それから雪乃は寅次とよく一緒に行動するようになった。
雪乃は戦場に身を置いて初めて気が許せる人物と会い、その表情は以前とは違い明るくなった。
それを指摘したのは、第七師団の月島だった。
「最近よく笑うようになったな…何かいい事でもあったのか?」
月島は水城を気に入った鶴見に懐柔しろという命を受け、よく話すようになった。
鶴見は鶴見で接触しているようだが、水城には鶴見の人心掌握術も効かないらしい。
それどころか鶴見は苦手な部類に入るのか、曖昧に流している。
それを鶴見は『明らかな敵意もなく靡く事もない…ここまでどっちつかずの男も珍しい』と言っていたが、その顔はとても楽しそうで、月島にはまるで狩りを楽しむ猟師に見えた。
一度水城に鶴見が苦手かと聞いた事がある。
本人曰く、『鶴見中尉がとかではなく、鶴見中尉の鶴見中尉が鶴見中尉なんです』と訳の分からない事を遠い目で言われ、結局鶴見の何がいけないのか、何が苦手なのか分からなかった。
鶴見に靡かないところから吉平に忠誠を誓っているかと思いきやそうではなさそうだ。
では噂通り吉平の情人かと思ったが、それにしては水城の吉平への態度が情人とは思えないほど甘さはない。
吉平はあれほど水城に甘いというのに。
尾形も水城には興味があるのか、それとも異母弟が水城に懐いたため対抗心からか、鶴見に命じられていないのに水城と良く接触している。
だが誰が見ても好きな子をイジメるような態度しか取らない尾形に水城は全く懐く気配すらない。
勇作には尾形よりも懐いているようだが、如何せん、彼は水城にとって雲の上の人物だ…懐いてはいるがまだどこか余所余所しかった。
吉平にも鶴見にも尾形にも懐かない水城だが、それに対して月島は上手くやっていた。
月島は鶴見のように人心掌握術があるわけではなくただ見かけたら声を掛け続けただけ。
懐かない猫が自分には懐いてくれる姿に月島は正直優越感を感じていた。
水城は月島の問いにキョトンとさせたが、『そうですか?』とふにゃりと笑う。
女顔だと周りに言われているように水城は笑うと更に女性感が強くなる。
しかも水城は懐いた人間には甘くなるのか、このふにゃりとした笑みもそう見られるものではない。
女ッ気がないためその笑みについときめきそうになりつつ、『相手は男だ』と自分に言い包める。
「最近仲良くなった人がいるんです…とても良くしてもらっていて…その人のおかげかもしれませんね」
そう言う水城は本当に嬉しそうにはにかむ。
その笑みを見てつい帽子をぽんぽんと叩いた月島に罪はないだろう。
問題児だらけの部下と上司に挟まれ、月島はこの別師団の一等卒によく癒してもらっている。
同時に、脳裏にその『仲良くなった人』という男を思い浮かべる。
調べるでもなく、あの不死身の杉元と仲のいい人物は目立つ。
その目立つ人間の傍に特定の人間がいれば閉鎖的な空間ではあっと言う間に広がるだろう。
月島から見てもその男…寅次は至って平凡の男だった。
というよりはどちらかと言えば男らしい、又は男くさいと言った方がいいだろうか。
傷があっても衰えない端麗な顔立ちを持つ水城と並ぶと更にその男らしさは際立ち、はっきり言って釣り合わないというのが周囲の声だ。
ただ、ここは戦場であり、必要なのは銃弾が飛び交う中特攻出来る勇敢さのみ。
見た目は無関係だ。
だが、そう言ってみるものの、実際生と死が別れるこの場所では女の代わりとして顔が整った男が好かれるのは仕方のないことかもしれない。
水城曰く、初めて異名とは関係なく接してくれたのが彼だったらしい。(勿論幼馴染だと気付かれないためのカモフラージュである)
月島はそれを聞いて『確かにそれは懐くな』と思った。
軍に轟いているとは言わないまでもこの戦地にいる軍人はほぼ水城の二つ名を知っており、多くが水城に興味を持っている。
中には何度も復帰し戦場に立つことから守り神のように拝める者もいるくらいだ。
その上、この容姿だ。
上官に呼び出されないのは全て吉平が塞き止めているからだ。
吉平は鶴見同様色々コネがあるらしく、お気に入りの一等卒を独占している。
