(262 / 274) 原作沿い (262)

カナはまだ朝というのもあり外で遊ぶにはまだ早く、家で赤子と静秋の遊び相手をしていた。
静子はマカナックルの妻と一緒に今日の朝食を作っていた。
居候をしているのだからそれくらいしなければと静子が自ら手伝いを買って出たのだ。
お嬢様育ちの静子にはアイヌとの生活は全てが新鮮で面白かった。
主人にばかり働かせられないと、カナも手伝うと言ったが、カナは子守りを言い渡された。
静子もカナが静秋を認めたことが嬉しかったのだろう。
カナは以前の遠巻きで見ていた頃とは違い、静秋や赤子と積極的にかかわり出しただけではなく、村にも溶け込み始めたのだ。
表情は来たばかりとは違い、生き生きして目に輝きを浮かべていた。
その変化もあってか、アイヌの村はカナを受け入れ始めている。
娘である雪乃の事もカナは静子のように受け入れてはいない様子から、静子はその息子である静秋を素直に受け入れてくれたことに安堵した。


「今日も朝から冷えるわね」


北海道は鹿児島と比べて夏は涼しく過ごしやすいが、冬になれば真逆になる。
そのため、暖かい食べ物は本当に美味しく感じられる。
この村で出される料理は鹿児島にはなく、普段食べない食材に毎日舌鼓を打っていた。
季節は冬。
今日も今日とて寒いため、オハウという料理をマカナックルの奥さんと静子はせっせと作り、火から離れた場所でカナが赤ん坊二人の相手をしており、フチは子供達が楽しく遊ぶ姿を笑みで見守りながら縫物を縫っていた。
マカナックルは狩りでいない。
穏やか空気が流れていた。
しかし、その穏やかな空気を一変させる出来事が起こる。


「フチ…!!」


穏やかな早朝の日。
一人の男がフチの家に駆けこんできた。
その男はアイヌの額当てをしてはいるが、その姿は軍服を身に包み、容姿もアイヌの男とは似ても似つかない男だった。
突然の男の訪問に、トラウマ持ちのカナは『ひっ』と息を呑み固まってしまう。
そんなカナの声が静子の耳に届き、さり気なくカナと孫と赤子を庇うように移動した。


「谷垣ニシパ!?」


しかし、男と認識がないのは静子とカナだけであるようで、男は静子とカナには気づいていないのか、驚いているフチに『ごめん…ただいま』と声を掛け、そんな男にマカナックルの妻が男の名前を驚いたように声を上げた。
さらにはカナと遊んでいた静秋が男に向かって『パー!』と嬉しそうに手を振っていたのを見て、静子はそこで警戒を解く。
フチやマカナックルの妻は驚いていたようではあるが、突然の男の登場に怖がっている様子はないため、静子は怪しい男ではないと体の力を抜く。


(妊婦さん…?)


改めて男を見ると、怪しい男ではないと分かり余裕が生まれたからか男以外に人がいたことに気づく。
その人物は衣服や容姿からアイヌの女性だった。
アイヌの女性は谷垣と呼ばれた男の腕に抱かれており、苦し気に顔を顰めていた。
谷垣は怪我をしているが、自分ではなく腕の中にいるインカラマッと呼んだ女性が産気づいたと慌てた。
その言葉をマカナックルの妻がフチに通訳し、それを嫁から聞いた瞬間フチは慌てて嫁に指示を出し、その場はあっという間に穏やかな空気から一変し、慌ただしくなる。
どうやら出産の準備をしているらしいのをフチ達を見て気づいた静子はカナを見る。
男に対してトラウマを持つカナは不審者ではないと分かりつつも、突然現れた男に体を硬直し、恐ろしい物を見るような目で谷垣を見つめていた。
凝視にも近い目線を向けるカナだが、好きで見ているわけではない。
怖いのだ。
怖いからこそ、彼の動きを目で追う事で自分がいつでも逃げれるように彼の行動を監視しているのだろう。


「カナ」


本当は同じ出産を経験している女性として静子も手伝った方がいいのだろう。
しかし、アイヌ語を理解できない自分がフチを手伝うと逆に邪魔をしてしまうかもしれない。
それに、一番はカナを放ってはおけなかった。
静子は谷垣を青い顔で見つめるカナの手にそっと触れる。
声を掛けられ手を重ねられたカナはビクリと肩を揺らして静子を見る。


「大丈夫よ…あの方は悪い方ではないわ」

「奥様…」


静子はカナが出来るだけ安心できるよう微笑みを浮かべた。
その微笑みと優しい声色にカナの肩の力が少しずつ抜かれていくのが分かる。
それにホッとしていると谷垣が準備のため外に出ていて戻ってきたフチ達に警戒を高めたような声色で問う。


