静子とカナは昼も食べず、旅館に戻ってきた。
付いて来てくれたマカナックルに旅館から貰ったお湯でお茶を淹れた。
『どうぞ』と差し出されたお茶を一口飲めば、今まで飲んだことのない美味しさが口いっぱいに広がり、和人のお茶に慣れないアイヌであるマカナックルでも抵抗なく飲めた。
このお茶は、一般人が手に入らないほどの高級なお茶で淹れており、雪乃の手掛かりを探すついでに色々と購入したうちの一つであった。
本土から贈られたため、それなりの値段だったが、一日中歩き回って疲れた体を癒すに役立ってくれている。
マカナックルはもう一口飲み、一息ついた後向かい合わせに座る静子とカナを見る。
「それで…話しとは?」
静子達もお茶を飲んで気持ちを落ち着かせていた。
目の前にはあの愛娘と一緒に写っていた少女の家族がいる…ずっと愛娘の足取りを探してきた二人からしたら興奮しないわけがない。
しかし詰めよってはやっと直接の手がかりになるであろう人物の機嫌を損ねる可能性がある。
だからこそここは気持ちを落ち着かせる必要があった。
マカナックルの問いに静子は口に含んだお茶をコクリと飲み込み、もう一度愛娘と相手の姪が写っている写真をマカナックルに向けてテーブルの上に置いた。
「先ほども言った通り私はこの子の母親です…カナは使用人としてこの子に付いていました」
自己紹介はすでに済んでいる。
静子の言葉にマカナックルは静子とカナを改めて見る。
別段彼女達に妖しい所は見受けられない。
ただ、少し違和感を感じていた。
「母親…と言っても私とこの子は血が繋がっておりません…家族を亡くしたあの子を養子として受け入れたのです」
続けられた言葉にマカナックルは納得した。
どうりで違和感があると思ったと思ったのだ。
母と言っている静子と、自分が知っている水城は全く似ていない。
写真に写っている女性に戻っている姿の水城だってそう思っていた。
水城の息子と同じく、父親似なのかと思ったが、先ほどの静子の言葉にマカナックルは納得した。
「なるほど…それで名前を知らないというのは?」
水城と静子達の関係は理解した。
血の繋がらない家族はアイヌにとってはそれほど珍しいものではない。
アイヌは独特の風習から親を亡くした子供を他人が育てるし、産んだが育てられない和人がアイヌの村に来て赤子を置いていく事もあり、その赤子をアイヌの子として育てる。
だから血の繋がらない家族というものは和人に比べてそう気にも留めていないのだ。
最初に疑問に思ったのは、名前を知らないというものだ。
名前を知らないのに母親だと名乗る静子にマカナックルは不思議そうな目で見つめる。
静子は言うべきか迷う。
雪乃がどこまでアイヌ達と密接な関係だったのか分からないからだ。
勝手に来て勝手に娘の秘密をペラペラと話していいものか静子は迷っていた。
「マカナックルさんは口が堅い方でしょうか」
「…それは今から言う事を周りに話すなということか?」
マカナックルの言葉に静子は頷く。
「できれば家族にも…マカナックルさんだけの心に秘めてほしいのです…」
マカナックルの人柄はまだ分からないが、静子は信頼できる人間だと判断した。
とは言え静子はお嬢様育ちであるがゆえに疑うことを知らないというのもあるのだろう。
だが、誰にだって直感というものがある。
静子は直感でマカナックルを信頼できる人間だと思った。
マカナックルは家族でさえ話さないよう言われ、少し考え込んだ後静かに頷いた。
コクリと頷いたマカナックルに静子はホッと安堵の息をつき、隣にいるカナと目配せし、マカナックルへと視線を向ける。
娘の過去や母の元から離れた理由までは流石に話せず、濁しながらも静子は事情を話した。
(杉元にそんな過去が…男に偽装して戦争に行っていたと言っていたから訳ありなのは知っていたが…)
マカナックルどころか、アシリパのいた村で水城が女だというのは誰もが知っている事で、それが誰にも漏らしていけない秘密だというのも暗黙の了解でみんな口を閉ざしていた。
嘘か本当かは分からないが、少なくともこの時代で合成はよほど技術がなければ無理であり、そこまで頭が回らないだろう。
写真に写る女性も偽物と言うには傷跡がリアルすぎているし、あんなに整った顔の女を用意するのは容易ではないだろう。
静子の突拍子もない説明を信じるしかなかった。