月島は吉平をそれほど多くは知らないが、吉平が特定の人間に入れ込むところは初めて見たため水城を付き従えていると気づいた時には『珍しい』と驚いたほどだ。
しかし、だからこそ水城は鶴見の目に留まってしまったと言っていいだろう。
照れたように頬を掻く水城はまるで妹…いや、弟のようで、月島のような男はその姿に庇護欲を煽られる。
鶴見の命令とは別に月島も水城を気に入っている一人であるため、照れ笑いを浮かべる水城に『そうか』と思わず月島も釣られたように微笑んだ。
その場は穏やかな空気が流れていたが、ふと騒がしさに気付く。
「どうした」
今は用事という理由を作って第一師団の宿舎にいるが、軍曹の階級から騒動は見逃せなかった。
もっと水城に癒されたいと思いながらも立場がそれを許してはくれず、渋々騒動の元へと向かう。
騒動の元へ向かえばそこはある一室だった。
その周辺には野次馬達が集まっており、それだけでも面倒臭いというのに外からでも聞こえる音に月島は更にゲンナリする。
(また喧嘩か…)
騒動の原因は喧嘩だった。
軍人と軍人の喧嘩。
しかし珍しくはない。
明日も知れぬ身、そして強い縦社会からくる強いストレスに喧嘩は絶えない。
男と男の喧嘩ゆえか、流血事件は絶えず月島は見ずとも分かる騒動に『またか』と溜息が絶えない。
どうやら一等卒同士の喧嘩らしく、上官は自分以外まだ駆け付けていないらしい。
『面倒臭いな』と思いながら仕方なく上官として止めに入るため部屋の中を覗けば意外な人物に内心少し驚いた。
「寅次!?」
水城も上司に行かせて自分だけ行かないわけにはいかず、ついていき中を覗けばその光景に目を丸くした。
部屋の中には数人の男達を相手に喧嘩をする幼馴染がおり、水城は慌てて間に入る。
月島は無謀にも喧嘩の中飛び込む水城に『おい!杉元!』と止めようと手を伸ばすが、一歩水城の方が速かったためその手は空を掴むことになる。
大事な友人を怪我をさせられ頭に血を上らせたらしい水城に内心舌打ちを撃ちつつ、吉平のお気に入りに怪我を負わせれば吉平がどんな嫌味を鶴見に向けるか分からず慌てて月島も後を追う。
「一人を相手に何やってるんだお前ら!!」
第三者が入り込んだ事で熱気は収まったのか、それとも上官である月島の姿に冷静になったのか寅次も相手も血だらけになるほどの喧嘩がピタリと止まった。
水城の怒鳴り声に相手の1人が隠すことなく舌打ちを打ち、拳を下げる。
水城は手を出してこないのを見て背に庇った寅次へ振り返る。
寅次は水城と月島の登場に気が緩んだのかしゃがみ込んでいた。
「寅次…!血が…っ!」
顔を覗き込めば鼻や口からは大量の血が溢れ出ており、殴られた顔は腫れて痛々しい。
恐らく体には痣が出来ているだろう。
寅次の男前な顔が血だらけになり、水城は顔を青ざめた。
シャツの袖で血を拭おうとするもそれを寅次が顔を逸らし断った。
『血で汚れる』と言って断る寅次に水城は『いいから』と言って嫌がる寅次の血を拭ってやった。
それを見て月島は思わず眉をひそめたが、すぐに表情を戻し彼をリンチにしていた相手へ事情を聞くため振り向く。
「一体何が原因だ」
一等卒ほど喧嘩が絶えない階級はない。
階級が上に行けば行くほどしがらみは多いため、自身にブレーキがかかるし、教養も関係しているのだろう。
だが二等兵や一等卒はこの間まで農民や商売人だった男だ。
強いストレスのせいで些細な事ですぐ喧嘩をし始める。
上官である月島の尋問に相手の1人は鼻を鳴らす。
「第七師団の軍曹殿がお気になさるほどの事ではありませんよ…どうぞ第七師団の軍曹殿はご自身の巣へお帰りください」
その反抗的な態度に月島は表情こそ変わらないものの眉を顰める。
組織は大きければ大きいほど面倒臭くなっていく。
仕来りもそう。
ルールもマナーもそう。
そして、グループ同士による敵対視もそうだ。
多くがそうだとは言わないが、この相手は第七師団の月島が仕切るのが気に入らないのだろう。
傍にいる仲間もニタニタと笑って月島を見ており、月島は彼らが口を割らないと判断し水城に介抱されている寅次へ相手を変える。
「原因はなんだ」
先ほどと同じ問いを投げかければ寅次は水城から月島へ視線をやるが、何故か口を噤んだ。
