(237 / 274) 原作沿い (237)

日が高くなり、ほとんどの人が活動を始める時間。
水城は鯉登と談話室で体を重ねたが、何食わぬ顔でアシリパ達に交じって朝食を食べていた。
後始末が大変だったが、談話室を汚さないよう鯉登も水城も気を付けて事に及んでいたため、気づかれずにすんだ。


(このまま時間が止まればいいのになぁ)


水城は皆で食卓を囲むこの瞬間、時間が止まってほしいと思う。
数時間後、鶴見は大泊に到着する。
そうすると鯉登は軍人として鶴見の傍に控えるだろう。
しかし、水城はどうなるのだろうか。
鶴見は水城を気に入っているが、それはすなわち、信頼しているとは繋がっていない。
少なくとも、鶴見の部下たちは敵対関係だった水城達を信用はしないし、仲間意識など一生得られることはないだろう。
特に水城は鶴見に気に入られているため、鶴見を盲目的に慕っている部下達からの当たりは強そうだ。
鯉登の恋人だからこそ、水城の傍に恋人の鯉登を残す愚行はあの鶴見はしない。
下手をすれば実家に無理矢理帰されるかもしれない。
そのため、きっと鶴見と合流したら今のように和気あいあいとみんなで食事をすることはないだろう。
だからこそ、今この瞬間に時間が止まって欲しいと願った。

しかし、現実はそうやすやすと非現実な展開など起きない。
―――ついに時間となり、水雷戦が姿を現した。
ただ、人目を避けるためか、港とは離れた場所に停泊した。


「来たッ」


緊張からか、鯉登はゴクリと唾を呑む。
久々の尊敬する人との再会だ…緊張もするのだろう。
対して、水城は不思議と穏やかだった。
緊張していないわけではない。
穏やかとは言ったが、穏やかというよりは静かな警戒と言った方が正しいだろうか。
所謂嵐の前の静けさだ。
鶴見の一言で水城とアシリパの運命は分かれるのだ。


「北海道へ戻ったら小樽のフチに会いに行けるよう頼んでみるといい…それを許さないほど鶴見中尉は話の通じない人間ではない」

「どんな男かはひと目見れば分かる」


水城の隣には定位置であるアシリパがいる。
その隣には谷垣が立っており、神妙な面持ちを見せるアシリパにそう声をかける。
それを船から降り、こちらに向かって来る人影から視線を外さないまま、水城は谷垣がここにいる理由を思い出す。
谷垣は夢でアシリパが死ぬのを見て落ち込むフチのために、アシリパを連れ戻そうと水城達を追ってきたのだ。
今思えば、谷垣もまさかここまで長旅になるとは思わなかっただろう。
何より、インカラマッという大切な人が出来るとも思わなかっただろう。
水城だって、コタンから離れてこんなにも長旅になるとは思わなかったし、まさかその旅の中で鯉登と再会しただけではなく、和解し体を重ねるとも思っていなかった。
母やカナに手紙を送ることだって当時は考えられなかった。
この旅でアシリパは得られることが多くあり、水城が知らない間に成長したと白石は言った。
水城が知っているアシリパではなくなったのだと。
ただ、それは水城にも同じことだと言えるだろう。
水城はアシリパの返した言葉に、一瞬人影からアシリパへ視線をやるが、すぐに鶴見達人影へと戻す。
白石はそんな水城に気づき、気づかれないように小さく溜息をつき、水城と同様人影へと視線を戻した。
そうこうしている内に、鶴見と部下達数人が水城達の元へと到着した。


「樺太先遣隊…ご苦労であった」


まず、鶴見はアシリパを奪還するため派遣した鯉登達を労わった。
その言葉に鯉登だけが嬉しそうに笑顔を浮かべていた。
水城はまるで鶴見に対して無感情のように表情を浮かべておらず、鶴見は全員を見渡しながら水城に視線を止め、目を細めた。
無感情のように見せつつもあからさまに警戒する、目の前の犬が可愛い。
アシリパのためとはいえ、一度は誘いを断った自分の懐に足先を入れているのにかかわらず、媚も売らないこの犬がとてもとても可愛い。
懐かないところがたまらなかった。
そして、水城からアシリパへと鶴見は視線を滑らせる。


「そちらのお嬢さんがアシリパだな?」


そう言って鶴見は軍帽を取る。
アシリパは初めて鶴見と顔を合した。
初めて鶴見の存在を知ったのは、水城が勝手に先走って一人で行動をしたあの夜。
遠目だったし、夜で薄暗かったが、アシリパは一方的に鶴見と会っていた。
鶴見の顏は、はっきり言って初対面では身構えてしまう容貌だ。
元々は顔が整っている美男子だったのだろう。
しかし、鶴見は戦時中に砲弾の破片を受け、顔に傷痕が大きく残っていた。
水城のような切り傷ではなく、顏の上半分を覆うような傷である。
皮膚が捲れたため残った傷だが、その傷痕の他にも、鶴見の額にはその怪我の際に欠損した前頭葉を保護するホーローで出来た額当てをしており、その姿は大概の人に一歩引いてしまうくらいの衝撃を与える。
しかし、アシリパはそんな衝撃的な姿を見ても、引くどころか強い眼差しで真っ直ぐ鶴見を見上げていた。


