(13 / 27) 軍人時代 (13)

雪乃はふと目を覚ます。
横向きに眠っていたらしく、雪乃は後ろから抱きしめられる形で眠っていたようだった。
誰に抱きしめられているかなど考えるまでもなく、雪乃は振り返る事無く、その者の、吉平の腕を起こさないように退かして寝台から降りる。
体を起こせば寝台がギシリと音を立てる。
その音に雪乃は吉平が起きないかチラリと見るが、眠りが深いのか起きる気配はなかった。


(寅次…)


雪乃は吉平の寝顔を見下ろしながら幼馴染を思い浮かべた。
―――寅次は、死んだ。
戦場では人が死ぬのはよくある事だ。
今日親しくしていた仲間の姿が次の日いなくなる事も多々ある。
よく話していた勇作も戦場で頭を撃たれ死亡。
やはり心を許した存在の喪失は不死身といえど堪えるのだろう…雪乃はあれほど大切にしていた花壇に寄りつかなくなった。
思い出すのだ。
勇作との思い出を、寅次と再会した時の喜びを。
寅次が死んでから一人彼を想う事が多くなった。
彼の遺体は持って帰れなかった。
せめてと思い彼の指を切り取るのが限度だった。
指は失くさないよう大切に仕舞ってある。


(梅ちゃん…ごめん…ごめんね…寅次を守ってやれなかった…寅次の身体、持って帰れなかったよ…ごめんね…)


戦場では自分の命を守る事さえ難しい。
その中で寅次を守ろうなんて甘い考えはなかった。
寅次も雪乃も将来やる事があるから死なないよう気を付けなくてはと言う意識はあったが、その想いだけで生き残れるのなら死亡者はいないだろう。
自分達よりも大切な未来がある人間だろうと、自分達よりもどうでもいい未来がある人間であろうと、敵は平等に、そして不平等に命を奪っていく。
雪乃は自分だけ生き残ってしまったという罪悪感に苛まれながらベッドから降りる。
立つと足にドロリとした何かが伝って落ちていくのを感じる。
見なくてもそれが何なのか、何の役割を持っているか分かっており、雪乃はその不快感に眉を潜めた。
雪乃はそっと何も宿っていないぺちゃんこなお腹を擦る。


(駄目よ…宿っては駄目…お願いだから…このまま何も生まれないで…私は、あなたのお母さんにはなれないの…)


宿っていないのだから誰に宛てた言葉かは雪乃にも分からない。
ただ今まで散々注がれてきた腹は一つも命を宿す事はなかった。
だからそうそう宿るわけがないと思いつつも不安で心が潰されそうになる。
何も返事が来ない腹を気に留めず雪乃は落ちている服を掻き集め、椅子の背もたれに掛けておく。
深夜なのか雪乃が服を拾う衣擦れの音だけが響く。
雪乃は下を穿いた後胸をサラシで潰した。
最初は痛くて苦しいサラシももう慣れてしまった。
こういう時胸が大きいと不便である。
サラシを巻き終えれば後はシャツや軍服に袖を通しボタンを嵌め、軍帽を被ればいつもの杉元水城に戻る。
鏡はないが見える範囲で可笑しな所がないのを確認した後雪乃は静かにドアノブを捻り部屋を出ていった。



◇◇◇◇◇◇◇



部屋を出て行っても雪乃は特に行き場はない。
一応部屋は用意されている。
夜這い防止に特別に2人部屋を用意されてはいるが、相手は吉平の部下だ。
全ての行動を監視されているようで気どころか体さえ休まる気がしない。
それに子種を注ぐようになってから吉平の行為はしつこくなり、最近は部屋に帰る暇さえ与えられない。
しかし今のように雪乃は時々こうしてフとした時に目を覚まし、目が冴えて適当な部屋に逃げ込み夜が明けるのをただじっと待つ事も多かった。
雪乃は吉平の傍にいる事さえ嫌だったのだ。
この日も使われていない部屋に侵入し、そこで日が昇るのを待とうとしたその時―――後ろから腕を掴まれ雪乃は驚きの声を上げるよりも前に室内に引きずり込まれた。


「な――――っ」


何をするんだ、と叫ぼうとしたが、その口を誰かが手で塞いだ。
相手を睨めば雪乃はその睨みつけた目を丸くさせる。


「尾形上等兵殿…」


雪乃を引きずり込み、口を塞いだのは尾形だった。
尾形は驚く雪乃の表情を見て愉快そうに口角を上げる。


「久しぶりだな、杉元一等卒」


大人しくなった雪乃から離れ尾形は開けっ放しだった扉を閉める。
カチャリと鍵がかけられたのに気付き雪乃は怪訝そうに尾形を見つめ、近づく尾形から逃げる様に一歩また一歩と後ろへ下がった。
訝しんでいるものの後ろへ後退する雪乃がどこか怯えているように見えて尾形は笑いが止まらなかった。


