川畑 静子様
色々とお話したい事がありますが、まずは謝罪をさせてください。
貴女さま…いえ、川畑家の皆さまや、鯉登家の皆さまにはご迷惑とご心配をおかけてしまい、申し訳ありません。
私、川畑雪乃は生きております。
生きていたのに、私は貴女の元にも、音之進の元にも戻ろうとはしませんでした。
それは誰かに脅されたわけでも、記憶喪失などの複雑な理由があったわけでもありません。
私は私の意思で、貴女や音之進の元に戻らなかったのです。
何故生死を捏造したのか、何故貴女や音之進の元に戻らないのかなど、貴女には沢山の疑問がおありでしょう。
ですが、申し訳ありません…その理由は話せないのです。
話さなければいけないとは分かっているのです。
そうでなければ貴女にも他の方にも無礼なのも、皆さまが納得できるわけがないというのも分かっております。
ですが、話せないのです。
心配させて悲しませたというのに、理由も話さないのはとても勝手な事だとお怒りでしょう。
ですがどうか待ってください。
今は話せない…いえ、話したくないのです。
時が来ればいつか話したいと思っています。
その時まではどうか…貴女に真実を述べる事が出来ないことをお許しください。
もう一つ、貴女に謝罪すべき事があります。
私は母になりました。
私は音之進とは別の男性との間に息子を産みました。
ですが、その方とは籍を入れていません。
その方とは仲違いをしてしまい、この先、その方と結婚することはないでしょう。
本当は私一人で育てるつもりでした。
音之進以外の男性との間に息子を産みましたが、それでも、私の心にはまだ音之進への想いが残っていました。
音之進以外の男性と添い遂げることなど考えられなかったのです。
ですが、私はそれでも…音之進に会うつもりも、昔のような関係に戻るつもりもありませんでした。
誰が戻りもせず想い人以外の人との子供を産んだ女を愛してくれるというのでしょう。
私は…こんな私を深く愛してくれた男性を裏切ったのです。
私は貴女にも、音之進にも…会う資格も合わせる顔もない人間なのです。
ですが、音之進が言ってくれたのです。
過去も含めて私を受け入れてくれると。
襲われた私も、身も心も傷物になった私も、裏切り者の私も、あの人は受け入れてくれると言ってくれました。
愛してると言ってくれました。
子供も音之進は例え自分の血と繋がっていなくても、自分の子供だと言ってくれました。
私はその言葉を信じ、もう一度音之進と共に歩む道を選びました。
どうか、不肖の娘ではありますが、音之進と一緒になることをお許しください。
突然の事で驚かれているのでしょう。
私は死んだと言われたのですから。
音之進から私の葬式を済ませ、骨を墓に入れた事も聞きました。
そのためすぐに信じることは難しいでしょう。
なので、手紙の中に写真を同封しました。
写真に写る私はきっと貴女の記憶に残っている私とは別人になってしまっているかもしれません。
今に至るまで私は顔以外にも多くの傷を負ってしまいました。
髪も短く切り、顔付きもきっと以前とは別人でしょう。
ですが、これが今の私なのです。
すぐに信じてほしいとは言いません。
言えるはずがありません。
言える資格はありません。
ですが、私は生きているという事だけは信じてください。
同封している写真に一緒に写っている少女は、今とてもお世話になっている少女です。
名前はアシリパといい、とても活発な可愛い女の子です。
北海道のアイヌ民族の子供で、私の恩人です。
彼女は頭が良く、大人より度胸があり、とても頼りになります。
私は彼女の相棒として、彼女の傍にいたいのです。
彼女を守るためなら、息子を守るためなら、私は何を犠牲にしても惜しくはありません。
音之進や叔父様に貴女の体調が優れないのだとお聞きしました。
誰ともお会いにならず部屋に閉じこもっているとお聞きし、とても心配しております。
しかし、貴女をそこまで追い込んでしまったのは私です。
貴女を心配する資格はありません。
貴女を傷つけ苦しめていることを、自責の念に駆られずにいられません。
こんな母に会おうともしない親不孝な娘に心配されても嬉しくはないのでしょうけれど、どうかご自愛ください。
いつか会いに行きます。
息子を連れて貴女に会いに行きます。
ですからその時までにどうか、お身体おいといください。
その時、もしも、貴女が許してくださるというなら…もう一度母と呼ぶことをお許しください。
