平太の目の前には自分の背丈以上の大きさのヒグマが立っていた。
突然現れたクマの姿に平太は悲鳴を上げることができなかった。
クマは平太が我に返る前にその太い前足を平太の頭を叩くように振り下ろした。
平太の首は衝撃に耐えきれず、ポキリと折れてしまい、倒れてしまう。
「平太師匠!!どうしたんだ!?」
だが、水城達の目には平太が突然仰向けに倒れ、上半身に広がった毛皮が重なったようにしか見えなかった。
何もしていないし、されていないのに、平太は突然独りでに倒れ、水城は目を丸くさせる。
一体何が起こっているのか分からない水城は戸惑いながら平太に声をかけた。
平太にはその声は聞こえない。
平太は熊に襲われ食べられていた。
だが、水城が声をかけた瞬間―――平太がゆらりと立ち上がる。
「平太師匠…?」
ゆらりと体を揺らして起き上がる平太の様子が可笑しいと水城は警戒した。
いないはずの人間の事をあたかもその場にいたかのように話し、大事そうに背負っていたはずの毛皮を知らないと言い、捨てても戻ってくると言う平太の様子の変化に水城は流石に動揺が隠せない。
すっぽりと毛皮を被るように立ち上がった平太に、水城が戸惑いながら声を掛ければ、平太は素早い動きで水城に向かって腕を振り下ろした。
それを認識する前に水城は体が勝手に動き、殺意に無意識に腕で庇う。
しかしその腕は簡単にパキンと折れてしまった。
水城は激痛と共に、人とも思えない力に目を丸くして驚いていた。
「ブオオオオッ!!!」
平太はまるで熊のような雄たけびを上げた。
平太の異変に戸惑うよりも水城は目の前の脅威を片づけることを優先とした。
目の前はつい先ほどまで金に目が眩んだとはいえクマから守ろうと思った男だ。
しかし、今の水城には排除の対象となっている。
その切り替えの早さが恐れられている理由の一つなのだろう。
しかし、同時にいくどもの危険を乗り越えた理由にもなる。
折られた腕を放って水城は腰に差している銃剣を握り締め、柄頭の底で頭を殴る。
殺意はあるが、衝撃を与えて正気に戻そうと思ったのだろう。
しかし、水城の狙いは外れ、平太は毛皮を被り水城に殴られ頭から血を流しながら水城の腕に食いついた。
顎の力も到底人間が出せるような力ではなく、今が重ね着をする冬でなければ確実に肉を食いちぎられていただろう。
そのまま平太と水城は雪が積もる地面を転がり、崖の下へと落ちていった。
「水城ッ!!」
平太と共に崖の下へ落ちた水城にアシリパが慌てて下を見下ろした。
しかし木が邪魔をして水城の無事を確認できなかった。
追いかけた方がいいかと思った時、ヴァシリの元へと向かったはずの白石が慌ただしい様子で戻ってきた。
その後ろには白石の様子から察したのか、ヴァシリが付いて来ていた。
「アシリパちゃん!!平太師匠はどこ!?この絵を見てッ!!あいつは―――入れ墨持ちの脱獄囚だ!!!」
「…!」
白石の手に握られた紙を見せられ、アシリパは息を呑んだ。
白石の手にはヴァシリが描いた紙が握られていた。
その紙には色っぽくしな垂れる上半身裸の平太の姿が描かれていた。
平太が頭の中にいるノリ子になりきりヴァシリを誘惑した時の絵だろう。
その体には水城達が求めて止まないアシリパの父が施した暗号が描かれている…入れ墨が彫られていた。
アシリパは思わず水城が落ちていった崖の下を見た。
しかし、やはり水城の姿はない。
「水城…!」
相手は囚人だった。
だがそれだけならまだいい。
平太に水城が負けることはないだろう。
だが、今の平太は様子が可笑しかった。
まるで…
「水城が危ない!!急ぐぞシライシッ!!」
アシリパの様子からして平太に襲われた後だと白石は気づく。
水城が平太に襲われていると気づき、アシリパの慌てた様子もあり、白石とヴァシリはアシリパの後に続いた。
―――一方、上から落ちた水城は平太ともみくちゃになりながら落ちた。
だが、木や雪がクッションとなり、水城はそれほど大きな怪我を負うことはなかった。
しかし、目の前の危険が去ったわけではなく、相手は落ちたのに関わらずすぐ起き上がり水城に向かって襲い掛かってきた。
水城も目の前の脅威に素早く対応するが、平太の方が早く、水城は服を掴まれた。
(なんて怪力…ッ!!)