「そう警戒するな…流石に俺も傷つく」


そう言うものの、彼のその顔は到底傷ついているとは思えないほど愉快そうに笑っていた。
雪乃は後ろへ下がりながら何か尾形の癪に障る事でもしたのだろうかと考える。
尾形とは知り合いではあるが親しいというわけではない、ただの部隊の違う上司と部下という間柄にすぎないと雪乃は思ってる。
尾形と会うのも大抵花壇の前だったため、行かなくなった今ではもう会う事はあまりない。
そもそも尾形は第七師団、雪乃は第一師団と接触する機会はよほどの事がない限りは皆無だ。
あったとしても戦場でチラリと遠目で見た程度だろう。
そんな中、尾形に絡まれるほど怒らせてしまったのかと思ったが雪乃が覚えている限り尾形を怒らせる行動をとった記憶は全くなかった。


「あの…私は尾形上等兵殿を怒らせる事をしましたか?」

「怒らせる事…?いや、別に何もしていないが…」

「では何の御用でしょうか…」

「ああ、ちょっと確認したい事があってな…」


『何ですか』と問うとした時、ついに壁に退路を断たれてしまい背中に壁が当たった。
一瞬そちらに気を取られたその隙にじりじりと近づいてきていた尾形が雪乃の顔の両脇に両手を突いた。
所謂現代で言う壁ドンとやらだ。
雪乃はそのときめくべき場面なのだが、何か失態したのかと内心冷や汗をかいていた。
もうすぐなのだ。
もうすぐで満期になり雪乃は解放される。
自由になるというのに、厄介ごとは御免だった。
退路を断たれた雪乃は壁に手を突く尾形の腕を伝い、尾形を見上げた。
やっと目が合った尾形はゆっくりと静かに雪乃の耳元に口元を寄せ、そして―――


「お前、女だろ」


雪乃はその言葉に背筋が寒くなった。
背中に氷水を流し込まれたような寒気が襲った。
雪乃は顔を強張らせる。
尾形はハッキリと言ったのだ。
『お前、女だろ』と。
女じゃないか?、女か?などの疑問形ではなく、はっきりと確定しているように聞いていた。
それはすなわち、尾形は知っている…―――自分が女だということを。
『なぜ』と言葉なく呟く雪乃に尾形は『やはり』と思い、感情を表すように口角を更に上げ愉快そうに目を細めて笑った。


「お前が言ったんだが…覚えていないのか?」

「わ、私が…?尾形上等兵殿に、ですか…」


尾形の言葉に雪乃は思い出そうとするが、全く記憶になかった。
首を傾げ不思議そうに呟く雪乃に尾形は目を細めた。


(なるほど、やはり覚えていないか…まあ、意識が朦朧として無意識での言葉…というとこか…)


もうあれから一ヶ月ほど経っている。
あの時の怪我で数日は病院に押し込められた雪乃はその後復帰はしたが戦場は悪化していき尾形は接触したくても色々と忙しく体力を削られ結局今日まで接触はできなかった。
元々師団が違い、お互いの小隊長の仲の悪さもあった。
あの時は雪乃も大怪我を負い、本当に死に際寸前だった。
だからこそその時の言葉に嘘偽りがないのを尾形は知っている。
まだ考えている雪乃を見つめ、尾形は愉快そうに笑う。


「重傷を負った日だ…お前、俺に『あんな奴の子供なんて産みたくない』と言ったんだ」

「…っ!」


思い出してはいない。
だが、『子供を産みたくない』というのは吉平の子供を産むことが決まってから常日頃から思っている事で、子供を産むなど誰にも言えず、外で子供の事を吉平とも話した事もない。
そのため、本来尾形が知っているわけがないのだ。
ということは尾形の言う言葉は本当だという事だろう。
雪乃は覚えていない過去の自分に頭を抱えたくなった。
よりにもよってまた厄介な相手にバレてしまったと。