チラリと水城を見たのを月島は気づいたが、寅次が口を閉ざした事に月島は内心溜息をつき水城へ目線を送る。
水城も月島の視線に気づき、その視線の意味も察してくれたのか寅次へ声をかけた。
「寅次、一体何があったんだ?お前喧嘩なんかするような奴じゃないだろ?」
「…お前には関係ない事だ…放っておいてくれ」
「なんだよそれ…放っておけるわけないだろ?私と寅次の仲じゃないか…話てくれよ…」
水城は寅次が理由もなく喧嘩をする男ではないと信じているようだった。
月島はこの際だから彼らの関係を知ろうとあえて口を挟まないでいる。
それに上官に問われても話せない事なら、親しい間柄だという水城なら口を割ると思ったのもある。
しかしその読みは外れ、逆に親しい間柄の水城だからこそ言えない事らしい。
と、いう事は水城関係の事だろう…と月島は何となく理由を察したその時相手の1人が嘲笑を寅次に向けた。
「ハッ!やっぱお前らそういう関係なんじゃねえか!!」
「ッ!―――違う!俺とこいつはただの友人だ!変な言いがかりはやめろ!!」
「どうだかなぁ!今のやり取りを見て誰がそれを信じる?てめえはこいつが上官の情人なの知ってて近づいて懇ろになってんだろうが!自分も美味しい蜜を吸いたくて金魚の糞のように付きまとってんだろ!?」
「お前も所詮はその辺の奴らと同じじゃねえか!男の尻に欲情する変態野郎が!」
相手の反応で月島は確信を持った。
相手は水城と寅次の関係を『深い仲』だと思い、それが気に入らないのだ。
一部に熱狂的な信者のように水城を見ている人間もいるというのは知っていた。
男ならばそんな鬼神の如く強い男を自分の物にし組み敷きたいというのは男の本能なのかもしれない。
しかし勝手に白状したのはいいが、聞いていてあまり気分のいい物ではない。
確かに水城は川畑中尉の情人なのは間違いはない。
ただそこにあるのはただの性欲の処理だ。
情人と呼ぶには二人の関係はあまりにも一方的すぎる。
相手の挑発にカッとなる寅次は言い返しその場は雲行きが怪しくなっていく。
ギリギリ水城が寅次の肩に手をやり引き留めている形で再び喧嘩となるのを防いでくれているがそれも時間の問題だろう。
両者睨み合う光景に月島は溜息を吐きながらいい加減止めようとした。
しかし…―――月島よりも早く、水城が動いた。
水城はふらりと立ち上がり、素早い動きでリーダー格であろう相手の膝を蹴り、首に手を伸ばす。
「ぐっ―――、!?」
それは一瞬のように思えた。
膝を蹴られた相手はガクリと膝を降り跪く。
跪くように崩れた相手の首を水城は絞める様に掴む。
驚く月島の目にもその手は、指は、確実に動脈を圧迫しているのが見えた。
苦しそうな表情を浮かべる相手や、突然の事に唖然としていた周りを気にもとめず水城は首を絞めている相手を冷たく鋭い目で睨む。
「てめぇ…そんなくだらない事で寅次を傷つけたのか!!」
「く、だらない、こと、でも…ねえだ、ろッ…こう、して、反、応して、るって…こと、は…真実、なんじゃ、ねえ、か…!」
「友人を傷つけられて頭に来ない人間がどこにいる!!!私は友人を貶され冷静でいられるほど甘かねえぞ!」
首を絞められながらも相手は水城に嘲笑を送った。
それが腹が立ち更に手の力を強くする。
相手の口から唾液が溢れ出て水城の手を濡らすが、それさえどうでもよかった。
しかし流石に見てられず月島が『やめろ!杉元!』と止めに入るが、水城は怒りで月島の制しの言葉が耳に入らなかった。
顔を真っ赤にさせ白目をむきかけている相手をよそに水城はギロリと相手の仲間達を見る。
不死身の杉元と呼ばれるほどの男に睨まれ、相手の仲間達は『ひっ』と情けない声を零した。
「おいお前ら…私と寅次が恋仲だ懇ろだと言うくらいだから当然それなりの証拠があるんだろうな」
「そ、それは…」
水城の問いに相手の仲間達は口ごもる。
誰も頷きもしない仲間達を見渡した後野次馬達にもその目線を向けた。
水城と目と目が合った野次馬達は全員顔を引きつらせ水城と目を合わせないよう逸らしていた。
そんな彼らに水城は声を上げる。
「お前らもだ!!お前らの中で一人でも私と寅次の逢引でも見た奴はいるのか!!キスをしているところを見た奴は!ヤってるところを見た奴はいるのか!!」
