(236 / 274) 原作沿い (236)

白石はそのまま寝落ちしてしまい、ぐうぐうイビキをかきながら冷たい地面で眠ってしまった。
水城は暫く考え込んでいたが、二発目のオナラの音にハッと意識を戻した。
頬を叩かれた時は腹が立ったが、今はもう白石への苛立ちは消えた。


「……白石に説教される日がくるなんてね…」


この酔っ払いをそのまま放置してもいいが、店に迷惑をかけてしまうし、何だかんだ言って水城は白石にも甘い。
水城は白石を背負って部屋で寝かせようと、旅館の中に入っていく。


「雪乃?」


男一人背負うのは、鍛えているので普通の女性ほどつらくはないが、だからいって軽々と背負ってはいない。
やはり成人男性は重く、そのうえ、吐いたため呼吸するたびに酸っぱいあの独特の匂いが鼻をかすめる。
その匂いに『くっさいな…』と顔を顰めながらも、水城は他の客を起こさないよう気を付けて運ぶ。
すると水城の耳に聞き慣れた声が届く。
自分を『水城』ではなく『雪乃』と呼ぶのは、知っている中でも一人しかおらず、水城は脳裏に一人の男性を浮かべながら顔を声のした方へ向けた。


「音之進…?どうしたの、こんな朝早く…」


やはりそこにいたのは、恋人である鯉登だった。
鯉登は軍服に身を包んでいた。
しかし、今はまだ早朝であり、まだ人間が起きて活動するには早すぎる時間だった。
水城は中々眠れなかったからこの時間に起きていたが、鯉登は眠っていたはず。
いくら軍人とはいえ、まだ目を覚ますには早い時間に鯉登の姿を見て水城は驚いた表情を浮かべた。


「目が覚めてしまってな…二度寝をする気にもならなかったからこのまま起きていたのだ…着替えて外の空気を吸おうとしたところ、お前がいたんだが…どうした、ソレ…」


どうやら自然と目を覚ましたらしい。
それを聞いて水城はホッと胸を撫でおろす。
旅館の前で騒いでしまったので、起こしたのかと思ったのだ。
それに先ほどの会話を鯉登や月島に聞かれるのは、水城としてもあまりよろしくないのもあった。


「私も眠れなくて外の空気を吸ってたの…そしたらこの馬鹿が帰ってきてそうそう潰れたから部屋に戻そうかなって…」

「私が運ぼうか…重いだろう?」

「ううん、いいよ…音之進にそんな事させれないし」


白石は人好きのする性格のおかげか、ほとんどの人間とすぐ打ち解ける。
しかし、囚人し脱獄したというのもあって、軍人の事はあまり好きではないようだ。
それがなくても、鶴見達には皮を狙われていたから仕方ないのかもしれない。
一応鯉登達には普通に接してはいるが、そこに壁があるのを水城とアシリパは知っている。
それに鯉登に酔っ払いの後始末など流石に頼めないのもある。
断られるのは読んでいたのか、不機嫌になることもなく鯉登は『そうか』とだけ返した。


