(245 / 274) 原作沿い (245)

アシリパはすでに覚悟を決めた。
まだ汚れていないこの手を汚す覚悟を。
きっと水城は怒るかもしれない。
もしかしたら泣いてしまうかもしれない。
それは褒められる事でもないし、アイヌの教えに背くことにもなる。
だが、水城を守るためなら、アシリパはこの手を汚しても構わないとも思えた。
それほど、アシリパにとって水城は大切な存在だった。
覚悟の表れのように、グッと、拳を握り締めたその時―――


「うおわぁボゴボゴッ!!」


白石の悲鳴が背後から聞こえ、全員が振り向く。
三人の視界に写った光景に、全員が目を丸くして驚いた。


「「ええ〜〜〜ッ!!?」」


さきほどまでシリアスだった雰囲気が一変した。
白石の悲鳴を聞き、後ろを振り向くとそこには、白石を襲うシロクマの姿があった。


「いつの間にこんな近くまで…!全然気づかなかった!!」


シロクマなんて動物園以外で初めて見た水城はギョッとしながらも慌てて銃を巻いている布を取り払う。
その間に海の中に落ちた白石がアシリパの傍の穴から顔を出す。


「ぶふぁ!!づめだいッ!!」

「よかった!シライシ無事か!!」


海の中に落ちた白石が姿を現し、アシリパはホッと安堵する。
しかし、冷たさに顔を青ざめる白石の顔を見て、アシリパはハッとさせる。


「お、おい…シライシ!!お前…!!鼻からクリオネ出てるぞ!!」


白石は落ちた際、海水と共にクリオネも吸い込んでしまい、そのクリオネが鼻から顔を出していた。
それに気づいたアシリパは指摘すると、白石は鼻をかむようにクリオネを鼻から出した。
そんなコント紛いな事をしても、目の前の危機からは逃げられない。


「こいつ…ホッキョクグマって奴!?流氷に乗ってやってきたの!?」

「ヒグマならこの時期まだ巣穴から出て来るには早い!穴ごもり出来なかったマタカリプかもしれないが…」

「じゃあ危険なクマだ!倒さないと殺されるッ!!」

「くぅッ!!一本でも矢を残しておけば…!!」

「駄目!アシリパさんは下がってて!私がやる!!」


アシリパは暗号の手がかりではあるが、それ以上に水城の大切な存在だ。
更に鶴見達から逃げる際、矢を全て放ってしまっている。
戦闘には参加させられない。
水城はアシリパを守る様に前に出て背中に隠す。
白石は無事冷たい水から這い出て低体温症になる前に服を全部脱いで白いシーツを被る。
水城の背中から顔を出し、アシリパは改めてシロクマを見る。


「それにしても…こんな綺麗な白い毛のキムンカムイは初めて見る…」


アシリパや水城の知っているクマと言えば、黒や茶色のクマだ。
こんなに真っ白なクマをアシリパも初めて見た。
そして、悪魔が囁く。


「こんな毛皮…どこにも売ってないぞ」


悪魔の囁きに水城はハッと弾かれたようにアシリパを見た。
アシリパの視線は真っ直ぐシロクマに向けられていた。


「え…?ものすごく高く売れるってこと?おいくらくらい?」


それを聞いていた白石も悪魔の囁きに誘われてしまう。
真剣な表情を浮かべ、アシリパに問うが、水城に遮られてしまう。


「シライシ静かに…熊を興奮させないで!落ち着かせないと銃が当てられないでしょ!―――…で、おいくらくらい?」


同じ質問じゃねえか、という突っ込みはない。
白石は水城の言葉に口を手で塞ぐ。
水城の問いにアシリパは刃物を抜きながら答える。


「普通のヒグマの毛皮一枚が4円だからその何倍……いや…何十倍かも…」


この時代の4円というと、60kgの米俵一俵が買える値段だ。
それはそれは魅力的なお言葉である。
白石も水城も、アシリパの言葉にゴクリと喉を鳴らした。
しかしその時―――ジャキッと金属音がし、熊がビクリと驚いた声を上げ、水中の中に落ちてしまった。
その音の方へ視線をやれば、銃を構えるヴァシリがいた。
日本語が理解できないが、水城達が逃げるのではなく戦うのを選んだのを察したのだろう。
しかし、今はそれはまずい。


「待って!駄目!撃たないで!!この状況で斃したらシロクマが海に沈んじゃうでしょ!!だからあんたは撃たないで!!分かった!?」


銃を構えるヴァシリに水城が止めた。
ヴァシリが構える銃を手で押して銃口を逸らし、日本語が通じないなりに撃ってはダメだと伝える。
通じているのか分からないが、とりあえずヴァシリが頷いたので銃から手を放した。
しかし、水城が手を放した途端ヴァシリはもう一度クマに銃口を向けた。


「ダメだってば!!撃つな!!バーンしたらブクブク!!バーンでブクブク!!分かる!?あの毛皮が獲れたら暫く路銀に困らないの!!いいね!?」


水城の言葉にヴァシリは何度もウンウンと頷いた。
日本語が通じないので不安要素しかないが、とりあえず分かったなら…と思いかけた時、ヴァシリはまた銃を構えた。
それまで必死に伝えようとしていた水城はヴァシリの頭巾の天辺を掴んで引っ張って止めた。