水城の言葉にその場は静まり返る。
当然だ。
誰も水城と寅次が逢引している姿もキスをしている姿も営みも、見たことがないのだから。
当然だ。
水城と寅次は決して懇ろな仲ではなく、本当に友人関係なのだから。
水城は寅次が殴られているのを見た時点で怒りを覚えていた。
しかしそれ以上に怪我をした寅次を医務室に連れていきたいという感情がその怒りを抑えていたのだが、それが先ほどの相手と寅次の口論でプッツンと切れた。
腸が煮えくり返りそうなほど怒りが溢れ、もう水城は我慢することが出来なかった。
証拠もないのにたかが噂を真に受け、罪もない寅次を袋叩きした男達に水城は頭が沸騰しそうなほど怒りを覚えた。
「いいか!よく聞け!!私と寅次は懇ろの仲でも恋仲でもない!!!お前らが暇つぶしにどんな噂を広めようと勝手だが寅次を巻き込むな!!!今後寅次を故意に傷つけるようならこいつのように容赦はしない!!いいな!!」
本当は殺したかった。
大切な友人を貶しただけではなく、血が出るほど殴り、一人を相手に数人で袋叩きをした相手を水城は殺したってかまわなかった。
それほど今の水城は怒りで支配されている。
そんな水城を見て月島は目を丸くしていた。
(彼が杉元に心酔していると思ったが…その逆とは…)
月島はずっと寅次が水城を利用していると思っていた。
相手の言葉を借りるなら金魚の糞である。
しかしそれはよくある話だ。
名のある人物に近づき恩恵を得ようとする人間は多くいる。
水城は軍隊の中で孤立していた。
仲のいい人間と言えば月島や勇作など上官が多く、それも友人と言える間柄ではない。
常に吉平に従い、少なくとも月島が目撃している中で楽しそうに友人と連れ歩く水城の姿は見たことがない。
原因は吉平の存在や情人という噂があるが、何より水城の異名もまた原因だろう。
不死身の杉元、と言う存在は二等兵や一等卒をはじめとした多くの軍人に精神的に作用されるものらしい。
そこにいるだけで士気があがり、戦う姿を見ただけで足の震えは止まり勇気を貰える。
実際月島も遠目だが戦う水城を見た時は心が躍った。
流石鶴見に気に入られるだけはあると感心さえした。
そんな水城を恋仲でなくても友人として得たいというのは誰だって思う。
勇敢に戦い鬼神の如くと言われた存在は何を隠そう、自身の友人だ…それは男として箔が付くというものだ。
だからこの男を月島は水城を利用している男としか思えずあまり印象は良くはなかった。
鶴見の命令とは別に、月島は水城を気に入っているのだ。
可愛がっている部下に悪い虫が付いていると知れば不快に思うのも当然である。
しかしそれは全くの逆だったらしい。
月島も水城の気迫に押されゴクリと喉を鳴らしていると…
「そこまでだ」
新たな人物の声が部屋に響き、月島はその声に我に返る。
そちらへ目をやれば入り口に吉平が部下を連れて立っていた。
吉平の登場に水城は小さく舌打ちを打つが、吉平は気にした様子はない。
それどころか愉快そうに水城を見つめていた。
「水城、手を放してやりなさい」
『私はまだお前を手放したくはない』と言う吉平は、首を絞められている部下を心配するよりも、情人が殺人を犯し手元から離れるのを嫌がっているようだった。
水城は月島が宥めようと手を放さなかったのに、吉平のその一言で簡単に手を放す。
渋々さを見せているが、水城は吉平だけには忠順のようだった。
やっと手を離してもらった相手は気を失ったのか床に倒れて動かなかった。
そんな部下を見向きもせず、吉平は真っすぐ水城に向かい、彼の顎に指を掛け顔を自分の方へ向けさせる。
そして怪我がないか確認するように左右へと顔を背けさせた。
「怪我は」
「ありません」
「そうか…ならば良い……部下から喧嘩を止めるため飛び出したと聞いた時は肝が冷えた…もうそんな無謀な事はするな、いいな?」
「……はい…申し訳ございません…」
心から安堵した声だったが、水城の声は淡々としていた。
月島は『やはり』と思う。
やはり、二人の間にはズレがあった。
吉平が水城に向ける感情は『愛情』だ。
だが水城が吉平に向ける感情は『無』だ。