「あ…そうだ…渡したいものがあるから談話室で待っててくれる?」


白石が売春宿に行ったのは知っていたので、白石の布団は敷いていない。
自分の布団で寝かせとけばいいかと思いながら、部屋に戻ろうとした時、水城はある事を思い出して鯉登を引き留める。
水城の言葉に首を傾げ、渡したいものとは何だと問う前に水城は部屋に入ってしまう。
鯉登は仕方なく、そのまま階段を下りて少し離れている談話室に向かった。
この旅館は街で一番大きな旅館というのもあって、一階に談話室があった。
ここの旅館は24時間動いており、談話室はいつ誰でも利用できるよう常に開いており、人がいなくても暖房で暖かく保たれていた。
儲かっているのか、和風の旅館の見た目に反して、談話室は若干洋風だった。
洋風の洒落た数人掛けのソファが二つテーブルを挟んで配置されており、左右には一人用のソファも置かれている。
それと同じ配置であと二つ置かれていた。
その他にも本も置かれており、昼間は暇な客がここで静かに過ごしているのだろう。
しかし、今は早朝というのもあってか談話室には誰もおらず、鯉登は水城が来るまで暫く談話室を独り占めしていた。
鯉登はそのうちの一つの数人掛けのソファに座る。
座ってみたが、どうやら立派なのは見た目だけらしく、大して柔らかくもない。
しかし座り心地が特別悪いというわけでもないので、水城が来るまでそのソファで待つことにした。
待っている間、鯉登はひじ掛けに肘をかけて頬杖をつく。
視線は一面ガラス張りの窓に向けられ、何の変哲もない外を見ていた。
待っている間、暖房があるので寒さは感じなかったが、話し相手がいないため暇ではあった。
しかし、暇だからと本を読む気にもならない。
暇ではあったが、待たされている相手が水城だと思うと不思議と平気だった。


(早朝に雪乃を待つのは…あれ以来だな…)


ふと、一人で水城を待っていると、過去が蘇る。
水城がまだ細川家の令嬢だった頃…こうして朝早く起きて雪乃と逢引きしていたなと思い出す。
あの頃の記憶は幸せだった。
お互い慣れない早朝で眠たくても相手と一秒でも一緒にいたいから、眠たいのを押し殺して毎日逢引きしていた。
子供だった頃は毎日でも会いに行けたが、あの頃になれば学業の他にも色々な事を教わる事も増えたため、お互い会う時間が取れなくなってきていたのだ。
しかし、少しでも相手の顔が見たい…触れて、声を聞いて、言葉を交わしたい…そう思い、導き出した答えが逢引きだった。
自分達が早朝に逢引きしていたのは、鯉登家はほぼ全員知っていたし、川畑家も全員知っていた。
恐らくそれを知らないのは雪乃だけだろう。
教えてもいいのだが、雪乃が家族に気づかれないようにしながらも自分に会いに来てくれるのが嬉しくて、つい話さず黙ってしまった。
あの頃は幸せだった。
だが、身も心も繋がった今の方があの頃よりも幸せに感じていた。
鯉登は逢引きしていた光景を思い出しながら、胸元のポケットに触れる。
その時、廊下から小さい足音が聞こえた。


「ごめんね…待たせちゃったね」


その足音は従業員ではないく、待ち望んでいる水城だと何となく確信した。
それは当たっており、扉を静かに開けて水城が入ってきた。
水城は鯉登を待たせてしまったと謝り、それに鯉登が首を振る。
首を振るのを見て水城は、気づかれないようにホッと安堵の息をつく。


「いや、それほど待っていないから大丈夫だ」


定番ではあるものの、待たされたというわけではないのも事実だ。
鯉登の言葉に『よかった』と笑みを浮かべ、水城は鯉登の隣に座る。
何も言わず隣に座る姿を見て、鯉登はジーンと胸が熱くなる。
自分が何も指示しなくても当たり前のように傍にいてくれる…それは恋人同士ならば当たり前なのだが、鯉登と水城では奇跡的な事だ。
もう一つ、奇跡的な事がある。
鯉登が手の平を見せるように水城に向けると、水城がその手の上に自分の手を重ねてくれるのだ。
再会した当時の事を思えば、水城が傍にいて触れてくれること自体奇跡以外のなにものでもない。


「まだ川畑家にいた頃を思い出すな」

「川畑家にいた頃?」


重ねてくれた水城の指を絡めて繋ぎ、少し力を込めて握り締めれば、水城も答えるように握り返してくれる。
水城の手を握り締めて繋ぎ止めながら、ふと呟く。
鯉登の呟きに水城は首を傾げた。