もう一度…娘として貴女の傍にいることをお許しください。
どうかお体に気をつけてお過ごしください。
川畑雪乃
◇◇◇◇◇◇◇
静子はグッと手紙を握り締めた。
瞬きをすると手紙の上に雫が落ち、インクがじわりと滲む。
それを見て慌てて目元を拭った。
手紙を見れば、インクの滲みは大したものではなく、ホッと胸を撫でおろしながら手紙を抱きしめるように胸元に押し付ける。
そうする事で、今はいない娘を抱きしめてあげている気がした。
「雪乃さん…」
静子はあの後、平二が静子の体調を配慮し、部屋に戻っていた。
体調を配慮していたのもそうだが、何より、二人への手紙を落ち着いた場所で読ませてあげたいのもあったのだろう。
部屋と言っても駆逐艦なのだから大した部屋ではない。
どちらかと言えば安い旅館の方が豪華に見えるだろう。
だがそんな部屋でも、客人の静子達はこの駆逐艦で長く働いて国の為に戦ってくれていた海兵たちに比べれば、優遇されている方だ。
静子は疲れている体をカナに介護されながら部屋に戻り、椅子に座って娘だという女性からの手紙の封を切って読んでいた。
その内容は謝罪から始まり、静子の体を気遣う言葉で閉じられた。
静子が信じられるよう写真を同封していると言っていたが、それを見なくても静子はこの手紙の主が娘だという事くらい分かっていた。
娘を深く愛してくれている鯉登が偽物を見破れないわけがない。
静子は甥を信じていた。
静子はギュッと瞑って娘を抱きしめている気分に浸っていたが、静かに瞑っていた瞼を開き、膝の上に置いていた封筒を手に取る。
中を見れば手紙に書かれていた通り、中には二枚の写真が同封されていた。
その写真を取り出して見てみると、まず一枚目には鯉登とのツーショットが写っていた。
鯉登との写真は雪乃が死ぬ前に撮っているので、初めてではないが、大人となってからは初めてだろう。
家にある写真に写る娘は少女らしくまだ幼い容姿で、菊之丞に襲われる前なので顔に傷はない。
その写真を見ると娘との思い出がよみがえってしまうため、今は伏せられて飾られている。
仕舞い込まないのは、娘との幸せだった記憶を思い出すものの、それでも亡くなった愛娘の大切な思い出でもあるからだ。
どうしても奥に仕舞い込むことは出来なかった。
(雪乃さん…とても美人に成長したのね…)
写真に写る愛娘を見つめ、静子は心の中で呟いた。
親の欲目がなくとも雪乃は美人に成長した。
我が儘顔に残る傷跡が目立ってしまっているが、よく見れば美人だ。
カメラを見つめるその琥珀色は静子の知る愛娘の瞳そのものだ。
(雪乃さん…)
静子はじっくりと娘を見つめた後、娘の首筋に手を伸ばす。
写真で小さくなって見難いが、娘の首筋には静子には見慣れない弾痕が見えた。
静子はその傷痕を労わるように優しく指で撫でる。
弾痕なんて女の静子には見慣れない物だ。
そんな傷痕どこでつけたのか…静子は何となく察してしまう。
また、息子が娘を傷つけたのだ。
そう静子は思う。
菊之丞だけではなく、吉平までも…
正直、吉平の危うさには気づいていた。
流石に吉平の性癖までは気づいていないが、吉平が好青年を装って裏で色々しているのには気づいていた。
夫である秋彦もいい顔はしなかったが、どうしても粗暴が悪い菊之丞と比べてしまうのもあって、大して問題もなく、上への繋がりをしっかりと結ぶ事には反対はなかったため黙認していた。
ただ、それがのちに静子から愛娘を奪う事になるとは思いもしなかっただろう。
どんな理由かは分からない。
分からないが…吉平は、息子は、雪乃を傷つけたのだと…静子は双眼鏡で見た娘の軍服姿を見てすぐに察した。
雪乃はそのせいで尋常でない人生を送ってしまったのだろう。
女が軍人の恰好をして過ごすなんて、普通とは言えない。
これほど母を想う手紙を書いてくれる娘が、何の理由もなく、母や鯉登の元に戻らないわけがない。
あんなにも優しい子が、手紙一つもよこさないということは…それなりの深い事情があるのだ。
母に隠し事をしたいと思うほどの事情が。
静子は自分を責めた。
自分達の愛情は彼らには届かなかったのだろうか。
自分達の教育のどこが悪かったのだろうか。
彼らには分け隔てなく愛情を与えていると思っていたし、教育だって彼らがしたい事はさせてきた。
その甘さが…その優しさが…愛娘を傷つける事になったのだろうか。
静子はジワリと涙で視界がぼやける。
どうしてあの子なのだろう。
どうして、あの子が傷つけられなければいけないのだろう。