少なくとも愛情どころか好意を向けているとは思えない。
頷いた水城に吉平は笑みを深め、顎に掛けている親指の腹で顎まで届いている傷跡を愛でる様に撫でた。
月島は一瞬、水城が不快そうに顔を顰めたように見えた。
気のせいかと思ったその時―――吉平は水城の顔を上げさせたまま、己の唇で水城の唇に軽く触れた。
「…!?」
すぐに離れたが、その光景を見た月島は言葉を失った。
それは月島だけではなく、野次馬や寅次達も同じのようでざわめきが消える。
しかし月島はすぐに冷静さを取り戻し、眉を顰め吉平の背を見つめる。
月島も鶴見も、水城を気に入ってはいるが『そういう意味』で気に入っているわけではない。
それに月島も鶴見も、同性を相手に性欲を感じたことはない。
同性しかいないこの空間でそういう意味での付き合いがあるのは勿論知っているし承知している。
そういう人間もいるのだという理解もある。
だが、その対象が可愛がっている部下だったのならあまりいい気分にはなれない。
それも部下…水城は吉平を受け入れているようには見えないから余計に。
静まり返り部下達の前だというのを忘れているように吉平はもう一度水城の唇に触れようとした。
二度目の口づけを水城は拒み嫌がったが、それを吉平が許すはずもなく顎を掴んで無理矢理逸らす顔を自分の方へ向けさせた。
グッと力を強くさせればその痛みに眉を顰め、そんな水城に吉平は愉快そうに目を細めた。
そのまま二度目の口づけをしようとした時…―――吉平は顔を殴られ、倒れる。
水城は突然上官が殴り飛ばされ唖然としていたが、その視界に殴った人物が映り目を丸くし唖然とした。
「と、寅次!?」
吉平を殴ったのは、寅次だった。
寅次は水城の豹変に驚いていたが、大切な幼馴染が目の前で口づけをされカッとなった。
水城から全て聞かされたから余計に腹を立てたのかもしれない。
寅次は好いた女性と夫婦となり子を成した。
本当なら水城もオトノシンという男と同じ幸せを味わうはずだったのだ。
それが吉平のせいで染めなくてもいい血で水城の手は赤く染まり、好いた男と夫婦となる道を閉ざされた。
提案したのは水城だというが、それを実行した吉平も吉平だ。
本来女の水城はこんな地獄を味わう事もなかったのだ。
好いてもいない男に水城は好んで体を弄ばせているわけではない。
それなのにこの男は水城が逆らえないのを…助けを求める場所がないのをいい事に好き勝手した挙句に、見せつける様に公衆の面前で口づけをした。
口づけを嫌がる幼馴染を見て、寅次は吉平への怒りを爆発させた。
「貴様…!川畑中尉殿になんてこと…ッ!!」
もう一発…いや、何発入れてもこの怒りは納まらない。
寅次は吉平の部下二人に取り押さえられ床に伏す。
怒りのあまり言葉さえ忘れたように唸りながら起き上がった吉平を睨む寅次に水城は…雪乃は動けなかった。
「営倉に連れていけ」
口が切れたのか口端から垂れる血を拭いながらそう吉平は淡々と部下に命じた。
部下二人は暴れる寅次を力で押さえつけ営倉…懲罰房へ連行していく。
雪乃は寅次の唸り声が遠くへ消えていくのを聞きながら呆然と立ち尽くしていた。
信じられなかった。
寅次が上官を殴るなんて、信じられなかった。
雪乃が唖然と立ち尽くしている間吉平は月島に喧嘩していた相手達も営倉に連れていくよう命じる。
「杉元一等卒はどうなさるおつもりですか」
吉平は自身の上司と敵対しているわけではないが、お互い好ましくは思っていない。
どちらかと言えば気に入らない上官である吉平の命令は不服ではあるが、上官は上官で、吉平がいなくても寅次と喧嘩をしていた相手を営倉へ放り込むつもりで上司に報告しようとしていたため異論はない。
ただ、吉平が水城にどう処罰を下すのか心配だった。
水城が喧嘩をしていたわけではないが、手を出した事には変わりはない。
何かしら処罰は降るはずだろう。
好ましく思う部下を案じている月島を吉平は視線だけ向け…
「お前に答える必要がどこにある」
吉平はそう言って水城の腕を掴んでその場を去っていった。
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