「逢引きをしていた頃だ…こうして朝早く起きて裏口で雪乃を待っていた時…こうして心躍らせお前を待っていたなと思ってな」


逢引きしていた頃の記憶は水城にも残っていた。
水城から見ても、あの頃の記憶は幸せが詰まっていた。
兄の事がなければ、きっと今頃幸せなまま鯉登と夫婦になれただろう。
そう思うと兄を憎まずにはいられないが、兄の手を取ったのは誰でもない…雪乃本人だ。
手を払うことだって出来たはずなのに、その手を取るしか選択肢がないと思い込んでいたのは雪乃だ。
だからこそ、あの頃の記憶が余計に幸せに思えるのかもしれない。
鯉登の言葉に水城は小さく微笑み、彼の肩に頭を預けた。


「私も、ドキドキしながら朝を迎えるのが楽しみだったわ…夜に眠って、朝起きればあなたに会えるんだって…あの頃は私も音之進も色々忙しくて中々会えなかったもの…」

「そうだな…学業は大事だったが…早朝の逢引きの時しか雪乃に逢えない事が不満だったな…いっその事一緒に住むかと何度も提案しそうになったものだ」


鯉登の言葉に『なにそれ』とクスクス笑った。
その楽し気な笑い声は鯉登を心地よくさせ、鯉登も甘えるように水城にすり寄せた。
鶴見と合流した後、二人がまたこうして会える保証はない。
鯉登も水城も鶴見のお気に入りだから、多少の事は通るだろうが、確実な保証はない。
二人きりになれないかもしれないと思うと、二人ともこの時間を噛みしめていた。
静まり返る談話室には、外から聞こえる小鳥の声だけが響いていた。


「あ…そうだ…」


しかし、それを水城が遮った。
水城は、久々に鯉登と二人きりになり、幸せに浸っていた。
鯉登となら、いつまでもそばにいられる。
だが、自分が来た用事を思い出し、ハッとさせる。


「忘れてた」


はた、と思い出し寄り添っていた肩から頭を上げる。
離れていく水城に鯉登は寂しさを感じながらも、こんなことくらいで拗ねて子供っぽいところを見せるのはかっこ悪いと、一瞬浮かべた拗ねた顔を引っ込めた。
しかし、寂しいと思うのは緩和されず、自分から意識を逸らしている水城に『早くこっちを向け』と何度も心の中で囁く。
その願いが叶ったように、水城は鯉登を見た。
水城がこちらを見たことに、鯉登は表情に出さないようにしながら嬉しく思う。
そんな鯉登に気づかない水城は、手にあるものを鯉登に差し出した。


「これ…」


そう言って水城が鯉登に差し出したのは、二枚の手紙だった。
しっかりと糊付けされており、一枚は母へと書かれ、二枚目はカナへと書かれていた。
宛名から鯉登はこの手紙が何なのか理解する。
受け取った手紙を見て目を丸くし水城を見ると、水城は苦笑いを浮かべていた。


「最初は郵便で送ろうって思ってたの…でも郵便局にさえ行けなくて…」


手紙はとっくに完成していて、糊付けだってもう終わっていた。
母だけではなく、カナにも宛てた手紙。
二人が許してくれるかは分からないけど、二人への想いを書いた手紙だ。
だけどその手紙達は今まで水城の鞄の中にしまい込まれていて、郵便局に出すこともできないどころか、鞄から出すことだってできなかった。
豊原にいた頃も郵便局の前に何度も通っては出さないとなと思っていても、手や足が全くその気がないように動かなかった。
緊張していたのだ。
母やカナと会うわけではないのに、自分が宛てた手紙を二人が読むと思うと恐怖と照れくささが交じり合って中々勇気が出なかった。