本当なら顔の傷だって一本線だけだったはずなのだ。
いや、本来なら顔にあんな一本線の傷なんてつくはずがないのだ。
だけど鯉登と写るその顔には二本の傷が追加されていた。
女の子なのに。
男の傷は勲章だが、女は違う。
女にとって傷は勲章になんてならない。
女にとって傷なんて、消したい対象そのものだ。
静子は瞬きをした。
瞬くと溜まった涙が雫になって写真に落ちる。
雪乃の顔に落ちたその雫を、静子は雪乃の頬を撫でるように優しく拭った。
(ごめんなさい…雪乃さん…)
こちらに向かって微笑みを浮かべる娘に、静子は謝る。
手紙には何度も謝罪を示す言葉が書かれていた。
謝る必要なんてないのに。
あの子はずっと謝っていた。
いや、きっと今も静子に対して謝っているのだろう。
母を捨てたのだと…きっと、そう思っているのだろう。
だけど、捨てたというのなら静子の方だ。
静子は吉平の言葉を信じてしまった。
雪乃だと言って出された死体は、決して雪乃だと信じがたいものだった。
真っ黒に焦げた遺体。
家の火事が原因ではなくその体を燃やしたため、焼死体は顔どころか性別さえも判別できなかった。
背丈が雪乃とほぼ同じで、吉平が『雪乃だ』と言っただけで、静子を含め全員…いや、鯉登以外の周囲の人間が信じ込んでしまった。
(私はダメな母親ね、雪乃さん…音之進さんだけがあなたが生きていると信じていたというのに…あなたの母親であるはずの私はあなたを捨ててしまった…あなたが死んだと思う事で全てから逃げてしまった…母親失格だわ…)
甥の鯉登は、何度周囲に雪乃は死んだと言われても決してそれに従わなかった。
どれほど周囲が呆れ返っても、鯉登だけは雪乃は生きているのだと信じて探し続けたのだ。
本当なら静子もそれに加わって娘を探さなければならなかったのに。
長男が娘を傷つけた事にショックを受け、続けて夫を亡くして心に深い傷を負った。
娘の事まで気が回らなくて、あの子の事なんて考えてやれなかった。
自分が落ち込んでいる間に…あの子は義兄によって死んだことにされた。
死んだことにされたという事は、この世界から雪乃という人間の存在を全て消してしまう事だ。
今までの19年間を雪乃は義兄によって簡単に消されてしまった。
雪乃はたった一瞬で母に愛された娘ではなくなったのだ。
義兄の一言で、雪乃は鯉登に愛された女ではなくなったのだ。
それはどれほど辛い事なのだろうか。
きっと静子が感じた辛さや寂しさや悲しさや苦しさなんて比べ物にならないのだろう。
そう思うと、静子は胸が苦しくなる。
しかし、不思議と心が弾んでいた。
――あの子が生きている。
それが静子の心の霧を晴れさせた。
静子は二枚目の写真を見る。
(いい出会いがあったのね…)
二枚目の写真には、雪乃と、一人の少女が写っていた。
アイヌという民族は、静子には聞き慣れない言葉だったし、見慣れない民族衣装だった。
利発そうな容姿や、綺麗で真っ直ぐな髪や青い目など雪乃に負けず劣らず、この少女も美少女であった。
彼女の傍に座る娘の表情はとても穏やかで、お互い仲睦まじい雰囲気を写真越しでも読み取れた。
会ってみたいと思った。
娘がこれほど信頼をする少女に、会って話してみたいと。
しかし、会ってみたいと思う人物はこの少女だけではない。
(私もついにお婆ちゃんになったのね…私の孫…どんな子かしら…)
雪乃は息子を産んだ。
それを文字で見た時、驚きが隠せなかった。
孫が欲しいと姉と言って盛り上がっていた過去を思い出す。
その時はまさか雪乃が自分達の元から去ってしまうなんて思っていなかったため、当然、その相手は鯉登だ。
雪乃が嫁に行くので、長男は鯉登家に、次男は川畑家に、そう姉との約束をしていた。
勿論本人達からの了解を取ってではあるが、その当時は約束というよりは想像して楽しんでいただけだった。
だけど、それが現実となった。
子供の父親が鯉登ではない事は驚きだったが、それでも静子にとって孫には変わらない。
まだ息子の顏も見ていないのに、娘が産んで大切に育てている子供を静子は孫と認めた。
アイヌの少女と会うのも楽しみだったが、何よりも静子は孫に会うのが一番の楽しみになった。
死んだと思っていた娘が生きていると知り、孫までも生まれていた。
それは今の静子にとって、生きる糧となった。
暗く淀んていた瞳には輝かんばかりの生気の光が灯っていた。
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