「それで…なぜ、こちらに?杉元…さんはあんたがここにいる事を知らないんだろう?あんたが娘のいない北海道に来て娘の足取りを追っているのが分からん…娘の足取りを追ってあんたは何がしたいんだ?」
事情は分かった。
だが、そこまで大事に思っている娘がいないこの北海道にわざわざ訪れ探しているのが分からなかった。
娘がいる場所がここなら分からなくもないが、アシリパと共に水城はこの北海道から離れて大分経つ。
マカナックルの問いにカナは静子を見た。
マカナックルの問いはカナも思っていたことだ。
静子は二人の視線を受けながら、娘とアイヌの少女が写っている写真を見る。
「私はあの子が…雪乃さんが死んだと聞かされた時…私の全てを失ったようで…生きる気力すら湧きませんでした…」
静子は雪乃が死んだと息子から聞かされた時から、自分は死んだと思っている。
そこにいるのは肉の塊だけの女。
自殺しなかったのは、息子が雪乃の遺言で『自分の分まで生きてください』と書いてあったからと聞かされたからだ。
ただ、今思えばそれは息子の偽りだったのかもしれない。
だけど、今はそれに感謝していた。
その嘘がなければ静子はとっくの昔に命を絶って夫の元にいただろうからだ。
生きていなければ娘が生きていると知らなかっただろう。
何より、自分が死んだと聞いて娘は自分を責めてしまうだろう。
静子は娘を悲しませたくはなく、娘を奪った息子ではあるものの、そこだけは感謝している。
「寝たきりになり私は杖がなくては満足に歩く事さえできなくなってしまいました…あの子の生きてほしいという遺言だけで息をしているようなものでした…だから私はあの子が生きていると聞いて息を吹き返したようなものです……だからこそ、私はあの子が…雪乃さんの事を知りたいのです…あの子が雪乃という名を捨て、水城としてどんな人生を歩み、生きた証をこの目で見たいと思いました…」
「あんたの娘がそれを望んでいないのにか?」
「………」
生きてさえいればそれでいい。
それは本音だ。
名前を捨てようと、川畑家を捨てようと…雪乃という人間が生きてさえいれば静子はどんな形であろうと構わなかった。
娘は自分に会いに来てくれる…そう約束したのだ。
本当は待っているのが正しいのだろう。
だけど静子は雪乃が生きてきた証が見たくなった。
生きていたことへの興奮も落ち着いた時、雪乃の足取りをこの目で見たいと思ったのだ。
あの子がどんなところで生活をして、どんなことを思って生きてきたのか…この目で見たいと。
しかしマカナックルの言葉に静子は口を噤む。
マカナックルの言う通り、きっと雪乃は母には鹿児島で待ってくれるのを望んでいるはず。
静子の行動は亀裂が入るかもしれない危うい行動でもあった。
「そうですね…あの子はきっと私がここに来るのを望んでいません…もしかしたらあの子との間に亀裂を生んでしまうかもしれません…」
静子は膝の上に置いている手をグッと握り締める。
今の静子は冷静さを欠けている自覚はある。
娘を想うなら北海道には足を踏み入れるべきではない。
娘が生きていたと知った以上、静子は安静にし回復を目指して、娘が知る母の姿で鹿児島で娘を信じて待つべきだ。
それが正しい選択である。
「それでも娘に会いたいと…子供の事を知りたいと思うのが親ではないでしょうか」
真っ直ぐマカナックルの瞳を見つめる。
子供の事を心配しない親などいない。
静子は勝手だというのは分かっているが、それでも我慢が出来なかった。
ずっと死んだと思い、静子は雪乃を待ち続けた。
それが生きていると知って、静子は黙っていることは出来なかったのだ。
マカナックルも娘がおり、母がいる。
静子の気持ちは父親ではあるものの、嫌でも分かってしまう。
静子は自分を見返すマカナックルの視線を受けながら、ふと笑い、再び娘へと視線を向ける。
「我が儘な母親ですが…あの子が生活していた場所を一度でもいいんです…見てみたいと思ってしまったのです…」
娘の事は待つつもりだ。
娘が戻ってきてくれるというのなら、それこそ何年経とうと静子は待てる気がした。
もう娘がいないという絶望感はない。
もういない娘を思う事もなくなったのだ。
娘が生きていると分かっているだけで、静子は色々と吹っ切れて強くなれた。
258 / 274
← | 目次 | 表紙 | →
しおりを挟む