アイヌの村は休憩していた場所からそう遠くはなかった。
しかし、それでも山道に慣れていない二人にとったら険しい道のりだった。
それでも弱音を吐かなかったのは、やはり雪乃の存在が大きいのだろう。
村に到着し、二人は開けた場所に安堵の息を吐いた。
厳しかった山道から抜け出せた安堵と、暫く三人しかいなかったため多数の人の気配に安堵したのだろう。
アイヌの村に二人は踏み入れたのだが、そんな二人の周りをあっという間に子供達に囲われてしまった。
「シンナキサラ!」
そう口々に言い、自分達を指さすアイヌの子供達に静子とカナはお互いの顔を見合わせた後、マカナックルを見る。
その表情は不安そうに浮かべており、どうやら歓迎されていないと思っているようだった。
アイヌという民族の事は娘の手紙で初めて知ったため、当然二人はアイヌ語は分からない。
「歓迎されていないわけではないから安心していい…シンナキサラっていうのはアイヌ語で『変な形の耳たぶ』って意味だ」
『俺達アイヌの耳たぶは丸くて厚いからな』と言って自分の耳たぶを見せて説明をするマカナックルに、静子とカナは歓迎されていないわけではないと安堵する。
静子は三人の母親というのもあり、自分達を興味ありげに見つめる子供達にしゃがみ込んで笑みを見せた。
「こんにちは」
そう挨拶する静子に、カナも続けて挨拶をする。
その二人の言葉をマカナックルが訳し、子供達も静子達に習うようにアイヌ語で挨拶をし再びマカナックルが訳してくれた。
静子は自分達を囲む子供達が、息子や娘達の幼い頃と重なり、懐かしさと同時に切なさを感じる。
まだあの頃の息子達は本当に純粋で可愛らしかったのだ。
それがどこを間違えたのか、二人共愛娘を傷つける男に成長してしまった。
静子は悲しくなる気持ちを仕舞い込むように子供達から視線を逸らし辺りを見渡す。
そこにはこちらを見る大人のアイヌ達がいた。
その視線は子供達のように歓迎しているというわけではなさそうで、静子は立ち上がりながらアイヌの置かれている複雑な立場を思い出す。
和人を嫌うアイヌは多く、その理由も静子は街で聞いたことがあった。
彼らの視線に憎しみは感じられず、少なくともここのアイヌ達は和人の事は毛嫌いしているわけではないのだろう。
だがしかし、だからと言って歓迎されているわけでもないのだろう。
静子は娘の事ばかり頭が一杯でここまで来たが、ここで少し冷静さを取り戻した。
「あの…今更ですが私達がこの村に訪問してしまってよろしかったでしょうか…」
「本当に今更だな…まあ、大丈夫だろう…ここの村の連中は杉元で慣れてるしな」
娘の名に静子もカナもドキリとさせる。
マカナックルの言葉で、二人の心臓が縮み上がる。
この村に雪乃がいた事を改めて認識したのだ。
静子はもう一度村を見渡す。
この村に、ずっと死んだと思っていた娘が生きていて、そして生活していた。
そう思うと、この村が特別に思えた。
(あの子が生活していた村…ついに来れたのね…)
静子は長期戦を覚悟していたが、今のところ予想外にトントン拍子に進んでいた。
しかし、順調すぎるのも逆に恐ろしくなってしまう。
だが、それ以上に娘が生きていた場所に足を踏み入れていることに感激していた。
この場所で娘はどんなことを思い、どのように生活をしていたのだろうか…そう静子はアイヌの人たちが住む村の光景を見渡し胸を高鳴らせていた。
しかし、そんな静子に対し、カナは微かに表情を強張らせながらアイヌの村を見渡していた。
そんな二人にマカナックルは声をかける。
「二人とも、こっちだ…母があんた達に会いたがっている」
「お母様が?」
マカナックルはそれぞれの反応を見せながらもアイヌの村を見渡していた二人を置いてどこかに姿を消していた。
その時間は短かったが、どうやらある人物と話をしていたからだった。
マカナックルの『母』という言葉に静子もカナも首を傾げてみせた。
マカナックルには世話になっているが、なぜ面識のない彼の母親が自分達に会いたがっているのか分からなかった。
しかし、断る理由もなく、そして断るのも無礼だと静子とカナはマカナックルの後に続いて村の中へと入っていく。
その間もアイヌ達は興味深々に静子とカナを見つめていた。
「あそこが母のチセ…家だ」
アイヌの家は鹿児島や北海道でも見られない珍しい家で、静子達はその家を興味ありげに見つめる。
『あそこが』と言ってマカナックルが指さす方へと視線をやると、案内されたのはひと際大きな家だった。
その前には一人の老婆が立っていた。
「初めまして…私は川畑静子と申します…息子さんにお世話になり、ありがとうございます」
丁寧にお礼を言い頭を下げれば、その傍にいたカナも続けて頭を下げる。
