鶴見は、平二の流氷の動きが早いため囲まれて動か無くなる前に出た方がいいという判断に従った。
それもあったが、鶴見の脳裏に頭を撃たれて死んでいた部下を思い浮かべる。
遠く離れている場所で一番的が小さいであろう頭を正確に撃つのは、よほど腕利きでなければ難しい。
動けなくなる足ではなく、頭を撃って殺したところを見ると、こちらも徒歩で追いかけるのは得策ではないだろう。
その人物には一応聞き覚えがある。
月島の情報から得たロシアの脱走兵だろう。
尾形が抜けたかと思えば、今度はロシア兵…アシリパ側は狙撃手に恵まれているのだろうか。
念のため船内を探す指示を出しながら、鶴見は水城を思い浮かべる。
(流石は不死身と言ったところか……やはり、惜しい…)
吉平の後ろに控えていた頃から、鶴見は水城を欲していた。
そこに女への劣情はないが、それに近いのかもしれない。
部下としても欲しいが、常に傍に置いておきたくなる。
そこにあるのは、正真正銘、支配欲だ。
誰にも心を開かない鬼神の手綱を、自分だけが握っている。
そう思うと体が震えるほどの優越感、そして満足感が生まれる。
吉平も、だからこそ彼女を傍に置いていたのだろう。
(死んでも手に入れたいとは、よく言ったものだ)
鶴見は水城を気に入っており、出来る事ならば飼い犬にしたいと思っている。
しかし、その心に反して、鶴見は部下達に水城に対して生死を問わないと命じている。
矛盾しているようにみえるが、鶴見はどちらでもいいのだ。
不死身の杉元がこの手に入るのならば、冷たい亡骸であろうとどうでもいい。
生きていることに越したことはないが、死んだからと言ってそれで終わりではない。
人間、焼いたらどうなるか…鶴見は間近で見た事がある。
残った物も水城には変わりない。
「鶴見どん」
平二に声をかけられ、鶴見は思考の波から返ってきた。
ハッとさせ意識を平二へと戻す。
平二は席を外そうとしていたため、鶴見に一声かけた。
一言謝りながら、鶴見が頷いたので船内に消える。
彼の後ろ姿を見送りながら、鶴見の脳裏に怪我を負った彼の息子を思い出す。
しかし、その姿はすぐに消えた。
愛する男を刺した鬼神を、思い出したのだ。
鶴見は無意識に唇を舐める。
◇◇◇◇◇◇◇
平二は息子の元へと向かった。
遠目だが、双眼鏡で水城達の事を見ていた。
そこで水城が息子を刺し、逃亡していくのを見ていた。
最初こそ水城が息子を刺した事を驚いたが、何より落胆が大きかった。
期待したのだ。
息子である鯉登ならば、水城を連れ戻してくれるだろうと。
しかし、水城は息子の元から去ってしまった。
気を焦っているのは分かっているが、水城が逃げた事に平二を落胆させた。
――音之進は医務室に運ばれ、治療を受けていた。
ハンモックに寝かされている息子に、平二は労いの言葉をかける。
鯉登は父の言葉に深い溜息をついた。
「情けんなか…」
そうぽつりと呟く息子に、平二は何か言いかけた。
しかし、すぐに口を閉ざし、周囲を見渡す。
「生きちょりゃよか」
親としての言葉。
この言葉は他の人間には聞かせられなかった。
戦争ではないものの、自分は将校としての責任がある。
息子だからと所かまわず甘やかすのは、部下達がいる手前控えなければならない。
平二は落胆していた。
しかし、それは息子に対してではなかった。
水城を連れて戻せなかった事への落胆、寂しさだ。
鯉登は父の言葉にグッと言葉を飲み込んだ。
言葉通りであるのだ。
死んでは元も子もない。
死んでは父や鶴見の役に立てない。
何より、死んでしまっては水城にはもう二度と会えない。
あんな思いを…最愛の人を亡くしたと思っていたあの心がぽっかりと穴が開いた虚しい日々を、水城にまで過ごさせるわけにはいかない。
それに、誰にも水城に触れさせるつもりはない。
特に、尾形などもってのほかだ。
だからこそ、死ぬわけにはいかない。
「…おやっどん……おいんコートんポケットに雪乃が
けたてがんが入っちょっ」
「てがん…?」
しかし、自由に動けるには時間がかかる。
そう医者に言われた。
北海道についてすぐに手紙を出そうと思っていたのだが、そうはいかなくなった。
そのため、最も信頼できる父に手紙を託そうとした。
