(263 / 274) 原作沿い (263)

聞き慣れた声とは、鯉登だった。
怪我はほぼ治ったのか、患者服を着てはいるが馬に乗ってここまで月島を追いかけてきた。
静子とカナは部外者だ。
雪乃という関係者と関りがあるというだけの人間で、彼らの話している事は理解はできないし、口を挟む権利はない。
月島がインカラマッに何かを問いかけ、その問いかけにインカラマッは手を差し出した。
何をするのか静子もカナも見守っていたが…―――インカラマッが産気づいた。


「もう産まれちゃうわ!!みんなで手伝って!!」


事態は突然慌ただしくなった。
インカラマッが産気づいたのを見てマカナックルの妻は、事情はどうであれ今は男達の事情など二の次である。


「あんたはお湯を沢山沸かしてッ!!あんたは近くでワラを沢山集めて!!あんたはこの子見ててッ!!」


こういう時の女は強い。
先ほどまで銃を持って命の取り合いをしようとしていた軍人達に仕事を押し付ける。
まず、谷垣にはお湯を沸かせと指示し、二人を追いかけてきた鯉登にはワラを集めろと鍬を押し付けて渡し、拗らせている月島には赤子のお守を押し付けた。
そして、マカナックルの妻は静子とカナにも仕事を与える。


「静子カッケマッは近所の人にお湯を分けてもらうよう伝えて!それから清潔な布を沢山貰ってきて!カナカッケマッは静秋を見てて!!」


突然名前を呼ばれながら振り返られ、静子はビクリと驚く。
鯉登はここで初めて静子とカナの存在に気づいたらしく、驚いた声がこぼれてしまう。
しかし、静子は鯉登に気づかれた事を気にする余裕はなかった。
指示されたのは自分だけ。
しかしカナは男達に怯えて動けない。
先ほどもマカナックルの妻が月島に押し付けた赤子を引き留めることが出来なかった。
静子は返事も出来ず、チラリとカナを見る。
カナも静子を見ていたのか、静子はカナと目が合った。
怯えていると思っていた静子だったが、カナの表情を見て目を丸くさせる。


「奥様…私は大丈夫です」

「カナ…」


カナはいつものようなしっかりした表情を浮かべていた。
まだ怯えはあるのだろう。
静秋をぎゅっと抱きしめるその手は微かに震えている。
だが、状況を察しカナは言い渡された仕事だけを集中しようと覚悟を決めた。
真剣な瞳に力強さを感じ、静子は頷き指示通り近所を周る為チセから出ていく。


「静秋様…お外で待っていましょうね」


静子の後を谷垣と鯉登が追うようにチセを出て行った。
鯉登は静子とカナを交互に見て混乱状態ではあったが、状況が問い詰めるのを許してくれなかった。
苦しそうなインカラマッの声に我に返った鯉登は『後で事情を説明しろ!』とカナに言いながら叔母を追いかけるようにチセを出て行った。
男達が出て行っても慌ただしさは変わらない。
出産を手伝うマカナックルの妻がフチの代わりに忙しそうに動いていた。
慌ただしく動く彼女達を見て、カナはこれ以上邪魔をしないよう近所で生まれるのを待たせてもらおうと立ち上がってチセを出ていこうとした。
そんなカナをマカナックルの妻が止める。


「あっ!待って!カナカッケマッ!谷垣ニシパ達にこれを集めてくるよう伝えてッ!」


どうやらまだ仕事が残っていたらしい。
マカナックルの妻が持ってくるように頼んだのは綿だった。
普通の綿ではなく、ヨモギの葉から作った綿で、これを近所から集めるよう言い渡された。
この綿は脱脂綿よりも出血にいいとされ、アイヌの出産では必需品であった。
和人であるカナでは口で言っても分からないだろうと一部を貰い、外にいる鯉登達に伝えるためカナは駆け足でチセを出て行った。