「なるほど」


たった一言、鶴見はアシリパの目を見つめそう呟いた。
脳裏にはアシリパの父親を思い浮かべていた。
死んだのっぺら坊の目を開いて見た。
そこには死んで淀みながらも娘と同じ青い目が嵌めこまれていた。
娘に引き継がれた青い目…と言った方がいいだろうか。


「……よし…!アシリパを駆逐艦へ!」


どうやら顔合わせも無事に終わりそうだ。
そう誰かが思っていると…


「杉元と白石は明朝の連絡船に乗り、稚内(わっかない)で待機していろ」


鶴見は元からアシリパを乗ってきた駆逐艦で一緒に戻り、水城と白石を明日の早朝の船で戻し、離れ離れにさせるつもりだった。
その言葉に異論を唱えたのはアシリパだった。


「ちょっと待て!どうして一緒じゃないんだ!?」

「乗員定数の都合で全員は乗れない」


それを言われれば流石に何も言えなくなる。
しかし、アシリパはまだ食い下がる。


「後からくる二人に『稚内で待機しろ』というのは合流しないのか?私はどこへ連れていかれる?」

「後で教える」

「水城と離して私をどこかに監禁する気か!」


アシリパの言葉は当たっていた。
鶴見は元から水城とアシリパを一緒の場所に置いておくことは考えていなかった。
アシリパには使われていない聯隊の倉庫にある地下室に監禁するつもりだった。
そこは聯隊長さえ把握しておらず、監禁するならば誂え向きの場所だ。
そこでなら、金塊を見つけるまで数年かかったとしても気づかれることはないと、鶴見は考えていた。
しかし、それを言えばアシリパからも水城からも反発されるとして、当然否定する。


「そんなことはない…杉元とはいつでも会える…だが誰もがお嬢さんを狙っているのだ…ひとまず安全なところへ保護しなければ」


そう言いながら、鶴見は零れてきた本人曰く"変な汁"こと、脳漿をハンカチで拭う。
それでも、アシリパは完全に鶴見の言葉を信じることはなかった。


「父は土方歳三にだけ私の存在を伝えた…私を金塊探しに関わらせてアイヌのために使われるか見届けさせるためだ…」


アシリパの存在は、土方以外の誰も知らなかった。
恐らく、その情報をもとに最初に土方がアシリパに接触する手筈だったはず。
しかし、そこに水城という存在が横やりのように現れた。
そして今に至っている。
当所の計画は逸れたものの、土方にとっては大したミスでもないのだろう。


「その口からはっきりと聞きたい…鶴見中尉の考える未来にアイヌは存在しているのか?」


アシリパにとって大事なのは金塊ではなく、アイヌだ。
鶴見の言葉を全て信じた事で、祖父や叔父を含んだアイヌ全てが滅ぼされた、または不幸になっては目も当てられないし、アイヌ全ての人に顔向けできない。
この騒動は父がきっかけとなった。
父だけの責任ではないが、その責任を負うべき人物の娘として、これ以上アイヌを傷つけたくはなかった。
当然、鶴見は『勿論だ』と言う。


「みんなが幸福になる未来を目指す!…それは我々の意思と行動にかかっている…アシリパにもぜひ協力してもらいたい!」


アシリパはそれでも鶴見の言葉を全て信じ切れなかった。
金塊の鍵であるアシリパと対面し興奮しているのか、止めどなく零れる脳漿を拭う鶴見を、アシリパはきっと睨むように強い眼差しで見上げる。


「アイヌのために使われないのなら協力しない!そもそも金塊はアイヌのものだ!」


水城は口を挟まずただ静観していた。
少しずつ、二人が言葉を交わせば交わすほど、この場の空気はピリピリとし始めた。
水城はぐっと肩にかけている銃の背負い紐を握る力を入れる。
少しカチャリと音が鳴ったが、アシリパと鶴見の論争にみんな気づかなかった。


「そもそも和人を殺すための軍資金だろうが」


しかし、ついに鶴見の一言でその場は一気に殺伐とした空気に変わった。
今までのピリピリが可愛いくらいの嫌な雰囲気に、周りは息を呑む。
月島と鯉登は直球の物言いをする上官に目を見張った。
だが、それでも水城は表情一つ変えず、警戒を強くした。


「そのつもりで砂金を集めた一部のアイヌはみんな死んだ!!全てのアイヌが戦いを望んでいるわけではない!!使い道はいま生きてるアイヌが選べる!!」


父が殺したのか、それとも水城が伝えてくれた通りあのアイヌ達は父ではなく誰かが殺したのかはまだ分からない。
だが、だとしても…父は死に、キロランケも死んだ。
今や和人を殺そうと思うアイヌよりも、戦いを望まないアイヌの方が多い。
元々アイヌは戦闘民族ではないのだ…金塊を手に入れてもみんな身の回りの物に使うはず。
しかし、アシリパが鶴見の言葉を信じていないように、鶴見もまたアシリパの言葉を信じていなかった。