「第七師団の兵士がこの村を見張っているだろう?」


その言葉に静子は目を丸くした。
考えてもいなかったことだった。
いや、本来なら考えもしない事だろう。
こんな森深い場所にある村にわざわざ兵士が見張りに来るなんて。
アイヌの村にお世話になってそれほど経っているわけではないが、静子はその兵士と会った事はなかった。
雪乃の母として、第七師団は静子の動きも見張るはず。
それが杞憂だとしても、ただの杞憂ならばわざわざ静子を北海道に連れてくることはなかっただろう。
例え杞憂であっても、自分の行動が娘を危険に晒すことになるくらいなら、呆れるくらい警戒してもいいだろう。


「大丈夫!その兵隊さんは毎晩うちの人が酒飲ませててオソマに顔踏まれても昼まで絶対起きないから!」


どうやらマカナックルの妻が、静子が水城の母親だと夫から聞き、気を使ってくれたのだろう。
それも運のいい事に、送られた兵士は駄目な兵士だったようだ。
誰の指示かは分からないが、駄目な兵士を送ってくれた上官に感謝である。
マカナックルの妻…オソマの母の言葉に静子と谷垣はホッと安堵の息をついた。
安堵すると周りを見渡す事ができる。
谷垣はフチがインカラマッの服を捲り、布で隠しながら手でお腹を触れていた。


「フチは何を?」

「男か女か触って調べてるのよ…私達は赤ん坊が男だったらうつ伏せに…女だったら仰向けに出してあげないと長生きしないと言われているの」


触れているのは赤子の性別を見るためであった。
しかし、和人である谷垣や静子はフチの行動に疑問を思う。
腹の上から触っただけで赤子の性別が分かる人間なんているのだろうか。
その疑問は谷垣も過り、静子の代わりに投げかけてくれた。
マカナックルの妻曰く、骨盤の大きさで分かるのだとか。
それでもアイヌの中でも名人芸だ。
しかし、それと同時に、フチの首の後ろにいる憑神が教えてくれるのだという。
首の後ろの神様、というのは静子も教えてもらったことがある。
だが和人であり、宗教に疎い静子はピンとこないが、神様を信じるという行為は静子は理解していた。
自分もいるか分からない神様のお陰で愛娘が生きていることを知ったのだ。
そんな自分が、見えもしない神様を信じるなんておかしい話だと切って捨てることはできなかった。


「…よし…インカラマッはフチ達に任せる」


フチは19歳の頃からお産を助けており経験豊富。
孫であるアシリパもフチが取り上げたのだ。
それを聞いて谷垣はインカラマッをフチ達に任せることにし、立ち上がって銃を手に取った。
銃を手に取る谷垣に静子はドキリと心臓が跳ねた。


「月島軍曹はこのコタンの事を知っている…きっとここに逃げたと気づいて追ってくるはず…山で迎え撃つ!」

「駄目です!谷垣ニシパ!!戦わないでッ!!」


どうやら谷垣とインカラマッは軍に追われているらしい。
何がなんだか分からない静子とカナはただ口を出さず、静かに息を殺してその場にいるしかなかった。
銃を持って月島と戦う気でいる谷垣にインカラマッは止めた。


「必ず戻る…俺は不死身だ」

「あなたは不死身じゃありません!逃げてッ!!」


インカラマッの制止を振り切るように、谷垣は聞く耳持たずチセを出ていこうとした。
しかし、入口付近で何やらぶつかり合う音が聞こえ、谷垣が転がるように倒れる姿が見え、カナと静子はビクリと肩を竦める。
谷垣は顔を殴られたらしく、身体を起こしインカラマッを庇うように前に出る。
すると、一人の男がチセに侵入し入ってきた。
その手には銃が握られており、服装からして軍人…恐らく月島軍曹と呼ばれる男だろうと静子は推測する。


「俺だけ殺せ!インカラマッやフチ達には何もするな!」


インカラマッやフチ達を庇う谷垣を月島は冷たく見下ろす。
そこにあるのは静かな殺意だった。
この男は谷垣を本当に殺す気なのだ。
静子は軍人の妻ではあるが、実際の殺し合いは経験した事はない。
夫である秋彦が血生臭い話を話したがらないため、想像でしか彼の見て来た戦争と言う現場を察し、彼のそばに寄り添うしかできなかった。
それが…夫と同じ戦場に立っていた人間から放たれる殺意を目の当たりにし、静子は恐怖に体を震わせた。


「お前はずっとずっと前に選択を間違った…隊に戻らずその女や老婆に出会った時から…」


谷垣は軍に戻らなかった。
その選択をした結果がこれだ。
しかし、谷垣は後悔はしていない。
選択を間違えた事で死んでもインカラマッがおり、そのお腹には自分とインカラマッの血を分けた子供が宿っているのだ。
月島の言う通り、この選択が間違いでも後悔だけはしていない。
谷垣はギロリと月島を睨みつける。
静子は緊迫した空気に息を呑んだ。
その時―――


「月島ッ!!」


懐かしい声が聞こえた。
第三者の静子だからだろうか。
緊迫した空気が少し緩和されたのに気づいた。

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