(264 / 274) 原作沿い (264)

インカラマッの出産は無事に終わった。
しわくちゃでまだ見た目では女の子か男の子か分からないが、二人の子供は娘だった。
『俺に娘が』、と泣く谷垣を静子もカナもインカラマッも微笑ましく見つめる。
邪魔者は退散、ということで静子とカナは外に出る。
すると丁度酔っぱらって眠っていた兵隊がコタンから去る姿が見えた。


「音之進さん、行かせてもよろしかったの?」


見張るために訪れた兵士を見送る鯉登と月島を静子は近づき、カナも静秋を抱っこをしながら後に続く。
不安そうな静子の問いに鯉登は静かに頷く。
どうやらアイヌの策略ではあるものの酔っぱらって寝ていたのを見逃すかわりに、一週間ほど街で頭を冷やせという名目で監視から外すことにしたという。
その一週間というのは、出産したばかりのインカラマッの体調を戻すための期間である。
それはすなわち、鯉登たちは谷垣達を見逃してくれるという事だ。
谷垣とインカラマッの事は今日知り合っただけの間柄ではあるが、出産を手伝ったというのもあって完璧に他人事には思えなかった。
鯉登の温情にカナと静子はお互いの顔を見合い、安堵の息をつく。
そんな彼女達を見つめながら鯉登は『それで』と呟き、その声に二人はお互いから鯉登の方へと視線を向ける。
見上げる鯉登の表情は険しかった。


「叔母上、カナ…説明していただけますね」


鯉登の言葉に静子は『あ』と零した。
静子は出産騒動でそれほど気にしていなかったが、本来自分達はこの場所にいるはずのない存在なのだ。
本当ならとっくに鹿児島に帰っているはずの二人を見て、鯉登は驚きを優に超えてすでに冷静になっていた。
甥に説明を迫られ、静子は気まずげに視線を逸らしながら説明をする。
ここまで突っ走ってきたが、やはり静子も自分の行動が正しいとは思っているわけではなかった。
最悪鹿児島に連れ戻される覚悟もした。
しかし、鯉登は静子の説明や覚悟を聞いて溜息を一つ零しただけだった。


「全く…なぜあの時父か私に相談してくださらなかったのです」

「ごめんなさい…反対されると思ったので…」

「反対もしますよ…叔母上、貴女の行動は雪乃に絶縁をされても文句は言えませんよ…」


雪乃はやっと勇気を出して手紙と写真を送ってくれた。
静子の行動は、その雪乃の勇気を無駄にする行為でもある。
きっと今雪乃が知ったら母親に裏切られたと思い、また距離を置いてしまうかもしれない。


「そうね…それでも居ても立っても居られなかったの…だって、私はあの子を勝手に殺してしまったもの…勝手に殺して、勝手に諦めて…あの子が死んだと思って諦めてしまった…だから…じゃないけれど…でも…私はあの子が生きているという証を感じていたかった…」

「その結果、雪乃に絶縁されてもですか」


静子の言葉に鯉登はつい冷たく言い放ってしまう。
鯉登は自分の発言にハッと我に返る。
静子の行動は今の雪乃との関係を簡単に崩せるほどのものだ。
だから腹も立った。
だが、静子の思いも分からなくはないのだ。
自分だって雪乃を心から思っているが、静子だってそうだ。
自分と静子の雪乃への愛情は比べることは出来ない。
恋人としてと、親としての愛情の深さは同じであろうとその重さは全く別。
どちらが重いだとか、軽いとかではなく…比べる事ができないほど別物なのだ。
自分の失言に後悔はしても、発してしまった言葉は返ってはこない。
ギロリとカナに睨まれながら、鯉登は『あー…その…』と気まずげに視線を逸らし頬をかく。
そんな鯉登に静子は苦笑いを浮かべたが、すぐに真剣な表情へと変え、鯉登をまっすぐ見つめる。


「それも覚悟の上です」


絶縁…その言葉はカナにも言われた言葉だ。
勿論静子だって考えなしにここまで来たわけではない。
絶縁される可能性の方が高く、普通なら戸惑い、そして鹿児島に帰って大人しく娘の帰りを待つだろう。
だが、静子はどうしてもそれが出来なかった。
我慢の出来ない駄目な人間だと思いたければ思えばいい。


「もし、雪乃さんに絶縁されたとしても私は決して諦めません…切れてしまったあの子との関係を修復するのは難しいかもしれない…でも…雪乃さんが死んだと思っていた日々に比べたらどんな事でも頑張れるもの」


雪乃は怒るだろう。
来てほしくないのに静子は勝手に来てしまったのだ。
怒らない理由がない。
だが、静子はそれでも雪乃の傍にいたかった。
過去の雪乃ではなく、今生きる雪乃の傍に。
勿論傍にいるというのは物理的なものではない。
雪乃が生きていた場所、雪乃が拠り所にしている場所にいたいのだ。
雪乃とは絶縁を覚悟にここまで来たが、勿論、絶縁されたままではない。
話し合いを重ねて分かってもらえるように努力する。
きっと想像以上の大変さや忍耐が必要だろうが、雪乃が死んだと思っていた日々に比べると可愛い物だ。
雪乃は生きているのだ。
同じ空気を吸い、同じ食べ物を食べ、同じ大地を踏みしめ生きている。
それだけでも静子は生きる糧となる。
それだけ静子の心は病んでいたという事だ。


「叔母上…」


静子の意思は鯉登にも届いていた。
鯉登は驚いた。
静子は品が良く優しい女性だ。
お嬢さま育ち特有の弱さもある。
だからまさか静子が鹿児島に帰らず北海道に残って雪乃の足取りを追うなんて考えもしなかった。
そこまで叔母は追い詰められていたのだと鯉登は気づく。


「分かりました…叔母上がそこまで覚悟されているというのであれば…私からも両親に言っておきましょう」


静子は自分より大人だ。
もう我が儘を言うほどの年齢ではない。
だが、それでも叔母は叔父の隣で大人しく微笑んでいる印象がぬぐえない。
そんな叔母の我が儘を鯉登は初めて聞いた。
叔母の気持ちも覚悟も受け止め、鯉登はコクリと頷いた。
そして鯉登も覚悟を決めた。
もしも雪乃と静子の間が拗れてしまったのなら、間に入り雪乃を説得する覚悟を。

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