あれ以来、雪乃は叔母と共に鯉登家に遊びによく来ていた。
叔母や叔父の前でも『音之進くん』と呼ぶ雪乃に最初こそ鯉登は流していたが、次第に我慢できず噛みついた。
それから二人のやり取りは定番となり、保護者達からは微笑ましい目線を送られている。
今日も叔父が来ていると聞いて鯉登は『仕方ない、友達のいないあいつの相手でもしてやるか』と誰も聞いていないのにそう呟きながら(速足で)叔父がいるであろう部屋に向かった。(知らせた女中が『甘酸っぱいわぁ』と微笑ましそうに見送ったのは知らない)
「叔父上!」
部屋に入れば父と叔父がいた。
談笑していたのか仕事話のような冷たい空気ではなく暖かかった。
甥の姿に叔父は『おお、音之進』と笑顔で迎い入れてくれた。
しかし鯉登は普段いるはずの存在がないことに首を傾げた。
雪乃がいなかったのだ。
いつもなら叔父か叔母の傍にいるはずの雪乃の姿がない事に鯉登は不思議に思った。
それが父や叔父にも伝わったのか、雪乃に懐いた(鯉登は認めてない)甥や息子を目を細め笑みを浮かべる。
「
今日は妻達と
買い物に出かけちょってな、後で来ると
言ちょった…
もうすぐ来るじゃらせんか?」
叔父の言葉に鯉登は『そうですか』とだけ返した。
しかしその表情はつまらなさそうで、だからこそ叔父も父も微笑ましくなってしまう。
鯉登は薩摩男児らしく育ってくれた。
ただ鯉登は素直すぎるところがあり、そこが良い所ではあるが、これから鍛えるべきところでもある。
しかし今は好いた女児(鯉登は認めない)が来ていないとしょんぼりするという年相応の反応をしており、微笑ましさは倍増である。
「音之進、雪乃が来るまで
俺達の話
相手をしてくれんか?」
無意識に落ち込む鯉登を微笑ましそうに見つめながら叔父は空いている席を叩いて誘う。
尊敬する一人である叔父に誘われ嬉しそうに目を輝かせ、叔父の隣へ座った。
自分に懐いてくれる甥が可愛く見え、叔父は小さな頭を撫でる。
叔父も薩摩隼人なため不器用な触り方ではあったが、嬉しかった。
嬉しそうに笑う甥に叔父もまた笑みを深め、父もその光景を見ては笑みを深める。
甥である鯉登は可愛い。
だからこそ、しみじみと思う。
「
あいつらにもちったァ、
可愛い所があればな」
そう呟かれ鯉登は叔父を見上げた。
見上げれば叔父と目が合い、叔父は呟いた寂し気な声とは裏腹に目を細め笑っていた。
「兄達は叔父上のように
立派になられもした」
あいつら、とは叔父の息子達の事だろうとすぐに察した。
しかし、返したその言葉は半分鯉登の本心ではない。
半分とは、長男は立派な叔父の血が継がれていると認めたくないほど駄目人間なのだ。
叔父には二人の息子がいる。
しかし長男は女に溺れ、博打と遊郭に通い、多くの借金を作って来た――というまさに堕落したボンボンであった。
その借金は叔父が返しており、叔父は長男の尻拭いをしてきた。
それだけではなく叔母は叔父に負担を掛けたくないと言って大切にしている宝石を売り長男の借金を返したりしていた。
勿論それは叔父には気づかれており、しかし叔父は黙認し見て見ぬふりをしている。
妻が夫に告げないという事は、妻は夫に隠し通したいという事であり、浮気ならまだしも家の恥じをわざわざ蒸し返す事はしたくはなかった。
まだ20歳ではないので徴兵対象ではないが、士官学校に通わせており20歳になれば入隊させ根性を叩き直すつもりだった。
だが、長男は士官学校でも問題を起こすどこまでも面汚しであった。