「お前が遺志を受け継ぐさ」


鶴見は止めどなく零れる脳漿を拭き続けながら、そう静かに零した。
月島はその違和感に、内心首を傾げた。
鶴見からは、決して傷つけず優しい嘘でアシリパを惑わすと聞いていたのだ。
しかし、今の鶴見はどうだ。
直球すぎる言葉を繰り返しアシリパの反感を買い続けている。
その様子に月島は違和感を感じた。
しかしそんな部下をよそに、鶴見は怯えることなく真っ直ぐな目で見つめるアシリパの青い目を見つめ、ぽつりと零した。


「あの父親に…目がそっくりだものな」


脳裏にまた浮かんだ。
それはアシリパの父親の顏。
顔を剥がされた顔ではなく、別名を名乗っていた頃に出会った、正真正銘初めて会った時の顏だ。
その後、すぐに光景が変わる。
まだ顔に傷を負っていなかった自分の腕に抱かれる血だらけの赤ん坊。
そして、銃弾を持つ血だらけの己の手。


「ふふ…ふふふふ…」


鶴見は突然笑い出した。
アシリパと鶴見しか話していなかったため、誰かが面白い事を言ったわけでもない。
アシリパが面白い事を言ったわけでもなければ、鶴見が言ったわけではない。
だが、鶴見は笑っていた。
額当てから大量の脳漿を流しながら、鶴見は笑い続ける。
その光景を見て、誰よりも戸惑ったのは、鶴見の部下達だった。
水城はただ、脳漿をボタボタと拭き切れないほど零しながら笑う鶴見を見つめていた。
しかし、ふとアシリパの動きに気づき、アシリパを見た。
―――アシリパは腰にある矢を数本抜いていた。
その行動に水城は目を丸くする。


「水城…」


ズズズとゆっくり静かに矢を抜き、アシリパは弓の弦に固定しながら水城を呼んだ。
アシリパは何も言わなくても水城がこちらを見ていると分かっていた。
アシリパは弓を引きながら水城を見上げ…


「私の事は私が決める」


そう告げた。
その言葉に水城はコクリと頷いて返した。


「アシリパ!何をしている!!」


アシリパが弓を引いているのに気づいた月島が、ハッとさせ声をあげた。
その瞬間―――アシリパは天に向かって数本の弓を放った。
それを見た水城は、すっと息を吸い込み、


「毒矢だ!!かすっただけでも即死だぞ!!」


そう声を上げて叫ぶ。
その言葉に一同騒然とし、上官である鶴見を左右に立っていた軍人と宇佐美が庇った。


「避けろ!!」


短い間だが、アシリパの弓に毒が仕込まれているのは狩りで知った月島は、部下達に避けるよう告げる。
水城の言葉は嘘だという証拠はない。
本当に仕込まれている可能性だってあるのだ。
鶴見を庇った宇佐美と軍人以外はそれぞれ降ってくる弓を必死に避けた。
その間にアシリパと水城は走り出し、第七師団から逃げ出した。


「逃げたぞ!!!」


部下に押し倒されながら鶴見は、部下に水城とアシリパが逃亡したと叫ぶ。
鶴見の声を背後に聞きながら水城は共に走るアシリパを見た。


「あのヤジリ…毒がついてなかったわ!!『逃げる気だ』ってすぐにピンときた!!」


鶴見達は水城の言葉に騙されていたが、水城は咄嗟であったものの、アシリパの握る矢の先に毒がないのを見ていた。
アシリパが逃げるのを選択したのを察して、毒が仕込まれているように思わせるため叫んだのだ。
水城の言葉にアシリパはニヤリと笑って見せる。


「コタンに帰ってチタタプして暮らすか…アイヌを守るために戦争をするか…選ぶ道はひとつじゃない!」


アシリパは今まで何も言わなかったが、考え続けていた。
アシリパは選択を迫られていたのだ。
平和に暮らすか、アイヌのために血を流すか…
その選択を、この小さい体に周りは迫っていたのだ。
だが、アシリパの出した答えは大人たちの予想を超えるものだった。


「水城!相棒ならこれから『するな』と言うな!!何か『一緒にしよう!』って前向きな言葉が私は聞きたいんだ!!」


アシリパの言葉に水城は目を丸くする。
アシリパは用意されていた選択を選んだのではない。
自分で道を切り開いたのだ。
本当にアシリパにはいつも驚かされる、と水城は感服した。
そして、白石の言葉が頭に蘇った。
水城は見ない間に成長したアシリパのその姿を眩しそうに目を細め見つめ、笑った。


「よしッ!!私達だけで金塊を見つけよう!!」


アシリパの成長は寂しいと思っていた。
どこか遠くへ行ってしまうのではないかと思っていた。
しかし、それはただの杞憂だったのだと水城は知った。
水城の言葉にアシリパは『ああ!!』と笑い返して頷いた。

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