息子の言葉に平二は首を傾げながら、傍に掛けられているコートから水城の書いたという手紙を取り出す。
手紙は二枚入っていた。
何の変哲もない手紙だ。
しかし、宛先を何となく見れば、平二はぎょっと目を丸くし息子を見る。
「こや…」
宛先は静子とカナと書かれていた。
水城の母親と、妹のように可愛がっていた使用人の名前に、驚いた表情を浮かべたまま息子を見る。
息子は痛み止めがまだ効かないのか、時々痛みに顔を顰めながらも、父の呟かれた声に頷いた。
「雪乃が二人に向けて
けた
てがんじゃ」
鯉登は父にこれまでの事を話す。
父は水城と和解したと鶴見から伝えられたが、水城を連れ戻すことが出来なかった事を落胆していた。
しかし、その落胆は自分の勘違いだと知る。
鯉登はきちんと自分の恋人を繋ぎ止めたのだ。
離れてしまったし、敵同士になってしまった。
しかし、二人は騒動と共に消える関係ではなく…きちんと将来を考え、そして約束している。
騒動が終わったから、二人の関係が終わるわけではない。
それを知って平二は嬉しく思う。
平二は任務よりも、水城を繋ぎ止めた事に『よくやった』と刺されていない方の肩を軽く叩いて褒めた。
父にお褒めの言葉を貰い、多少は気が軽くなったのか、ほっと鯉登の表情が和らぐ。
「二人に
てがんを出すよう雪乃に頼まれたとじゃっどん、こん状況では出せがならんから代わいに出しておいてほしか」
本当は水城に頼まれたのは自分なのだから、自分が出さなければならない。
この手紙はそれ程までに、責任のある物なのだ。
この手紙に書かれている文字一つ一つにどれだけ水城の勇気が詰まっているのか。
この手紙がどれ程、奇跡的な存在なのか。
きっと鯉登達以外には分からないだろう。
水城は吉平の死と同時に彼から解放されているのだから、いつでも母の元に帰れたはずなのだ。
しかし、水城は母の元には帰らず、母や鯉登には一切会わず一生を終えようとしていた。
それは母に対する負い目なのだろう。
義兄二人の事もそう。
水城の見た目のこともそう。
孫である静秋の事もそう。
静秋の父親の事もそうだ。
母に罪悪感があり、合わせる顔がないと会いたいのに会えないと勝手に思い込んでいる。
だからこそ、この手紙はどんな手紙よりも奇跡で生まれたものだ。
だから父に託そうとしたのだが…しかし、父は首を振った。
「こや、音之進が渡しやんせ」
鯉登は目を丸くする。
父は自分達の事情を理解している。
だから頷いてくれると思ったのだ。
しかし、父は首を振り、手紙を息子に返した。
「おいはこん怪我ですぐには出してやれん…じゃっで、代わいに出してほしか」
「そうじゃ…だからこそわいが渡すべきだ」
『今、連れて来る』と言って出ていく父に鯉登は怪訝とさせた。
連れて来る、とは何なのか。
もしも言葉通りとすれば…
鯉登は冷や汗が流れた。
父が何を言っているのか理解したくないくらいは、困惑していた。
―――暫くすると、父が戻ってきた。
二人の同伴者を従えて。
「音之進さん…」
ああ、やはり…。
鯉登は父の陰から現れた女性に、驚きもなくそう思う。
「…叔母上」
父の陰から現れたのは、鯉登の叔母であり…そして―――水城の母親である静子だった。
静子は杖をついて入室し、その後ろには水城の使用人だったカナもいた。
体を起こそうとするが、それを父に止められた。
「ないごて…二人がここに…?」
父に『安静にしなさい』と言われて、鯉登は体をハンモックに戻す。
椅子に座る静子と、静子の後ろに控えているカナを見つめながら、そう問うと静子が薄く口を開いた。
「…噂で聞いたのです…雪乃さんが生きていると…」
叔母の声は小さかった。
雪乃を亡くしてから閉じこもり、碌に人と話していないため、鈴を転がすような声は影を潜めてしまった。
叔母は寝込んで以来、寝たきりだったため、杖でなければ歩けなくなっていた。
最後に見たのは数年前。
その頃と比べると全体的に細くなった印象だ。
髪飾りについているレースで顔色の悪さを隠しているが、隠し切れないほど、叔母の顏は青白い。
それは引きこもっていたためか、それとも…
しかし、小食となってしまったためか、頬はこけており、その目元は赤い。
恐らく泣いていたのだろう。
