授乳を終えた水城は赤子がすっかり夢の中に入ったのを確認してから立ち上がり部屋を出た。
向かったのは赤子の父親である青年がいる客間だった。
両手が塞がっているので赤子が起きない程度の小声で声をかけて扉を開けてもらう。
水城は青年が開けてくれるとばかり思っていた。
この家は青年一家の持ち家だし、両親が旅行でいない今、この家の家主は青年なのだ。
しかし水城の声掛けに応じて扉を開けてくれたのは、鯉登だった。
鯉登の姿に水城は目を丸くする。
「遅かったんだな」
鯉登の言葉で水城はなぜ鯉登が開けてくれたのか理解した。
水城はくすりと笑みを浮かべ、彼を見上げる。
「寂しかった?」
鯉登は待っている間、きっとそわそわとしていたのだろう。
頭の中は水城の事でいっぱいにして、まだかまだかと待ちわびていたのだろう。
少しからかうようにそう問えば、鯉登は案外素直に頷いた。
「ああ、寂しかったぞ」
素直な鯉登の答えに水城は眩しそうに目を細め笑みを深めた。
青年はそんな二人を見て『普段ずっと一緒にいられないため、ちょっとでも離れたくないんだろうなぁ』と妄想を続ける。
そのため、二人のところに行くのが戸惑ってしまう。
しかし、そんな青年の妄想など気づかない水城は赤子を父である青年に返そうと、青年に歩み寄る。
「ぐっすり寝ちゃった」
そう言いながら水城は眠る赤子を愛おし気に見下ろす。
母としての姿なのだが、それが余計に『子供を亡くしてしまった哀れな母親』と写ってしまうのに気づかない。(というか気づくはずがない)
授乳も終わったため、父の腕に返そうとしたのだが…―――父の腕に移った途端、赤子が泣き出してしまった。
「ど、どうした?」
「あらあら」
先ほどまですやすや眠っていたのに突然泣き出した息子に青年はあたふたする。
あわあわと慌てながらも宥めるが、泣き止む素振りは見せなかった。
それを見て水城はふと気づく。
「そんな抱き方はダメよ」
「えっ!?で、ですが…母に頭を支えて自分の肘の上に乗せるって教えて貰ったんですが…」
「ええ、ちゃんと出来てはいるんだけど…」
赤ん坊が泣いたのは青年の抱き方が問題だった。
いつから片親なのかは分からないが、ぎこちない抱き方に気づき指摘していく。
母親に教えて貰った通りの形は出来てい入るが、今の抱き方では確かに赤ん坊が起きて不快感を感じても仕方なかった。
不快感と言うよりは不安感だ。
青年は『やっぱりかぁ』と思う。
実は両親が抱いても愚図る事もないのに、父親である自分が抱くと息子は泣くことが多いのだ。
その度に母親に指摘され直そうとするが、息子は父親の腕の中では安心できないのかどれだけ直そうとも泣き止んでくれなかった。
そんな青年に水城は母親にも言われている場所を何度も何度も指摘をしていく。
「音之進もちゃんと見ててね」
「わ、私もか…?」
「ええ…だって、静秋のお父さんでしょう?」
青年の横に立って指導する水城はぼうっと突っ立っている鯉登に声をかけた。
何故か見ているよう言われた鯉登は驚いた声を零すが、続けられた言葉にハッとさせた。
水城は鯉登の丸くした目と合い、にこりと笑みを浮かべた。
その笑みに鯉登もふと微笑みを浮かべ、『そうだな』と水城と青年のやり取りを見学する。
実際やるのと見るのとは違うが、全く知識がないよりはマシだろう。
(静秋…息子さんかな…亡くなってはいないのか…)
妄想の中では水城と鯉登は息子を亡くし傷心旅行しに来た夫婦だったが、先ほどの会話からどうやらその妄想は外れたらしい。
同じ息子を持つ父として、がっかりしたわけではなく、勿論ホッと安堵した。
しかし…
(いや…待てよ…二人目という事もあり得るのでは…!?)
青年の妄想は止まらない。
青年は妄想しながらも器用にも抱き方を教えてもらい吸収していき、赤子もぎこちなかった不安しかない父親の腕の中も安心できる腕に変わって安堵したのか、泣き止んだ。
母親の抱き方や教え方が悪いわけではなく、ただ青年が不器用なだけだった。
『後は経験ね』と先ほどよりマシになった青年の抱き方に水城はそう告げる。
やることはやったという顔だった。
後は青年のやる気と、青年の母に託すしかない。
「あの…何かお礼させてください…」
「お礼?」
「ええ…授乳や抱き方を教えてくださったお礼です…」
本音を言えば、何もかもがお手上げだった。
父親に療養旅行を勧めたのは自分で、その時孫と青年を残すことに心配されたけど『大丈夫だ』と言い切り、後ろ髪を引かれる両親を見送った。
だけど大丈夫ではなかった。
近所の人も気遣ってくれてはいるが、それでも限度があるし、実は自分は父親なのだからという意地もちょっとはあった。
その意地のせいで息子を不快な思いをさせていたのだと水城が息子の世話をしているのを見て実感した。
水城の腕の中にいる息子は安らかな顔で眠っており、自分の腕の中では一度もそんな愛らしい寝顔は見た事がなかった。
まだ問題点もある抱き方ではあるが、それでも泣き止まず愚図らず父親の腕に大人しく抱かれている息子を見て、意地は張るものではないなと学習した。
そのお礼をしたいと思った。
「そうだ!お昼、まだですよね?お昼一緒にどうですか?」
水城は青年の言葉に鯉登とアシリパと顔を見合わせる。
どうする、と問えば青年の気持ちを無下にできないという事もあって、青年の言葉に甘えることにした。
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