「……上層部に報告をします、よね…」


基本的に日本軍は男のみが対象となっており、女は対象外である。
女だと気づかれれば即刻国に返されるし大目玉を食らう。
女だと気づき隠していた協力者の軍人はもっと重い懲罰が降るだろう。
吉平が懲罰が下るのはいい。
むしろざまあみやがれ、だ。
だが吉平には母が…静子がいる。
静子はもう吉平しかいないのだ。
雪乃はこれ以上母を悲しませたくなかった。
それに取り引きは今もまだ有効なのだ…途中で気づかれた時も吉平の妻になる事が決まっている。
本当なら尾形の顔を原型が分からなくなるまで殴って記憶を消してやりたいが、最悪殴ったのが雪乃だとバレて軍を辞めさせられる。
そうなった時も吉平の妻になる事が決定済みである。
だから雪乃が残っている選択肢と言えば、穏便に、事情を話し、理解してもらうしか他になかった。
しかし相手はあの尾形だ。
どこが感情のスイッチなのか分からない、あの、面倒臭い、尾形だ。
これで相手が月島だったら頼み込めば同情し理解してくれるだろう。
百歩譲って鶴見も面白そうだと黙ってくれそうだ。(後が怖いが)
だが、目の前にいるのはあの尾形だ。(三回目)
どう考えても突破口は見当たらない。
とりあえず刺激しないようおずおずと上目遣いで見つめ恐る恐る問う事にした。
突然神妙な様子を見せる雪乃の考えを当然読んでいる尾形は目を細め笑う。


「別に黙っていてやってもいい」

「……条件は」

「条件?…なんだ、俺を疑ってるのか?」

「……あんたみたいな人間が素直に善意で黙っててくれるわけがないのは経験済みなんですよ…」


黙ってくれるという尾形に雪乃は素直に喜べなかった。
ホッとした事はしたが、吉平で散々痛い目に合っている雪乃は手放しに喜べなかった。
心外だなという顔を見せる尾形だがその顔は全く傷ついた様子はない。
むしろ警戒心を高める雪乃を楽しんでいるようだった。
遠い目をする雪乃に尾形は愉快そうに笑いながら雪乃の軍服のボタンを片手で外し始めた。
それに雪乃はぎょっとさせ咄嗟に尾形の手を掴んで止めさせ尾形を見上げる。
尾形を見上げれば、普段あんなに感情が読めなかった目が生き生きと楽しそうに輝いているのが見えた。
その目に雪乃は嫌な予感がした。


「黙っててやる代わりに股を開けということですか」

「下品な言い方はよせ……そうではないぞ、杉元一等卒」

「では私の服を脱がす必要がどこにあるのです?話すだけならば服を脱がす必要はないでしょう」


吉平相手でも嫌なのに、黙る代わりに尾形とも性処理をしなければならないのは苦痛以外何ものでもない。
尾形は違うというが、その言葉と行動は真逆だった。
この男が何をしたいのか雪乃には理解が出来ず、睨むと楽し気な目と合ってしまった。


「ではお前が決めるといい」

「決める…?何をですか」

「俺の子供を産むか、川畑中尉の子供を産むか…選択肢は二つに一つ、どちらかだ」

「な…ッ」


尾形が要求してきたのは性処理どころかとんでもないものだった。
なぜ相手が吉平だと気づいたかは愚問だろう。
噂では吉平の情人だと流れているし、その噂は本当だ。
常に吉平の傍に付き従い、多くが吉平と雪乃の口づけを見たため疑いもしないだろう。
雪乃は尾形の条件に言葉を失くし絶句した。
唖然としているその隙に尾形はボタンを外すのを再開する。


「しかし…お前、随分と中尉殿を嫌っているようだな…まあ、中尉殿と何かあったかは聞かないでおいてやろう…女の身で軍人となった理由もな……だが、本当にそれでいいのか?中尉にどんな弱みを握られているか、どんな理由があるかは分からんが…意識が朦朧としている時でさえ中尉の子供を産むのが嫌だと言うくらい嫌っているくせに…本当に中尉の子供を産むつもりなのか?」


意識がない時でさえ雪乃は吉平を拒絶していた。
それなのにどんな弱みを握られているかは分からないが雪乃は嫌な男の子供を素直に産もうとしている。
どんな理由があるにせよ川畑中尉が頂点というわけではないのだから事情を話し別の話の分かる上官に助けを求めればいいものを…
尾形は雪乃の世界は随分と狭いのだなと思う。
雪乃は尾形の手を掴んではいるが尾形の言葉に動揺しているのか力はそれほど強くはなく、よくて引っ掛けているような弱弱しさだった。
尾形が手を大きく動かせば簡単にポトリと落ちそうである。
そうしている間にもボタンは全て外し終え、尾形は雪乃が抵抗しないのをいい事にシャツに手を伸ばし静かにボタンを外していく。
しかしその手に雫が落ち、尾形は手を止め雪乃を見る。
雪乃は俯いていたが、確かに雫は雪乃から零れてきていた。
顔を見ようにも帽子が邪魔で見れず、尾形はゆっくりと帽子のツバを掴んで軍帽を脱がせた。