しかし、次男は違う。
正直尊敬できるかと問われれば首を傾げるしかない。
それほど鯉登との接触は少なく、鯉登的には長男に川畑家を継がせるよりは次男に継がせた方が潰れないと思うくらいだろうか。
いい人ではあるのだろう。
人の良い笑顔に醜くくも美しくもない至って普通の青年風で、親類との関係も良好らしいが、鯉登は10歳にもなっていないのと年が離れすぎているからか両親ほど親しくはない。
しかし叔父曰く、出来た人間だが可愛げがないらしい。
鯉登の気遣いが嬉しくて『ありがとう、音之進』と頭を撫でた。
「あの…雪乃の事なとじゃっどん……聞いてんよかな?」
「ん?雪乃がどげんした?」
「ないごて雪乃を
養子に
迎え入れたとですか」
「!――音之進!」
鯉登は叔父に聞きたい事があった。
それは雪乃の事だ。
あの時以来雪乃は話てくれず、それはすなわちまだ雪乃は自分を信用していないということになる。
それが何故か今は悔しくてたまらなかった。
以前は気に入らない(鯉登談)相手に軽くあしらわれたために腹を立てていたが、今は違う。
鯉登はもう雪乃を認めているのだ。
『友人』として。
だから話てくれない事に苛立ちを覚える。
鯉登の問いに叔父は目を丸くし、父は叱るように息子の名を呼ぶ。
それにビクリと肩を揺らしたが、それでも負けじとジッと叔父を見つめていた。
その強い眼差しを受け、叔父は心から義理の兄が羨ましく感じた。
(
本当…おいの
息子達も音之進のように薩摩隼人に育ってくれちょったらなぁ…)
長男は自分達の家の地位は興味はなく、興味は女と金しか向けられていない。
次男は頭はいいが、その貧相な体つきからして軍人として生き残れるか分からない。
長男として厳しく育てたつもりの息子もいつの間にか遊郭と賭場の常連となっていた。
叔父が望む息子像は正に音之進であった。
だが、自分は子育てに失敗した。
今更子供を作る気もないし、作ったとしても長男のように金や性に溺れたらと怖かった。
だから余計に甥である音之進が可愛いのだ。
その可愛い甥の問いは予想外だったが、義兄の怒りを制し優しく鯉登に話しかける。
「ないごて
それを聞っのだ?」
「雪乃に聞いてん
話ってくれんとです…まだおいは信頼されちょらんで」
ぶすっと膨れる鯉登に父や叔父は首を傾げた。
しかし聞けば微笑ましく思えた。
まさか予想より早い段階でそれを聞いていたとは思っておらず、鯉登が本当に雪乃に懐いていると分かった。
鯉登は興味がない物には全く相手にしない。
それが初対面の時から可愛いじゃれ合いを見せてくれたため、雪乃と鯉登は相性がいいのだと二人の両親達は話していた。
拗ねている様子の甥の頭を叔父は撫でる。
「なら、雪乃から聞きやんせ…薩摩隼人がズルとは感心せんな」
叔父からの言葉に鯉登は『ぐぬぬ』と唸る。
正論だから何も言えなかった。
そこで駄々をこねないのは偉い、と叔父はまた鯉登の頭を撫でた。
「じゃっどんな、音之進…雪乃はお前を信頼しちょらんわけじゃなか」
ズルはいけないと教えつつも、雪乃の信用を得ていないと思い傷ついてる甥に叔父は教えてやった。
鯉登は叔父の言葉に首を傾げ、見上げる。
見上げた叔父の顔は父同様威厳を表すような顰め面ではなく、父親の優しい表情だった。
「雪乃は心に
深け傷があっど…じゃっどんおい達には
心配さすいからとそよ
隠きちょい…
笑顔を浮かべてくるっどん、そや本心からの
笑顔じゃなか…勿論おい達には心を許してくれちょるんじゃろう…じゃっどんおいと妻はまだあん子の