折れていない手で自分の服を掴んでいる平太の手を掴み放そうとするが、またしても人間とは思えない力で掴まれ不死身と呼ばれた女の力では引き離せなかった。
「―――ッ!!」
水城はそのまま放り捨てられるように投げられ、そのまま木にぶつかってしまう。
木にぶつかった衝撃で一瞬息が詰まるように呼吸が出来なかったが、水城も水城で人間離れした戦闘能力を持つ故なのか、すぐに体勢を整え起き上がる。
腰に戻していた銃剣を握り締め抜いた瞬間、こちらに駆け寄ってきていた平太に再び襲われる。
押し倒された水城は覆い被る様に上から襲い被る平太の肩を足で押さえる。
それでも平太は口を大きく開け、水城に襲い続けた。
それはまるで熊が人を食べようとしているようだった。
「ブオオオオ!!!」
垂れる涎をそのままに、平太は熊のような雄たけびを再びあげた。
先ほどから力が異様に強いのを見て、どうも平太は自分を熊だと思い込んでいるように見える。
水城は顔に涎が飛んできているのも気にせず、抜いた銃剣で毛皮ごと平太の体を何度も刺す。
その瞬間痛みに平太は声を上げた。
口を大きく上げる熊の中から平太は手を伸ばし、脱出を試みた。
「いいぞ…ウェンカムイが弱ってる…今なら…」
口から手を出す平太だが、やはりそれは平太の視界での光景だった。
水城には毛皮の隅間から手を伸ばしているようにしか見えず、水城は睨むように平太を見つめる。
平太の声は弱弱しいものの正気を取り戻したように聞こえた。
襲い掛かるなら容赦はしないが、様子を見ているようだった。
平太は伸ばした手を水城に向けた。
しかし水城に触れず、その後ろへと伸ばす。
そこには一本の紐がピンと張られていた。
平太がその紐を掴んだその時――――仕掛けが反応し、水城に向かって矢が放たれた。
しかし…
「…!?」
その矢は水城ではなく、平太の首へと刺さった。
水城は突然の事に目を丸くした。
平太はまるで水城を庇うように自ら矢に刺さったように見えたのだ。
首に毒矢が刺さり、平太はやっと止まる。
平太は力尽きたように水城の傍に倒れ、水城は何が何だか分からない中、身体を起こす。
「水城!無事か!?」
すると追いかけてきたアシリパと白石が駆けつけ、水城と合流した。
ヴァシリは遠くで足を止め、水城達を眺めている。
水城は唖然と平太を見ているままだった。
「やった…あいつに勝ったぞ…」
水城が見つめるなか、平太は息も絶え絶えにそう呟いた。
アシリパは水城の元へと駆けつけたが、傍にある仕掛けに気づく。
それはヴァシリにも注意した鹿を獲るためのアマッポだった。
先ほど平太が引っ張った紐はアマッポのさわり糸だったのだ。
水城は倒れる平太を仰向けに変えて寝かせる。
「平太師匠…あなた…どうして…」
「あいつに気づかれないようにここへ誘い込みました…」
水城は目を見て平太が正気を取り戻したと気づく。
戦っている間、平太の目は正気ではなかった。
焦点もあっていなかったし、何より感情が込められていなかった。
殺意と言う感情はあったが、水城は戦場で平太のような狂った人間を何度も見て知っていた。
その目や表情が出会った頃と同じ表情へと戻ったのだ。
駆けつけた白石は首から矢が刺さっているのを見て慌てた。
「毒矢を抜かないとッ!!アシリパちゃん!なんとかしてッ!!」
「いいんです…このままで…」
平太がいなければ砂金を採れない。
そう考えて白石はアシリパに助けを求めたが、平太本人に拒まれてしまった。
「子供の頃にアイヌから聞かされたウェンカムイの話が怖くて怖くて…いつも空想していました…私が汗水ながして砂金を掘ってもその日のうちに散財する家族たち…砂金に目が眩んだ欲深くて醜いあいつらにバチを与えて欲しかった…」
意識が遠のきはじめながらも、平太は懺悔のように呟いた。
水城達はその呟きを黙って聞いてやる。
平太の家族は平太が採った砂金を使い贅沢をしていた。
しかし平太はあの一家で一番末っ子ゆえに強くは出れなかった。