マカナックルの母だという老婆…フチは、しわくちゃな顔をしながらも優しい内面が表すように穏やかな顔つきをしていた。
フチは和人の言葉は分からないのか、静子の言葉をマカナックルが通訳し、その挨拶にフチもにこりと笑い頭を下げた。
「それで…会いたがっているとお聞きしたのですが…何か御用でしょうか?」
「それは家の中で話そう…母はあんた達に会わせたがっている人物がいると言っていた」
どうやら会いたがっているのは、静子とカナに会わせたい人物がいるかららしい。
しかし、にこやかな表情を浮かべるフチに対し、マカナックルの表情は少し曇っていた。
二人の反応の違いに静子とカナはお互い顔を見合わせ不思議そうな表情を浮かべた。
家の中に入れば、和人の家の構造とは全く異なる作りに先ほどと同じく興味ありげに見渡す。
中に入れば暖かい空気が二人を歓迎してくれた。
和人のように木で家を作らっていないため隙間風があるかと思えば、やはりそこはアイヌの知恵なのか空気が漏れることはないらしい。
囲炉裏のお陰で冬でも家の中は暖かい。
その室内にはやはり和人には物珍しい物ばかりが置かれていた。
その中で、二人の赤子が静子の視界に写り、静子は思わず足を止めてしまう。
「奥様?」
後ろに控えていたカナが前方を歩いていた静子の足が止まり、不思議そうに声をかける。
しかし静子は呆然と立ち尽くしたようにジッと赤子に視線を向けるばかりで、カナの声に答えなかった。
いや、答える余裕がないと言っていいのだろうか。
静子が何も言わないので、カナは家の中に何があるのか静子の陰から顔を出して覗く。
しかしそこに特別目を奪われるものはなかった。
確かにアイヌ独特の物に珍しさはあるが、中には囲炉裏とフチとマカナックルと二人の赤子がいるだけである。
その赤子もお昼寝中なのか、仲良く兄弟並んでぐっすり眠っていた。
そんな特別気に留める物がない家の中で静子は何を見ているのか気になり、カナは静子の視線を辿る。
視線を辿れば眠る赤子の一人に辿り着いた。
赤子は二人とも独特な眉毛をしており、二人のうち、体の大きさから兄らしき赤子を静子は見つめていた。
「奥様?あの赤ん坊がどうかなさいましたか?」
カナはその赤子の何がそれほど気になるのだろうかと不思議でならなかった。
そのため、そう問いかければ静子は呟くように零す。
「似ているのよ…花沢様に…」
花沢、と聞き、カナは静子から赤子へと視線を向ける。
カナは使用人ではあるものの、吉平が義妹の死を偽るまで雪乃に仕えていた。
そのため、花沢という人物の事はあまり知らない。
だが、花沢という家柄の事は知っている。
家族構成も知っているし、花沢の当主だった幸次郎が中将だった事も、息子が少尉だという事も、その息子と鯉登が友人関係だった事も、吉平が花沢と強い繋がりを持っていた事も。
しかし、花沢家はそれほど鹿児島にある川畑家との関りは深くはなく、そのためカナはその一家とは関りは薄く、その一族の顔だっておぼろげだった。
そのためこの赤子を見てもすぐにピンとこなかった。
しかし、花沢家とも繋がりの深い静子が言うのだからそうなのだろう。
フチは静子がその赤子を見つめ呟いたのを見て、にこりと笑みを浮かべ眠っている赤子を抱き上げて静子の元へと歩み寄った。
そしてフチはその赤子を差し、差し出された静子は赤子を思わず受け取ってしまった。
突然赤子を渡され、静子は困惑気味に赤子とフチを見た後、助けを求めにマカナックルへ視線を向ける。
「あの…これは一体…なぜ赤ちゃんを渡されたのでしょう?」
戸惑いながら聞く静子にマカナックルは目を丸くする。
しかしすぐにその目線を母へ向け、何かアイヌ語で話をしていた。
マカナックルの言葉にフチも驚いたような表情を浮かべた後、少し悲し気に眉を下げた。
「…シサムは育てられない子供をアイヌの村に置いていくことも多くてな……あんたがこの子を見ていたから母はあんた達が赤ん坊を迎えに来たと思ったらしい…しかし、どうやらこちらの見当違いだったようだ」
―――腑に落ちない。
静子は何となくそう思った。
しかし、この赤子が知り合いに瓜二つという点以外に自分との共通点はなく、知り合いに似ていたから気になっているだけだと自分で言い聞かせ、自分の中にある違和感を見て見ぬふりをした。
『すまない』と間違っていた事を謝りながらマカナックルは赤ん坊を受け取ろうと手を差し出す。
赤の他人である赤ん坊を抱いている理由もなく静子は『いえ、気になさらないでください』と返しながら腕にいる赤子を受け渡そうとした。
とはいえ、赤の他人の赤子だからと乱暴に扱うわけにはいかず、マカナックルの腕に優しく返そうと赤子を見下ろしたその時、赤子が目を覚まし…―――赤子の瞼が開けられた。
