いながら座り直す。
何気なく障子から、ふと、水城へと視線を戻した瞬間、鯉登はぎょっとさせる。


「な、なななな…ッ!ないをしちょっど!?」


水城は熱さからか、谷間が強調されている胸元の共衿を軽く持ち上げ隙間を作る。
それは水城にとって熱を逃がすための手段ではあるのだが、男…それも恋人の鯉登からしたら胸をチラッと見せてくれているようにしか見えない。
水城からしたらそんな気はないのだが、鯉登からしたら大サービスである。
思わずどもり標準語さえ使う余裕がないほど彼は焦っていた。
そんな恋人へ水城が視線を向けた瞬間、ゴンッと派手な音がした。


「お、音之進!?何してるの!?」


水城と目と目が合った瞬間、何故か鯉登がテーブルに頭を思いっきりぶつけた。
水城は恋人が突然テーブルに頭をぶつけるという奇行を見て、慌てて鯉登に駆け寄った。


「大丈夫?」

「あ、ああ…すまん…」


心配そうに声を掛けてくれるのはありがたい。
ありがたいが…今は心苦しかった。


(雪乃をいやらしい目で見たと気づかれるわけにはいかん…!)


今の鯉登は恋人を邪な眼で見ているため、下心がある分心配してくれる水城に対して申し訳ない気持ちになるのだ。
それに水城は恋人は恋人でも、今は健全な関係の恋人を望んでいる。
この痛みは自分が水城を求めすぎた罰なのだ。
そう鯉登は思う事にした。
だから水城を『そういう目』で見ていると気づかれるわけにはいかなかった。


「音之進…もしかして無理をしていない?」

「無理?」

「うん…お風呂に出てから様子が可笑しいから…もしかして体調がよくないの?お医者様呼ぶ?」


水城の言葉に鯉登は首を傾げた。
なるべく胸に目をやらないよう気を付けながら、水城の心配そうに揺れる琥珀色の瞳を見つめた。


(私は愚か者だ…自分の欲求ばかり気にして…雪乃はこんなにも私を想ってくれているというのに…)


水城の心配そうな瞳を見ていると、自分が愚かな男に見えた。
鯉登は自分の欲求ばかり意識して、水城を本当に考えていなかったことに気づく。
それに気づくとあれほどモンモンとしていた欲が収まっていくのを感じる。


「心配かけてすまなかった…だが、体調は悪くはないから安心しろ」

「本当に?私を気遣って言っているんじゃなくて?」

「ああ…むしろこの旅では雪乃と共に居られるからか疲れなど感じないほどだ」

「も、もう…音之進ったら…」


鯉登の言葉に水城は照れたように頬を染め、頬に手を当てて恥ずかしそうにはにかんだ。
その姿はとても愛くるしく、我慢しなければと苦しく感じていたのがその愛らしい姿に救われた気がした。
しかし、頬に手を当てていた水城は鯉登の手に触れ、ぎゅっと握る。


「だけど本当に無理はしないで…こんなすごい旅館に泊まれる機会はそんなにないけど…だけど私は豪華な旅館や食事よりも音之進の方が大事だから…無理だけはしないで…体調が悪いならちゃんと言ってね?」


気遣う言葉をかけながら、水城は握る彼の手を肌蹴ている胸元に押し付ける。
むにっと暖かく柔らかい感触に鯉登は『ン"ン"ッッ』と何とか大声で叫ぼうとしたのを防いだ。
水城に手を触れられたのでついそちらに視線をやってしまったのも悪い。
ダイレクトに水城の谷間が鯉登の視界に写り、更には柔らかく暖かい感触が手から伝わる。
それはもう、水城から誘われているようにしか見えない。
だが水城の表情から、無意識でやっていた。
男ならば大喜びで理性を捨てる状況ではあるが、軍人として身体だけではなく心までも鍛えられているのか、鯉登はなんとか理性を保つことができた。


「そ、そうだな…もし体調が悪いのであれば隠さず言おう」

「え、あ…うん…そうしてね…」


鯉登は水城を見ないように、水城から視線を逸らす。
視線を逸らす自分に気づいているのか、鯉登の耳には不思議そうな声色が届いていた。
このままでは色々とマズイ…、そう思った鯉登は咳ばらいをして気を持ち直し立ち上がる。