まだ名残のように静子の瞳は涙で濡れていた。
叔母の言葉に鯉登は首を傾げ怪訝と見せる。
「その噂はどこから聞いたのですか?」
「それはカナが…」
自分ですら聞いたことのないその噂の出所を聞くと、静子は後ろに控えていたカナに振り返る。
それにつられて鯉登もカナを見る。
カナは静子の傍に控えなければならないため、食事はちゃんと取っているらしく、静子に比べて顔色はそれほど悪くはない。
しかし充分な睡眠はとれていないのか、目元にはクマが出来ていた。
そして、カナも泣いていたのか、眼を赤くして涙で濡れていた。
カナは三人の視線に今まで閉じていた口を開いた。
「私も噂で聞いたのです…いつも配達してくれるゲンさんから…『雪乃お嬢様が生きている』と…ゲンさんも噂で聞いたとかで出所までは…」
『申し訳ございません』そういう彼女の声も小さかった。
申し訳ないと思っていたからもあるだろうが、彼女も必要最低限に会話をしないためなのだろう。
きっとカナも静子も、お互いがいなければ言葉さえ忘れてしまっていたかもしれない。
そう思うほど、彼女たちは雪乃を亡くし心に傷を負った。
そんな二人はさぞかし雪乃を忘れず想い続ける自分と会うのはつらかっただろう。
カナの言葉に、鯉登は懐疑的な視線を隠せないでいた。
「噂は噂だと私も思っていました…でも…音之進様が雪乃様が生きていると信じていらっしゃったため……私は…私達は…その噂をただの噂だと否定しきれなかったのです…」
鯉登は目を見張る。
鯉登は確かに雪乃が生きていると信じていたし、それを周りに隠さなかった。
しかし、何度も、しつこいほどに言った覚えはない。
日々が過ぎるごとに心に留めるだけで誰にも告げるのもなくなった。
本当なら恋人の死を認めたくない往生際の悪い男だと思われても仕方ないはず。
だが、カナも静子も、頭の端にくらいは残っていたらしい。
きっとそれは彼女達も鯉登同様、雪乃の死を信じたくなかったのだろう。
だからこそ、嘘のような噂を信じてここまで来たのだ。
でなければ、今も彼女達は屋敷の暗い部屋で引きこもっていたはず。
話を聞くだけなら、嘘くさい…そう思うだろう。
だけどきっと当時の鯉登でも、そんな嘘くさい噂を信じたに違いない。
それにその噂は真実だ。
だから安易に噂だけで信じてここまで来た彼女達を責める事は誰にもできない。
だからこそ、父はここまで彼女達を連れてきたのだろう。
ショックを覚えるかもしれない。
今度こそ歩けないほど寝たきりになるかもしれない。
だけど、もしも…そう、もしも、雪乃がどんな姿であれ生きていると知ってくれれば、静子の容態は安定するかもしれない…妻の妹を平二も心配していたのだ。
あれほど美人姉妹だと周囲に羨まれていた容姿は見る影もなくなってしまった。
それが、悲しい。
「あの子…」
出所は流石に分からなかったが、どうしてここにいるのかは納得した。
いや…納得するしかなかったというべきか。
これ以上問い詰めても情報は得られないと思ったのだろう。
すると、カナに説明を任せていた静子がポツリと呟いた。
その声に鯉登は静子へと視線をやる。
「あの…女の子の傍に、いた…軍人の…あの人が…あの子が……雪乃さん、なのですね…」
ポツポツと自信なさげに静子は問い、鯉登を見つめる。
静子は平二とカナと共に、この船で一部始終を見ていた。
双眼鏡で遠目だが、娘かどうかを確認したのだ。
流石に鮮明な姿は分からなかったが、双眼鏡はその瞳に娘の姿を見せた。
否定してほしいと思った。
だけど、否定しないでほしいとも思った。
娘を亡くしたことによって、静子の心は娘の亡骸の傍に寄り添うように、ぽっかりと穴が開いてしまった。
何を食べても美味しいとも思えなくなった。
寝ても寝た気にならなかった。
何をしても何も感じなくなった。
このまま死んで、娘の元に逝きたいとさえも思った。
そんな虚しい日々を無為に過ごして、静子だってつらくないわけがない。
立ち直らなければと思っているのだ。
周りに迷惑をかけてしまっているのだと。
だけど娘が…息子が…愛する夫が、いない日々をどう過ごせばいいのだろうか。
あの館には家族の楽しい記憶も、悲しい記憶も、沢山詰まっている。