本当の
笑顔を見たこっがなかった…じゃっどん音之進、お前とおっ時雪乃は
本当て楽しそうに笑うど」
叔父の言葉に鯉登は胸を弾ませた。
尊敬する叔父の言葉を疑う事なく、鯉登は嬉しく思った。
だけど普段揶揄われ勝てない身として素直に喜べないのも不器用な男心もあった。
ぐぬぬ、と唸りながら鯉登はポツリと呟く。
「…じゃっどん雪乃はおいを揶揄ってくっど」
膝の上に置いてある手をギュッと握りしめ、口を尖らせ拗ねるような仕草の素直になり切れない甥っ子に叔父はふと笑みを浮かべた。
「揶揄うのじゃっち雪乃が音之進に心を許しちょっちゅう証拠かもしれんな…」
「?」
「あん子はきっと
大人より音之進のよな
子供の方が気も安らぐんじゃろう」
賢いとはいえ子供に全てを理解させようとは思っていない。
ただ何となく伝わってくれればいいと思った。
叔父は一人でも多くの娘の味方を得たいのだ。
長男はあからさまに義理の妹となった雪乃を蔑んでいる。
家督を継げないとはいえ父親が死んだ際の遺産が二分の一から三分の一となってしまったし、何より長男は女に溺れながらも本心は女を見下している。
母親でさえ影では馬鹿にしているような人間なのだ。
それが庶民の出となれば更に蔑みの対象となるだろう。
次男は雪乃を妹として認めているのか普通に可愛がっている。
だが雪乃からしたら10代の次男も大人に数えられるのかどこか余所余所しい。
年齢や軍人ということから叔父たちは絶対に雪乃を置いて死ぬだろう。
あの家には残された雪乃の味方は誰一人いない。
だからこそ叔父は味方を欲したのだ。
鯉登は叔父の言葉に照れているのか何も言わなくなり俯く。
その耳が赤くなっているのに気づき、叔父は目を細め甥の頭を不器用に撫でた。
するとタイミングよく女性陣達が帰って来たらしく女中にこの部屋に案内され入って来た。
「あら、お邪魔だったかしら?」
雪乃の姿に鯉登が緊張したように固まった。
しかし様子から会話は聞かれていなかったことに安堵し体の力を抜く。
「お父様!おじ様!」
雪乃は母達と歩いていたが、父親の姿を見ると嬉しそうに笑みを浮かべ父親のところへ駆け寄った。
叔父も立ち上がり駆け寄ってきた娘を抱き上げ受け止めた。
「雪乃、楽しかったか?」
「はい!とても楽しかったです!」
まだ幼い娘を抱き上げるのは簡単で、その軽さもまた愛おしかった。
血の繋がらない少女ではあるが、養女として迎い入れてから本当の娘のように思っている。
いや、もう雪乃は自分と妻の『ただ一人の』娘だ。
叔父の言葉に雪乃は嬉しそうに頷き、その返事に叔父は『そうかそうか』とつい破顔してしまう。
「
夕飯まで音之進と遊んでくるといい」
「はい、お父様」
額を合わせる父親に雪乃は嬉しそうな声を零す。
娘の楽しそうな声に叔父は癒されドラ息子達や戦争での疲れが吹き飛ぶような気がした。
今なら単身で適地へ飛んで敵兵を全滅出来る気もした。
そろそろ小さな
武士の目線が痛くなり、娘を降ろす。
雪乃は鯉登の父や母達に挨拶をした後鯉登と共に部屋を出て行った。
小さな背を見送っていると目線を感じ、そちらへ顔を向ければそこには義理の兄、鯉登平二がいた。
「…なんじゃ」
ニヤニヤとニヤついた顔を見せる平二に鯉登の叔父、川畑秋彦は座りながら半目で睨み返す。
妻たちもそれぞれ夫の傍に座り、女中が鯉登の飲み終わったコップを下げ、夫たちに新しくお茶を淹れ直し、妻達の分も淹れて出す。