「奥様!音之進様!谷垣様!!お待ちください!」


カナは外に出てチセの壁にもたれ赤子をお守している月島をチラリと見て警戒をしながら鯉登達を追いかけた。
丁度まだみんな外に出ており、カナは三人の名を呼ぶ。
谷垣は散々名前を呼ばれているのを聞いているので覚えていた。
呼ばれた三人はそれぞれ立ち止まり、呼び止めたカナの元へと集まる。
カナは静子と鯉登は平気だったが、谷垣が近づくと体を固くしかけた。
しかし、一番苦しいのはインカラマッだ。
トラウマで谷垣を避け、時間のロスをしては更にインカラマッを苦しむことになり、そして同時に危険度は増す。
出産は、医療が整っている現代になっても危険を伴う。
それが100年余りも昔である明治時代ではそのリスクは跳ね上がる。
それもここはアイヌの村で、山奥だ。
和人の医療道具などない。
時は一刻も争うのだ。


「こ、このヨモギの葉から作られた綿を近所から集めるよう言われました!皆様もお手伝いお願いします!」


鯉登達もそれぞれ言い渡された仕事がある。
だが、効率を考え一緒に集めた方がより時間短縮となるだろう。
三人はカナの言葉に頷き、それぞれ与えられた役目を果たすため再び走り回る。
カナはその三人の背を見送り…チセを背もたれにしている月島を見る。


「………」


月島は無表情で赤子を腕に抱き座り込んでいた。
赤子は見覚えのない男が物珍しいのか、興味津々気に月島を見上げ、時々彼の顔に触れている。
それでも月島の表情は変わることはなく、だが、赤子を冷たくあしらう事もなく淡々としているように見えた。
…そう、見えるだけだ。
―――彼もまた、自分のように心に傷を負っている。
彼の心の傷と、自分の心の傷は別の物なのだろう。
だが、どれだけの事情があれど、傷は傷…同じ傷には違いない。
彼も自分も深く傷ついてきた。
冷静になってカナは月島自身を見る事が出来た。
カナは静かに月島に近づき、彼の前にしゃがんで顔を見て話しかける。


「…体を冷やします…近所の方の家で待たせていただきましょう」

「………」


誰の体が、と月島は問わなかった。
カナはあえて誰かとは言わなかった。
カナが心配しているのは赤子でもあり、月島でもある。
二人が心配だった。
しかし、月島はチラリとカナを見ただけで何も言わない。
黙り込んだままだった。


「…………」


カナは立ち上がり、月島の隣に座る。
主人の宝物を寒さから守るようギュッと抱きしめた。
その場には、赤子と静秋の声、そして出産の慌ただしさだけが響く。
いつもゆるやかに進む時間はあっという間に過ぎていく。
次第に役目を終えた鯉登と谷垣が外にいるカナと月島の元に集まってきた。
それと同時にマカナックルの妻がチセの中から顔を出した。


「カナカッケマッ!手伝って!!」


カナは目を丸くする。
カナには静秋のお守を任されていたはずなのだが、どうやら人手が足りないらしい。
カナは『えっ』と戸惑った様子で静秋とマカナックルの妻を見る。
しかし断ることも出来ず、仕方なく静秋を鯉登に渡した。
鯉登だった理由は単純…鯉登しか手が空いていなかったからだ。
谷垣は手を負傷しており、月島は赤ん坊を抱いていた。
何より月島に大切な主人の息子を託すほどカナはまだ彼を信用していない。
結果、鯉登が選ばれたのだ。


「音之進様!静秋様をお願いします!」

「は!?おい静秋ってまさか…」

「静秋様は大切なお方です!!ぞんざいに扱わないでくださいねっ!!」

「おい!!カナ!!」


鯉登は突然腕に赤子を渡されてしまい、困惑する。
しかも押し付けられた赤子を見れば、あのいけ好かない男である尾形に瓜二つではないか!
こんな状況ではあるが、赤子の顔を見て鯉登はぎょっとさせた。
しかし、そんな鯉登を置いてけぼりにしカナは急いでチセの中に入ってしまった。


「…………」

「…………」

「…………」


カナがチセの中に入ってしまい、三人の中に沈黙が落ちる。
谷垣は顔を青くして鯉登を見ていた。
谷垣は鯉登と水城が和解したのは知っている。
だが、谷垣は子供の事も解決しているとは知らないのだ。
はわわ…、と顔を青ざめ自分を見ている谷垣の視線に気づかず、鯉登は腕の中に抱かれる赤子を凝視するように見ていた。
それはもう穴が開くんじゃないかと思うほどに。
それが谷垣には睨みつけているように見えた。