その瞬間、静子は再び固まってしまう。
「おい、どうした?」
固まり赤子を見下ろす静子にマカナックルが声をかける。
それでも静子は何も答えられず、そっと腕の中に抱かれている赤子の頬に手を伸ばして触れる。
触れる頬は赤子特有の張りと柔らかさがあり、静子はそっと親指で赤子の頬を撫でる。
赤子は人見知りしない子供なのか、初対面であるはずの静子の腕の中にいても愚図るでもなくじっとその目で静子を見上げていた。
静子はその目に吸い込まれるように見つめる。
赤子の目色に静子は既視感を感じていた。
赤子の目の色は美しい琥珀色…―――娘と同じ瞳の色をしていたのだ。
「この子は…あの子が産んだ赤ちゃん……私の孫…なのね…」
確信があったわけではない。
証拠もあったわけではない。
手紙の中で孫の存在を知ったが、愛娘が男の子を生んだという情報だけで、他の情報は全くない。
息子の写真もなければ、息子の存在を書いただけでどんな容姿をしているのか、どんな子か、どこに預けているのか、ましてや子供の父親さえ何も書いてはくれなかった。
恐らく、息子を孫と認めてくれるのか分からない恐怖と、まだ雪乃の心の整理が整っていなかったのだろう。
マカナックルは静子の言葉に目を丸くする。
鹿児島に帰らず北海道に留まったのも、わざわざアイヌを探してこの村に来たのだって、孫に会いたくて訪れたのばかり思っていた。
だが、先ほどの反応からして静子は孫の存在を知らないようだったので、咄嗟にそれなりの理由をつけて返してもらおうと思った。
いくら水城不在で、その赤子を無償で世話をしていると言っても、流石に赤子の母親の許可もなしに存在も知らないであろう静子に孫の事を簡単に教えることは出来ない。
だが、静子は瞳の色を見ただけで孫だと当てた。
それにマカナックルは驚き、カナも静子の言葉に目を丸くして驚いた表情を浮かべている。
確認するようにマカナックルを見れば、マカナックルは戸惑いを見せたが観念したのか、静かにコクリと頷いて見せた。
その頷きに、静子は孫に視線を戻す。
孫を見つめる視界はじわりと滲むように歪み、孫のふくふくとした頬に雫が落ちて跳ねた。
濡れた頬を拭うように撫でれば、起きたばかりのせいか孫は大きな欠伸をした。
その大きな口に涙で濡らした目を細め、静子はクスリと微笑んで見せる。
「カナ、この子があの子が産んだ子供よ…私の孫なのよ…」
傍にいるカナにも見せるよう体をカナの方へ傾かせ、カナに孫を見せる。
カナは『そう、ですね…』と返したが、戸惑いが隠せないでいた。
カナは信じられない気持ちで孫だという赤子を見つめる。
静子は赤子を直感で孫だと理解したのだろうが、カナはその直感が働かなかった。
そのため、何故雪乃に似てもいない赤子を、瞳の色が同じだからという理由だけで孫だとすぐに受け入れる事ができるのか理解ができないでいた。
しかし、かと言ってカナも赤子の瞳を見て全てを否定できないでいた。
きっとカナも心の中では主人の腕に抱かれている赤子が雪乃の息子だと認めようとはしているのだろう。
しかし、それには確証となるものが少なすぎていた。
「この子のお名前はなんていうのです?」
手紙には孫の名前は書かれていなかったため、世話をしてくれていたマカナックルに孫の名前を問う。
本当は娘の口から聞きたくて楽しみに取っておこうと思ったが、我慢ができなかった。
花沢家に似ているという初めの印象も今は忘れ、静子は孫の名前を知りたがった。
「静秋だ」
「しずあき…」
「漢字は…確か…静かな秋、と書くんだったか?」
アイヌは基本カタカナの名前で和人では呼ばれるが、アシリパの和名が明日子というようにアイヌにも和名がある。
普段は音で呼ぶためそこまで思い出すことはないが、以前水城に教えてもらった水城の息子である静秋の名の漢字を思い浮かべながら静子に教えた。
その名を教えた途端、静子とカナは目を丸くさせ、お互いを見合った。
静子はカナの驚く表情を見つめた後、大人しく祖母の腕の中で抱かれている静秋を見下ろす。
「゙静かな秋゙…そう……あなた、静秋と名付けてもらったのね…とても良い名前だわ…」
また、静子は目頭が熱くなるのを感じる。
瞬きをすればその瞳から雫が零れる。
静かな秋と書いて静秋。
静秋の名は静子と秋彦から取ったのだろう。
その名に静子は娘の両親への愛情を感じ取った。
「…………」
娘が自分達を想っている事を孫を通して感じてる静子は、静秋の頬に自分の頬で触れる。
カナは幸せそうな祖母と孫の姿を、ただ見つめていた。
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