「私じゃいつまでたっても出せないから音之進に出してもらおうかなって…音之進には悪いけど…私の代わりに出してほしいの…」


自分ではいつまでも懐に入れて出さないだろうと、水城は代わりに鯉登に頼もうと思っていた。
しかし、それさえも勇気がなくて尻込みしてしまう。
鯉登に頼み、鯉登が承諾し、鯉登の手に渡ったのなら、いつかこの手紙が二人の元に届くのだ。
当たり前のことだが二人が読むと思うと、鯉登に渡すことさえ緊張して中々言い出せなかった。
だけど月島もアシリパも白石もいない早朝に鯉登と出会った。
これは天が今渡せと言っている気がした。
天も神も、どんな宗教でも信じてはいないが、この時ばかりは信じることにしたのだ。


「…私が出してもいいのか?」


鯉登の問いに水城は頷いて返した。
もう一杯一杯だったのだ。
鯉登は水城の頷きに、手元にある手紙を見る。


「…分かった…私が責任持って手紙を出そう…」


鯉登は水城の気持ちは十分に理解していた。
義兄に死んだ事にされていた水城にとって、母やカナに手紙を宛てて書くということは勇気がいる事だ。
そしてそれは、手紙を出すこともまた、手紙を書くこと以上の勇気がいる。
手紙を出すということは、いずれ宛先の相手の手に届くという事だ。
自分の想いを書いた手紙をあの二人が読むのだ。
緊張と恐怖で水城の足がすくむのも無理はない。
それを鯉登は理解してくれていた。
鯉登の言葉に水城は胸を撫でおろし、安堵の息をつく。


「ごめんね…面倒な事頼んじゃって…」

「馬鹿者…面倒な事ではないだろう…何度も言うが雪乃が叔母上達に手紙を書いてくれたことだけでも十分なのだ…それだけでも雪乃は大きく前に進んでいる…その手伝いが出来るのだ…嬉しく思う事はあっても面倒だと思う事などない」


手紙一つも出せないのかと呆れられるかもしれないと水城は緊張していた。
断られたら何とか意を決して郵便局に手紙を出そうと思っていた。
その際、手紙が送られるのは大分先になっていただろう。
鯉登に渡したものの、本当は鯉登の手の中にある手紙を奪い取って破り捨てたい気持ちで一杯なのだ。
せっかく母と向き合おうと思えたのだが、そう思ってしまうほど水城は緊張と恐怖を感じていた。
そのため、頷いてくれた鯉登に胸を撫でおろした。
『ありがとう』と安心したようにホッと笑う水城に、鯉登も笑って返した。


「ああ、そうだ…私も渡すものがある」


緊張も解け、愛らしい笑みを見せてくれる水城に、鯉登も渡すものがある物があると思い出す。
それに水城は首を傾げていたが、鯉登は胸元のポケットから一枚の紙を取り出した。


「これは?」


その紙を差し出され、水城はおずおずと受け取る。
視線をその紙に向けてみてみれば、渡されたのは一枚の押し花だった。
押し花は珍しい四つ葉のクローバーだった。
鯉登は、押し花を手の平に乗せる水城の手の下から自分の手を重ねる様に触れる。


「これは雪乃に渡そうと思っていたものだ…だが、渡す直前にあの男から雪乃は死んだと聞かされ渡し損ねてしまってな…いつか雪乃に渡そうと常に持っていたものだ…」


『もう色褪せてしまったが』と零す鯉登に、水城は信じられないと目を見張って押し花を見つめた。
あの頃、雪乃の心は沈んでいった。
暴漢に襲われただけだったら、閉じこもっても周りの励ましにあれほど長引くことはなかっただろう。
だが、続けざまに不幸は起きてしまった。
心の拠り所だった父が亡くなった事が切っ掛けとなって雪乃は自分の殻に閉じこもってしまったのだ。
それは愛し合っていた鯉登からの手紙を読むことができないほどの傷だった。
その手紙には毎回押し花が入っていたのだ。
カナから一度も手紙を見ていないと聞いてはいたが、それでも諦めずにほぼ毎週手紙を送っていた。
見ていなくてもいい。
カナが手紙が届く度に、自分からの手紙が届いたと雪乃に伝えてくれるから鯉登は伝えたかったのだ。
遠く離れている地からも雪乃を想っている…そう雪乃に伝えたくて、見てくれなくても手紙を送り続けた。
いつか、見てくれると信じて。
水城は鯉登を見上げる。