「谷垣一等卒」

「は、はい!」


軍から逃げたため、もう上下関係はないはずなのだ。
だが、インカラマッの出産以上の修羅場に思わず軍人時代の反応をしてしまう。
ピンと背を伸ばす谷垣に目もくれず、鯉登は尾形と瓜二つの赤子を見つめていた。


「この子供は…雪乃の息子か」


鯉登の言葉に谷垣は息を呑んだ。
鯉登と水城がどれだけ想い合っているのか…嫌って程知っている谷垣が答えられるわけがなかった。
しかし、その無言を鯉登は肯定の証として受け取り…


「そうか…この子供が雪乃の息子か…」


穏やかに微笑み、静秋の頭を撫でた。
その姿を見て谷垣は目を丸くする。
激怒するのだと思っていた。
水城に骨抜きの姿を見ていたから、自分以外の子供を産んだ事に怒り狂うとばかり思っていたのだ。
だってそうだろう。
今まで鯉登は幾度も相手がその気がなくても水城に近づく男に嫉妬し警戒してきた。
鯉登と尾形は犬猿の仲と言っていいほど気が合わないらしいので、そんな憎い相手の子供を愛する恋人が産んだと知れば誰だって怒るだろう。
自分だってインカラマッが別の男の子を産んだと知ればきっと激情に駆られてしまう。
それがまさか鯉登は笑ったのだ。
それも愛おしそうに憎い男と瓜二つの赤子を見つめている。
驚く以外何の感情があるのだろうか。
目を丸くする谷垣をよそに、鯉登は静秋の頭を撫でていた手を頬へと撫でるように下げ……自分を写す瞳を見つめた。


(お前は母親から素晴らしい物を受け継いだのだな…)


鯉登は愛おし気に恋人の息子である静秋の瞳をうっとりと見つめていた。
その瞳は母とそっくりな琥珀色をしていた。
母の瞳に比べて静秋の瞳は若干色が薄く、やはり恋人を心から愛している鯉登にとっては雪乃の方が美しく見える。
だが、静秋の瞳も美しく見えた。
目の前には憎いとまで思う尾形に瓜二つの顔があるというのに、不思議と憎しみは湧かなかった。
きっと、母から受け継いだ瞳のお陰だろう。
例え嫌っている男が父親であろうと…あの男の血を濃く受け継ごうと、雪乃という唯一愛する女の血が混ざっているという証拠があるのなら、鯉登は目の前の赤子を受け入れ、そして愛することができる。


(ますます狂ってるな…)


鯉登は、ふと、そんな自分に笑いがこみあげて来る。
よほど自分は雪乃に執着しているのだな、と。
元々、雪乃の子供ならばと受け入れるつもりだったとはいえ…会うまでは尾形にそっくりな子供と聞いて内心受け入れられるか不安だった。
だが、実際会ってみれば雪乃の血が流れているというだけで鯉登は簡単に尾形の血を受け継ぐ子供を受け入れた。
彼にとってもう静秋は自分の子供なのだ。
それを執着と言わず、何と言うのだろうか。


「お前は川畑家の籍になってしまうが…私はお前の父となる男だ…まだまだ父として未熟だが一緒に成長していこう」


戸籍はまだ提出していないと雪乃から聞いており、鯉登はまだ赤子とは言え認知するが戸籍は鯉登には入れれない事を謝る。
そして、静秋は赤子のため、鯉登は父親になりたてのため、お互い人間として、父として成長していこうと述べる。
だが、真面目に言ったって相手は赤子…分かるわけがない。
それでも言ってしまうのは根が真面目だからだろう。


「ちぃ?」


まだ言葉をはっきり理解できていない静秋は義父の腕の中で聞き慣れない言葉にコテンと首を傾げる。
尾形に生き写しの容姿ではあるが、その体に流れる血の半分が雪乃だと思えば愛らしく写る。