それでも不平不満は当然溜まる。
しかしある日、平太はヒグマの食い残しである土饅頭を見つけた。
持って帰り家族が寝起きする場所に隠した。
それは確かな殺意だったのだろう。
いつも自分が寒い思いをして掘った砂金で散財し、自分よりも先に生まれただけだというだけで自分を虐げる。
平太は許せなかった。
「家族を殺した熊は私を食べる前にアイヌの猟師に倒されバラバラにされた…ウェンカムイはそれから何度も生き返って戻ってきては私の家族を罰するようになりました…」
その日から現れ家族を食い殺していく熊は、平太の罪の重さを知らしめるために現れた神なのか…
平太はその日から熊が現れてはあの日のように家族を食い殺していく妄想に囚われた。
しかし、同時に欲深い自身も最後に罰せられた。
平太は妄想に捕らわれ平太自身がウェンカムイとなり、人を殺し食べてきた。
そして、最後は平太の体がバラバラとなって山に飛び散っていくのだ。
それを平太は逮捕されるまで繰り返していた。
最後にバラバラになるのは、ウェンカムイの処置もアイヌから聞いたからだろう。
ウェンカムイの処置は地方によって差はあるが、その中に、ウェンカムイを倒したら肉も毛皮も取らず細かく切り刻み山にばら撒くのだと伝えるアイヌもいる。
それは改心しろという説教している意味でもある。
毛皮も、平太の口からは人に『処分』してくれと頼んでいるように聞こえるが、実際は『預かってくれ』や『保管しておいてくれ』と言っていた。
だから平太にとって捨てたり処分していた毛皮が手元に何度も戻ってきているように見えたのだろう。
平太は熊どころか、体に入れ墨を入れた事さえ覚えていなかった。
「誰かに止めて欲しかった…」
平太はポツリと零す。
それは本音であり、心からの願いだったのだろう。
平太は黙って聞いてくれる水城へ視線を向けた。
「杉元さんが戦ってくれたおかげで…やっと私のウェンカムイを消す事ができた…」
―――ありがとう。
そう言いたかったのだろう。
しかし、お礼を言う前に平太は水城達に見送られ、その命を終えた。
水城は呼吸が止まった平太の目を手で覆い、開いていた瞼を閉ざした。
「私達の住む地方ではウェンカムイに殺された人間は『カムイに好かれたから連れていかれた』と考えられている」
水城が平太の目を閉ざしているのを見つめながらアシリパがポツリと呟いた。
平太と仲良くなったアイヌがどこの地方にいたアイヌかは分からない。
だが、アシリパが住んでいた地方にはウェンカムイは罰を与えるために人を殺すものではない。
「中途半端にアイヌの事を聞き齧ってしまったんだろう…平太の中で間違ったウェンカムイが育ってしまった…正しく伝えることは大切だ…」
平太の中にいたウェンカムイはきっとアイヌの言うウェンカムイとは別物で、間違ったモノなのだろう。
アシリパは平太を見て改めて教えを正しく伝えることの大切さを学んだ。
水城はそんなアシリパの言葉を聞きながら、平太の目元から手を放し静かに平太を見つめる。
「砂金への欲望が人生を狂わせたのか…あるいは砂金に狂わせる魔力があるのか…」
砂金、金塊、金。
それは無機物な物であり、人間が命を賭してでも求め続ける物だ。
水城だって金に目が眩むほど金を欲している。
だが、流石に平太の最期を見て金の怖さを思い知らされた。
しかし、だからと言って今更金塊を求めることをやめる気はない。
もう後戻りできないのもあるが、相棒との大切な約束もあるのだ。
幼馴染の目も治死体と言う欲もあり、水城は平太の死に顔をしっかりと目に焼き付けた。
彼の犠牲を教訓として、脳裏に焼き付けた。
「死なないで平太師匠!!次はどこを掘ればいいんですかぁ!!平太師匠おおおお!!!」
水城やアシリパがしんみりしているところに、平太に泣きつく白石の叫び声が山に木霊する。
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