「…私が死んだって聞かされたのに…それなのに、私に渡そうと持っていたの…?」


水城は鯉登の言葉に矛盾を感じた。
浮気は疑ってはいない。
彼が浮気をしない事は、この空白の4年間が証明している。
死んだ彼女を想い、新しい出会いを拒み続けてまで自分を想い愛してくれた。
そんな彼の想いを疑うなんて水城には出来ない。
ただ、死んだと聞かされたのに、『雪乃に渡そうと持っていた』という言葉に矛盾を感じたのだ。
その問いに鯉登は静かに水城の手にある押し花を見下ろした。


「勿論、雪乃が死んだなんて信じていなかった…信じたくなかったというのもあったが…何より私はあの男の事を信じていなかった…ただ、その一方で雪乃が死んだのだと信じてもいた…あの頃は証拠もなにもなかったからどちらも信じていたんだ……私は軍人だ…いつどこでも死んでもいいようにこの渡し損ねた押し花を胸ポケットに入れていたんだ…死んだ後、向こう側にいる雪乃に渡せるようにと…」


鯉登と話を沢山してきた。
だけど、まだまだ話していない事が水城にあるように、鯉登にも水城に伝えていない事もあった。
鯉登は矛盾しているが、雪乃が死んでいると信じていたが、信じてもいなかった。
あの当時は本当に証拠もなかったのだ。
焼死体にされてしまえば、誰もそれが偽りだという証拠を探すのは無理だ。
この時代、まだそんな技術はない。
それを吉平は逆手にとって適当な雪乃に似た体型の少女を殺して焼いたのだろう。
雪乃を囲っていた屋敷にいた使用人を鯉登は探したが、一向に見つからなかった。
恐らく、金を握らせたか、その後口封じに殺したか…恐らく後者だ。
鶴見と同等の力を持っているあの男なら、一般人の一人や二人殺したって後始末は簡単だろう。
だから周りは雪乃が死んだと思い込んだ。
それは鯉登だって同じだ。
だが、心のどこかでは雪乃は生きているのだと信じてもいた。
そうすることで心を保っていたと言われればそれまでだ。
だけど、それを否定し続けられても信じていて正解だったと…鯉登は目の前にいる恋人を見つめ、そう思う。
水城は鯉登の言葉にグッと言葉を飲み込んだ。
俯き、自分の手の下から重ねている彼の手を握り締める。


「雪乃…?」


俯いた水城が息を呑む気配を感じた。
握り締める水城の手が震えており、鯉登は心配そうに声をかける。


「音之進は…馬鹿よ…」


『馬鹿とはなんだ』と馬鹿呼ばわりされそう返そうとしたが、その声が微かに震えているのに気づき、口を噤んだ。
ぽつぽつと水城の瞳から涙がこぼれているのにも気づき、鯉登は息を呑む。


「音之進は馬鹿だわ…私は死んだ事にされていたっていうのに…周りはあの人の言葉を信じて私を死んだと思い込んでいたのに…いつまでも死んだかもしれない私を想って…ずっと誰とも結ばれず一人でいて……こんな…本当に渡せるかも分からない押し花もずっと…持っていて…くれて…っ、馬鹿よ…ほんとう…」


四つ葉のクローバーを見つけた時、それは雪乃が死んだ時だ。
胸ポケットに入れていたそのクローバーを見て、鯉登は何を思っていたのだろう。
鯉登のその想いが、水城には一種の呪いにも思えた。
その呪いをかけたのは、誰でもない…自分だ。
きっかけは吉平でも、その吉平の手を取ったのは自分なのだ。
自分のせいで彼は新しい出会いがあって、今以上に幸せな道があったかもしれないのに、それをこの呪いが塞いだのだ。
鯉登ははらはらと泣く水城の頬を両手で包み込むように触れて、顔をあげさせる。
顔をあげた水城は、泣いていた。
涙がこぼれていたから分かってはいたが、それでも、やはり愛する人の泣き顔は心にくる。
寒さに晒されている頬は、涙で濡れているのもあってか、とても冷たく、鯉登の手の体温が水城へと移っていく。