「お前クラァ!!!ダメだって言ってんでしょうが!!!分かってないなら頷くな!!!」


そんな気はしていたが、全くヴァシリは理解していなかった。
結局頭巾を引っ張って力技でやめさせた。
ヴァシリの目がジッと水城を見ていたが、それに気づかないほど水城は金に目がくらんでいた。


「水城!!出来るだけ一発で仕留めろ!!毛皮を穴だらけにするなよ!」

「やっぱり弾キズが少なければ高く売れるの?」

「そりゃこんな白い毛皮滅多にないからな…」


クマへの恐怖はもはやなかった。
三人の頭には毛皮、そして金の事しか頭になかった。
もはや金の亡者である。


「じゃあ…『一つも弾傷のない毛皮』なら?」


水城の言葉にアシリパはゴクリと喉を鳴らして唾を飲み込んだ。
銃傷のない毛皮…?それは日本語か??―――アシリパは一瞬水城が外国語を話しているのかと思ってしまうほど言葉を疑った。


「そんな事…出来るはずがない」

「出来るかどうかは聞いてないわ…価値は高くなるのよね?」

「やめろやめろぉいやらしい…いくらで売られるかなんて想像がつかない」


毛皮に傷があるのとないとでは価値が違う。
一つの傷だけでも、だ。
4円だけでも相当な金額であるのに、それ以上の価値があると知ると人間は強くなる。


「毛皮を傷つけずに倒すだと!?そんなの絶対に不可能だッ!!ましてや射撃の下手な杉元なんかに…!不可能に決まってる!!」


白石は水城の言葉に不可能だと言い切った。
というよりは、断言できるほど水城に銃の腕前はない。
あの尾形でさえ黙って首を振るレベルである。
白石の言葉に水城は言い返せる言葉はなかった。


「目から脳を撃ち抜くのはどう?アシリパさん」

「駄目だッ!熊の目は小さいし周りの皮を傷つけるとかえって目立つ!」

「じゃあ鼻は!」

「ふははは!!鼻だってぇ〜〜?―――確かに角度によっては頭蓋骨に邪魔されず脳に一直線に届くが…鼻の皮を傷つけるとなぁ…毛皮の価値が半分以下になるんだぁ!!」


目はだめ、では鼻は…となると、アシリパは高々に笑った。
アイヌは熊送りで毛皮を剥ぐ際、頭蓋骨側に鼻の皮を残していた。
しかし、そうなると毛皮が売れなくなり、毛皮側につけて剥ぐようになったほど、鼻に毛皮があるのとないとでは価値が違うのだ。


「じゃあ口を開けた時脳みそか心臓を狙うしかないってことね…」

「そんなの後頭部や胸を突き破るに決まっている!!」

「一か八かやるしかない!!さっさと上がってきなさい!!シロクマ!!」


三人のやりとりを、ヴァシリは頭巾の先を伸ばしたままにしながらぼうっと立って終わるのを待っていた。
暇だなと思いながらも、ヴァシリはとりあえず自分が銃でクマを撃つのはダメだというのはやっと理解した。
顔だけを出す熊に向かって銃口を向けると、それに応えるようにシロクマがザバッと海から上がった。
しかし、その重さからか、水城が乗っていた流氷が割れてしまい、前方に体を放り出される。
幸いにも海に落ちず、流氷の上に倒れた。
咄嗟に体を起こしてみれば、熊はのそのそとアシリパ達の方へと向かってにじり寄っているのが見えた。


「もうダメだ!!撃て!!頭巾ちゃん撃てぇ!!」


毛皮は欲しい。
だが、それは命あっての事だ。
毛皮の価値は下がるが、それでも殺せれば皮や内臓は売り、身は食べれる。
白石は唯一銃を持っているヴァシリに叫ぶ。
そんな白石の声を聞きながら水城の目の前にはクマの尻が見えた。
その白い尻を見た瞬間、水城の脳裏には二人の男が浮かんだ。
その二人はもうこの世にはいない。
水城が浮かんだ男二人とは…――姉畑と若山だった。
水城は二人の男を思い出し、身体が勝手に動いた。


「クチはクチでも―――下のクチだッッ!!!」


若山はドスを、姉畑は己のドスを、クマに突き立てていた。
それを思い出し、水城は咄嗟にシロクマの尻の中に銃口を突っ込んで発砲した。
見事その弾は尻から放たれ心臓を撃ち抜いた。
クマは白石達に辿り着く前にドサリとうつ伏せになって倒れる。


「やった!!杉元の野郎!やってのけやがった!!!」


倒れたクマはピクリとも動かない。
毛が寝ているので死んだらしく、白石はグッとガッツポーズをする。
水城を褒めようと思った瞬間、水城の傷が開いてしまい、体から血が噴き出した。
血だらけになって倒れる水城に白石とアシリパが駆け寄る。