「ね、寝るか!」

「え…も、もう?」

「明日はアシリパと出掛けるのだろう?ならば睡眠を取り体力を温存しておかなければな」


驚く水城の言葉に、鯉登も内心自分もそう思うと頷いた。
夜ではあるが、大人が寝るにはまだ早い時間だ。
水城は寝ると聞いてお風呂に入って火照り染めていたその頬の色を濃くさせた。
どうやら体を重ねる意味として受け取ったらしい。
それに気づき鯉登は慌てて言い直した。
アシリパと出掛けるなどは水城からも月島からも聞いていない。
だが、嫉妬して自分の邪魔ばかりしてきた(鯉登視点)のだから、こうして自分と二人きりになるのだって大変だったはず。
流石に同室なのに何も言わないのは心配をかけるし、騒ぎになるだろう。
だから、水城は事前にアシリパの許可を貰っているだろうと推測し、そうなると次の日はアシリパが水城を独占するのは考えなくても分かる。


「明日の事、音之進に言ったっけ?」

「言わなくても分かる…私もアシリパも同じだからな」


やはり鯉登の予想は当たっているらしい。
首を傾げる水城に鯉登は苦笑いを浮かべ、水城の手を取って立ち上がらせ、隣の部屋へと移動した。
明りは行燈のみの部屋は薄暗いが、行燈から灯されるオレンジ色の光はどこか落ち着くように感じた。
手を引かれて付いて来る水城から、息を呑むような気配を感じる。
どうやら二人一組の寝具や、避妊道具を見て緊張しているようだ。
『安心しろ、絶対に今日は…いや、雪乃から許しが出るまでは手は出さないからな』と声には出さず心の中でそう水城に語り掛けるが、やはり、我慢の限界というものがある。
鯉登はゆっくり水城の手を引っ張り、愛する恋人を腕の中に閉じ込める。
鯉登の手が腰に回され、水城が恐る恐る鯉登を見上げる。
その目は鯉登には不安で揺れているようにしか見えなかった。
だからこそ、罪悪感がある。
しかし、我慢するにもご褒美が欲しかった。


「雪乃…その、すまない…キスをしてもいいだろうか…」


それがキスだった。
我慢はする。
だが、多少の軽い接触は許してほしいと思った。
勿論水城が嫌がる素振りを少しでもすれば、鯉登はきっぱりとやめて我慢する。
鯉登としては意を決して言ったつもりだった。
しかし、当の本人である水城は…頷くだけだった。
耳まで真っ赤なところを見ると恥ずかしがってるだけだったが、鯉登には嫌がっているようにも見えた。
もう考えすぎて判断力が大幅に低下していた。


「や、やはりやめておこう」

「え…?」

「明日も早い…もう横になって眠ろうか」


水城の嫌な事をすれば嫌われる。
やっと再会したというのに嫌われて破局は鯉登にとって死ぬより辛い事だ。
それに雪乃との恋を応援してくれた周囲や、再会後変わり果てた水城をも受け入れてくれた父にも悪い。
更に言えば、子猿(カナ)から何を言われるか分かったものではない。
それだけではなく、鯉登は雪乃が死んだのだと周りに言われ続けても信じ、見合いや出会いを断り続け雪乃を想い続けた。
そんな鯉登にとって、何よりも敬愛する鶴見と最愛の水城に嫌われるのが一番精神的に辛かった。
だから柄にもなく弱気になっていた。
今まで見たことのないほどの弱気な鯉登に水城は目を丸くする。


「本当に調子悪くない?大丈夫?」

「?、調子は悪くはないぞ?さっきも言ったが雪乃が傍にいてくれるだけで疲れは吹き飛ぶくらいだからな」


弱気な鯉登に水城は心配そうに声をかける。
普段はあれほど自信家なのに、今日は落ち込んでいるように見えて『大丈夫だ』と言われても心配になる。
冗談なのか本気なのか分からない鯉登の言葉ではあるが、水城は嬉しく感じた。
しかし、照れもあってか、『なあに、もう…』と少し素っ気なく返してしまう。
とはいえ、頬は赤らんでおり表情も嬉しそうであるため照れ隠しだと、流石の今の鯉登も気づく。
『今日もおいん雪乃がむぜ(可愛い)』と水城から元気を貰っていた。
鯉登の『雪乃が傍にいるだけで疲れも吹き飛ぶ』という言葉はありがち間違いではないのかもしれない。


「もう寝よう…ここまで雪乃も色々あって疲れただろう…本土に帰ったらまだやらなければならない事も多くある…帰る前に疲れを取っておかねば」


水城は鯉登の言葉に一瞬間を置いたが、『そうね』と頷いた。
少し不機嫌そうに見えるが、それは鯉登が色々我慢しているからそう見えるだけなのかもしれない。
せっかく二人一組の布団を敷き、避妊道具も用意して色々気を使ってくれたのに悪いのだが、今日は無用の長物となってしまった。
自分達の次の客に大切に使ってもらおう。
気を配ってくれたこの旅館の女将や仲居達に心の中でお礼を述べつつ、行燈の中の蝋燭を吹き消し、二人は文字通り肩を並べて眠りについた。

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