「そうだ…私は馬鹿だ…馬鹿だから…馬鹿でいたからずっとお前を想い続けることができた…雪乃を愛せるなら馬鹿でいい…」


これは一種の呪いだ。
鯉登はそれを理解していながらも水城を想い続けた。
むしろ、呪いを嬉々として受け入れた。
それは壊れたとか、狂ったとか、そんな生易しいものではない。
これは恐らく…執着。
尾形が水城に執着しているように、鯉登も水城に対して同等の薄暗いものを胸の内に飼い強い独占欲を抱き執着している。
水城は二人のその胸の内にある薄暗い独占欲と執着には気づかないだろう。


「私は絶対にお前を忘れない…絶対にお前を手放さない…それが例え雪乃が私から離れようとしても…私は絶対に、雪乃の事を手放さない…それほどお前を愛しているんだ…」


鯉登の言葉に水城はぞくりとさせた。
怖いと思ったのと同時に、喜びが体中に走る。
水城は、その大きな琥珀色の瞳に涙を溜め、頬を涙を伝って零す。
その涙を鯉登は舌で拭ってやり、涙が溜まっている瞳に口づけを落とした。
それを水城は黙って受け入れ、鯉登の首に手を回し、琥珀色の瞳を閉じた。
それが合図のように、鯉登はそのまま水城の唇にキスをする。


「ん…」


最初は触れるだけのキスだった。
リップ音さえない触れるだけの口づけ。
水城もそれに応えるように、自ら鯉登にキスを送る。
戯れのような口づけを繰り返すと、鯉登の舌が水城の口内に入ってきた。
何度も鯉登とキスをしてきた水城は、その侵入してきた舌を簡単に受け入れた。


「ぁ…ん、んぅ、」


少し開けられた隙間から鯉登は舌を入れる。
触れるだけだった口づけも深くなり、お互い夢中で深い口づけを繰り返す。
水城も積極的に鯉登の舌を自分の舌で絡ませ、角度を何度も変えてキスを繰り返した。
涙を舐めたため、少し塩辛かったが、それさえ甘く感じる。
キスに夢中になりうっとりとさせる水城に、鯉登はゆっくりとソファに押し倒す。
座った時は柔らかさがない事に多少の不満はあったが、こうして押し倒す時柔らかすぎるのもやりにくいため、柔らかさに対する不満は消えていく。


「ンッ…っ、…音之進…ここ…談話室、なんだけど…するの…?」


押し倒された水城は、頬を赤らめながら恐る恐る聞く。
キスで濡れた水城の唇を舐めながら、鯉登はその愛らしい姿と反応に目を細める。


「私の部屋には月島と谷垣一等卒がいるし、お前の部屋には白石とアシリパがいる…今更連れ込み宿に行ったって時間もないからな…それにたまにはこういう趣向もいいと思わないか?」


ちゅ、と頬にキスを繰り返しながらご機嫌を取る鯉登に、水城はキュンとなった。
『人が来るかもしれないじゃん』と小さくぼやくが、水城は拒まなかった。
むしろ、鯉登同様、いつ人が来るか分からないこの場所で情事をするのにドキドキしてしまう。
それに最近以前に比べて体を重ねる機会が減ったというのもあって、水城だって悶々としていたのだ。
燃えてしまうのは無理もないだろう。


「一回だけだからね…」


ただ、やはり迷惑行為というのが頭にはちゃんとあった。
旅館の人や泊っている客たちに性欲に抗えないことを心の中で謝りながら、鯉登に承諾の意味でキスをした。

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