「へへ…やったわ、アシリパさん…」

「ムチャしやがって…お前の方が穴だらけなのに…」


ピンピンとしていて忘れていたが、水城はいくつもの銃弾をその身に受けていたのだ。
傷が開くのも無理はない。
とはいえ、多少の犠牲を払いつつも当分心配いらなくなるであろう金額の路銀を入手できた。
後は皮を剥ぎ、街に行って毛皮や内臓を売ればいい。
そう思い、白石はシロクマへ振り返ったのだが…―――シロクマが流氷によって流されていくのが見えた。


「あぁ!!熊が流される!!」


割れていた流氷の上に倒れたらしいシロクマはどんどんと水城達から離れてしまう。
引き留めようとしても流氷も熊も他人の手で引き留められるほど軽くはなく、熊を見送るしかなかった。


「惜しい事をしたなぁ」


せっかく水城の傷を開いてまで毛皮に被害がない方法で獲ったシロクマなのに、水城達から離れてしまった。
追いかけようにも地続きの陸と違って流氷の上とはいえ、ところどころ割れて追いかけられない。
仕方なく諦めるしかなかった。
しかし、心配なのは水城の体だけではなかった。


「シライシ…唇が真っ青だぞ…」


白石にも危険が迫っていた。
恐らく低体温症が始まっているのだろう。
白石はブツブツと何か呟いていた。
本当なら火に当てて体を温めてやりたいが、今はそれが出来ない。
とはいえ、まだまだ先は長い。
どうしようかと考えていると、水城に伸びに伸ばされた頭巾をそのままにヴァシリがフンフンと鼻息を荒くして何か訴えてきた。


「どうした?」


ヴァシリがどこか指をさし、そちらに視線をやればそこには船が一隻浮かんでいた。
その船は先ほど乗っていた和人の鉄製の船ではなく、手作りの木で出来た小舟だった。
その小舟に乗っているのは、アシリパと似た衣服を身に包む…アイヌの男達だった。
漁に出ていたのか、男達は同じアイヌのアシリパの姿を見て声を掛けてきた。


「こんなところでどうした?」


流氷を船や橇もなく歩いている4人を不思議に思って声を掛けたらしい。
それに軍人の男に坊主頭の男、異国の男の中にアイヌ姿の少女一人を見て怪しんだのもあるのだろう。
アシリパは事情を話した。
とはいえ本当の事は言えないが、水城の体が血だらけで、白石が低体温症の症状が出ているのを見て船に乗せてもらうことになった。


「真っ白なキムンカムイだって?戻って探しに行くか?」


アシリパは男達にシロクマを見てはないか、という問いの言葉に首を振った。
船でここまで来たが、シロクマの姿は見た事がなかった。
とはいえ、せっかく仕留めたのなら探しに行くかと問うと、今度はアシリパが首を振った。
4円以上の路銀を無駄にしてしまったと思うと悔しいが、しかし、今は金よりも水城と白石を休ませたかった。
男達も低体温症の白石や傷から血が溢れている水城の姿を見てそちらの方がいいとすぐに漕ぎ直した。


「何十年か前…我々のコタンの男達が夏の山で白い毛の小熊を見つけた…特別なカムイだと喜んで熊祭で送ろうとしたが噂を聞きつけた役人がどこかへもっていってしまった…」


白い熊、と聞いて男はふと思い出す。
昔、男は同じコタンの男達から、白い熊を見たことがあるという話を聞いたことがあった。
その熊は役人に持っていかれてしまい、熊祭はできなかったが、それは見事な白い毛だったという。
一緒にいた兄弟らしい子熊は黒い毛だったらしいので、アルビノとして生まれたのだろう。
水城は船から見える風景を見ていた。
色々あった。
本当に色々。
アシリパが攫われ、それを追うために保護した第七師団に力を借り、そして鯉登との和解。
これまで一年も経っていないというのにあっという間の出来事だった。
命の危機を打破出来たという疲れもあって、水城は疲れたように溜息に似た息を吐く。
目を瞑ると三人の影が浮かんだ。
一人は鯉登。
彼を傷つけてしまった事への罪悪感が胸を締め付けて水城を苦しませる。
謝っても許されない事をしてしまった。
だけど、不思議と彼は許してくれる気がした。
それが少しでも己の罪悪感を軽くしようとしていたとしても、何となく、そう思った。
二人目は息子である静秋。
彼と離れてもうどれほどの月日が経っているだろうか。
きっともう歩くことができるのだろう。
それを見てやれなかった事が悔やまれる。
抱っこもしてやりたい。
お乳だってあげさせたい。
一緒に寝てあげたい。
やってあげたい事が多すぎる。
そして、最後の一人は―――…


「みんな!北海道に戻ってきたぞ!」


最後の一人を姿を思い浮かべたその時、アシリパの声で思考が途切れた。
その声に水城や白石達はアシリパの指さす方へ見れば、陸地が見えた。
陸に上がったからと言って第七師団から逃れるわけではない。
だが、氷ではない土の地面や、他人の住んでいる光景を見て、水城と白石はホッと安堵の息をついた。

245 / 274
| 目次 | 表紙 |
しおりを挟む