不貞腐れたような声を零す秋彦をよそに妻達は女中が淹れたお茶を楽しんでいた。
「まさかお前があげんも
子煩悩になっとは思ちょらんじゃったでな」
クツクツと笑う平二に秋彦は更に眉間のしわを寄せた。
気づいていないという訳ではなく、あまり揶揄われたくなかったのだ。
たがしかし、かといって恥ずかしいからと可愛い娘を可愛がらないのは勿体ない。
今日だってやっと取れた休日なのだ。
だから揶揄う言葉に秋彦はフンと鼻を鳴らす。
「きさんも娘が出来ればおいと同しになっど!」
秋彦の言葉にも平二は余裕ぶって笑っていた。
その余裕ぶっているのがまた腹立たしい。
しかしそんな夫たちの会話を聞いていた平二の妻、ユキはクスクスと笑いながら妹に告げる。
「静子さん、知っていて?この人ったらね、私と音之進さんの前では雪乃さんにも威厳を保とうとするけれど、雪乃さんと二人っきりになるとね、秋彦さんのように接するのよ」
「まあユキお姉様、本当ですの?」
「ええ、本当よ静子さん」
平二と秋彦の妻は姉妹である。
恋愛結婚ではなく、所謂政略結婚、お家結婚だ。
それぞれ同時に嫁ぎ、偶然にも夫同士は友人関係だった。
だから他の友人の妻同士と比べて仲がいい。
それにこうして夫の事を赤裸々に話せるのも姉妹仲がいい事と、夫との関係も良好な証拠である。
妻の突然の裏切りに今度は平二が慌てる事になる。
「ユ、ユキ!!
何よ
言ているんだ!!いつ
誰がそげな事をした!!」
「あら私、知っていましてよあなた…確かこの間音之進さんがお勉強している間雪乃さんをお膝の上に乗せて思いっきり甘やかしておりましたでしょう?お人形やリボンは証拠が残るからと避けられてお菓子を上げていらしたじゃないですか」
「お、お前あの時出掛けておらんかったじゃねか!!なんでそげなこと知しっちょっんだ!?」
「フフフ、知っていてあなた、女の情報網は侮れないものですわよ」
「じょ、女中か…!!」
ユキは口元に手を当ててお上品に笑っていたが、言っている内容は現代の女性とあまり変わらない。
平二の反応や言葉は肯定しているようなもので、今後は秋彦がニヤニヤと義兄を見る番となる…はずなのだが、秋彦は眉間のしわを更に深くさせる。
「雪乃はおいん娘だぞ」
「知っちょ…だが懐いてくるっ子を邪険には
出来んじゃろ?」
「…雪乃は嫁になんかに行かせんでな」
懐いてくる子、と言うが『(将来の舅として将来の)娘を溺愛して何が悪い』にしか聞こえず、友であり幼馴染でもある平二をジト目で見つめながら秋彦がポツリと聞こえるか聞こえないかくらいの小声で呟いた。
勿論聞こえており、その言葉を聞いた瞬間平二はガタリと立ち上がり机に手を思いっきり叩きつける。
「なんじゃと!?音之進のどこが
駄目なんだ!
言てみれ!直してみせっで!」
「直そうがなんじゃろうが行かせんて
言たや行かせんでな!雪乃は嫁に
行っんじゃなか!婿を
迎めておい達と
一緒に暮らすど!」
「家は隣じゃろ!会いたかれば
何時でん会いに来ればよかじゃろうが!絶対に音之進が婿に
なんて認めんでな!」
「
いい加減子離れせェ!親馬鹿が!」
「
それはこっちんセリフや!!」
男親同士の言い合いは更にヒートアップし、いつ手足どころか銃が出てくるか分からない状況となった。
そんな中、両者の妻達は呑気にもお茶を楽しみながら『あらあら』と笑っていた。
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