それが、つらい、寂しい、虚しい。
それに、娘があんな姿になっているのを認めたくないのもあるのだろう。
あんな…傷だらけで…女の子なのに、軍人の姿をしてまで男装して…身体中に銃を撃たれて…愛した男性を刺して……自分達から遠ざかって…
その現実を認めたくなかった。
だけど、そんな心とは裏腹に、娘であってほしいとも思った。
愛しい娘が生きているかもしれない…そんな眉唾物に縋ってでも静子にとって雪乃は大切で愛しい存在だった。
そんな複雑な静子の心を読んだように、鯉登はコクリとしっかりと頷いた。
その頷きに静子とカナが息を呑んだ。
静子は濡れている瞳に涙を浮かべ、その涙はぽろりと頬を伝って零れる。
『ああ』と瞼に涙を滲ませ、顔を手で覆って俯いた。
「雪乃さんっ…雪乃さんが…ああっ!なんてこと…っ!!どうして…!なぜなの…!雪乃さん…っ!!」
それは、悲涙の雫にも見えた。
だが、それは違うのだと鯉登は分かる。
鯉登も静子と同じだった。
信じられなかった。
どうして雪乃が生きているのだと。
生きていると信じていても、やはり目の前に本人が現れると、人は信じられなくなる生き物なのだろうか。
だけど、安心した。
生きていたことへの喜びもあった。
だが、続いて感じるのは、疑問。
なぜ、生きていると知らせてくれなかったのか。
なぜ、生きているのなら会いに来てくれなかったのか。
なぜ、なぜ…
喜びや安堵は疑問で埋め尽くされてしまうのだ。
前かがみになり泣き崩れる義妹の背中に、平二が手を伸ばし優しく撫でる。
その傍に寄り添っていたカナは涙ぐみそうになるのを、唇を噛み、グッと手を握り締める事で我慢していた。
それは主人の前で惨めな姿を見せないように我慢しているようにも見えた。
カナを見ていると、雪乃の傍を独占しているアシリパを思い出し、鯉登はカナから視線を逸らす。
「叔母上…嘆かないでください……雪乃は事情があり、私達のところには戻れないのです…」
叔母の涙は…女の涙に弱いのはどの男も同じだ。
叔母の泣き顔が見ていられず、慰めるように声をかけた。
鯉登の言葉に、静子は顔を上げる。
両目から涙がはらはらと流れている姿に、鯉登はズキリと胸が痛んだ。
やはり、雪乃をもっと説得して叔母と会わすべきだったか、と思ったが、その考えもすぐに撤回する。
自分が時間をかけて説得できるのなら、きっと雪乃はもっと早くに母や自分の元に戻ってきている。
雪乃には雪乃の事情があるからこそ、会えないのだ。
手紙を書いてくれただけでも奇跡なのだ。
そう思い、鯉登は雪乃が書いた静子とカナへの手紙を差し出した。
それを静子が受け取り、差出人の名前を見て涙で濡らした目を丸くする。
「雪乃さん…からの…手紙…」
驚いたためか、叔母の瞳から涙が止まった。
パチリと瞬くと溜まった涙がはらりと零れた。
二枚あるので、受取人の名前を見て、カナにも渡す。
「私にも…?」
「ええ…雪乃さんからのお手紙よ…カナ…」
雪乃からの手紙だというのは、静子の呟きで知っている。
だが、静子に宛てられた手紙だというのは分かる。
静子は、血の繋がりがないとはいえ、雪乃の母親だ。
娘から母へ手紙を送るのは普通である。
しかし、自分にも送られるとは思わなかったカナは驚いた。
自分は確かに、雪乃とは仲睦まじく主従関係を築けたと自負している。
だが、自分は使用人である。
主人が使用人である自分に手紙を送ってくれるなど、ありえなくはないのかもしれないが、一般的ではないだろう。
カナは静子から差し出される手紙を、震える手で受け取った。
(雪乃お嬢様…)
差出人は、確かに幼い頃に仕えていた主人の名前だった。
受取人の名は自分だ。
カナは雪乃が書いたであろう『カナへ』という文字をそっと触れて撫でる。
優しく、まるで傷つきやすい物のように。
「雪乃は叔母上の事も、カナの事も、一度も忘れたことはありません…雪乃が勇気を出して書いたものです…どうか、読んであげてください…」
鯉登の言葉に、静子は胸元に手紙を抱き、何度も頷いた。
手紙を抱くその手はまるで、娘を抱きしめているように優しかった。
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