「そうだ、ちぃ、だ」

「ちぃ、ちぃ!」


今まで静秋の世界には『父』という存在はいなかった。
雪乃が父親という存在を静秋から遠ざけていたため、静秋は父と言う言葉の意味を知らない。
新しい単語に楽し気にきゃっきゃと笑うが、意味を理解したら恐らく静秋は鯉登には懐かない。
いつか受け入れてもらえるだろうが、父という単語を理解すれば静秋は鯉登を自分から母を奪う敵と言う認識として敵視されるだろう。
『静秋は賢いな!流石私の息子だ!』と、もう親馬鹿を見せている鯉登は静秋の脇に手を差し入れ高く持ち上げる。
高い高いされてご機嫌な静秋はきゃっきゃっと笑っていた。
谷垣はそんな血の繋がらない父と息子の姿を見てふと肩の力が抜かれていくのを感じる。
鯉登は自分とインカラマッを見逃してくれた。
インカラマッに対して情を抱いたのかもしれないが、それでも鯉登と言う軍人はそんな甘ちゃんではないのは知っている。
鯉登の心情に何か変化が起こったのか、それとも水城と和解した事で変わったのかは分からない。
だが、鯉登がいれば月島を警戒しないでいいのだと思い、気が抜けてしまう。


「あんた達!中に入ってッ!!」


男達が呑気に時間を過ごしていると、中からマカナックルの妻が顔を出し、手招きをしてチセの中に呼ぶ。
マカナックルの妻の指示で、臼を土間に運ぶ。
赤子を抱いたまま重い臼を運べないので、鯉登は月島に静秋を預け、月島の腕には二人の赤子が抱かれていた。
中に入ればフチとマカナックルの妻、静子とカナ達女性人達がインカラマッの出産を手伝っていた。
経験豊富のフチが赤子を取り上げ、マカナックルの妻がインカラマッの後ろを支えながらフォローをし、静子は汗だくとなっているインカラマッの汗を拭ってやり、カナは血で汚れた物を回収したり新しい物と交換したりとそれぞれ役目を果たそうとしていた。


「ニスホリピレよッ!『臼躍らせ』という難産のおまじないよッ!!」


男達に与えた仕事はまじないだった。
出産において、男達は準備以外ほとんど仕事がない。
後は出産の無事を祈るばかりである。
特に谷垣はインカラマッの出産にはハラハラとしており、外で気を揉むだけよりはおまじないでも何かしてやれる事が谷垣の心を落ち着かせていた。
マカナックルの妻に『もっと転がしなさい!!もっともっと!!』と更に回すように指示されながら谷垣と鯉登は一生懸命手を動かし臼を横にして回す。
『もういいわ』、とおまじないの終わりを告げられ、男達は再び外に追いやられてしまった。
外に出る際、鯉登はチラリとインカラマッを見る。
彼女は病室でいつも見せていた笑みが消え、激痛からか顔を顰めていた。


(雪乃も…静秋を出産した際はこれほど大変な思いをしていたのか…)


やはり思うことは雪乃の事。
出産といえば、男でも大変だという認識はある。
だが、どう大変なのかなんて男性達は理解してやれないだろう。
…いや、立ち会った男性でも実際に自分が出産を経験しないかぎり出産の大変さは分からない。
それは男性だけではなく、出産経験のない女性も言えることだ。
鯉登は月島から静秋を返してもらい、静秋の温もりを感じながら彼がこの世に産み落とされた事への神秘に心震えた。


(愛してもいない男の子供を何故育てる気になったのか不思議だったが…なるほど…女が強いわけだ…)


静秋を受け入れたが、鯉登はずっと疑問に思っていたことがあった。
それは雪乃はなぜ静秋を育てようとしたのか、というものだった。
本来なら好いてもいない男の子供など邪魔でしかないはず。
だが、雪乃はその子供を産み、育て、愛している。
それが鯉登には不思議だった。
ただ、インカラマッの出産を見て何となく気づいた。
やっと疑問に思っていたことが解決し、腑に落ちた時――…赤子の鳴き声がコタン中に響き渡った。

――赤子は無事、生まれた。

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