「……お前…泣いてるのか…」


帽子で隠れていた雪乃の顔が露わになり、尾形は目を丸くする。
衛生面の関係で髪の毛を伸ばせず軍帽を取れば髪の毛で顔を隠す事は出来ない。
露わになった雪乃の瞳からは涙を流れていた。
何かに耐えるように眉を顰め雪乃は静かに泣いていた。
尾形の呆然の声に雪乃はズルズルと壁に寄り添いながらその場に座り込む。
座り込む雪乃に尾形は『おい』と言いかけたが口を閉ざし、雪乃の傍に座るように尾形もその場でしゃがむ。
尾形から顔を逸らすように俯く雪乃の頬に触れると季節もあって雪乃の肌は氷のように冷たく感じた。


「…逃げたいと思わないのか……それが無理でも誰かに助けを求めることはできただろ」


珍しく尾形は動揺していた。
今まで心動かされたものは母以外になく、その母でさえ父がどう行動するのか興味が沸いて物のように捨てた。
それからは尾形は他人を信用したことはなく、部下に慕われている鶴見でさえそれほど感情が動いた事はない。
だが、何となく、目の前の女に少し興味が沸いた。
なぜ軍人に装って戦場に立っているのか興味が沸いた。
男でさえ恐怖を抱くというのにこの女は理由がどうであれ勇敢にも立ち向かい『不死身の杉元』という異名を作り上げた。
だがこの女も怖くないはずはないのだ。
顔がいいのだから吉平でなくても上官に取り入って隠れていればいい。
だがこの女はどんな怪我を負っても舞い戻り敵を殺していく道を選んだ。
男だと思っていた時でさえ興味を引かれ、欲しいと思ったのだ。
男として、この鬼神を手に入れたい、と。
鬼神が自分にだけに懐くのはさぞ気持ちがいいのだろう、と。
女だと知った時、真っ先に腹に子をこさえればこの鬼神を己の物にできると考えた。
別に愛しているわけではなかったが、涙を見てしまった今、尾形は強い興味心を雪乃に抱く。
雪乃は尾形の問いに手で顔を覆い泣き叫ぶでもなく、悔し気に顔を顰めるでもなく、ただ静かに涙を流す。


「性処理を命じられる前はただ耐えればいいだけだった…だけど…処理を命じられた時は心底逃げたいって助けてほしいって思った……何度も殺して逃げてやろうかと思った…死のうとさえ思った…でも…殺してしまえば…助けを求めてしまえば…死んでしまえば…あいつがしてきた事全てお母様の耳に入るから…もうお母様から奪いたくなかったから……」

「だから、今まで我慢してきたのか」


あいつ、というのは川畑中尉の事だろう。
そして文字通りお母様とは雪乃の母親の事だ。
少ない情報で尾形はここまで読んだが、余計に雪乃と吉平の関係性が分からなくなった。
なぜ吉平の悪事を暴いたら自分の母親から奪う事になるのか。
そもそも奪うとは何を奪うのか…分からない事だらけだった。
そんな尾形をよそに雪乃は尾形の言葉に小さく頷いた。


「満期になれば私は自由になるから…あともう少しだけ我慢をすれば私は女に戻れる…もう前の私には戻れないけど…だけど…それだけが…一日一日が過ぎる事だけが…刻む時間だけが…唯一の救いだった…」


どうやら雪乃と吉平の間には何か契約のようなものが結ばれているらしい。
満期、となればもうそれほど時間がない。
どんな契約を結んだかは分からないが、吉平も焦ったのだろう。
この鬼神に向ける感情は異なろうと、独占欲は同じだったようだ。
それに尾形は内心吉平にも自分にも嘲笑を送る。


「満期除隊があと少しと言っても一ヶ月二ヶ月の話じゃないだろ……今まで妊娠しなかったのはただ運が良かっただけだ…そんな運だけが頼りの日々をこれからも送るつもりか?」


尾形の言葉に雪乃は唇を噛む。
山賊の時はまだ子供だったというのもあるが、子供でもタイミングが重なれば妊娠する事があるらしい。
山賊の時も、長兄だった菊之丞の時も、そして今までも、雪乃は運よく妊娠することはなかった。
しかしそんな幸運いつまでも続くはずがない。
尾形はそう言いたいのだろう。
それは雪乃も分かっているつもりだが、雪乃に逃げ場はないのだ。
一日一日妊娠しているかもしれないという恐怖と戦うしかない。


「っじゃあ、どうすればいいっていうの…私は逃げられない…助けを求める事もできない……ただ毎日妊娠していない事を祈って生きるしか他にないのに…」


尾形が助けてくれると言っても雪乃は絶対に頷かない。
雪乃には二本の道しか残っていないのだ。
満期まで逃げのびる道と、妊娠し吉平に捕まる道…たった二本の道しかない。
母を思えば訴えられず、ただ運任せの毎日を過ごすしか雪乃にはなかった。
それを今更手を差し出されても雪乃は素直にその手を取れないところまで来ているのだ。
尾形は震える声でまるで叫ぶように零す雪乃の姿が小さく見えた。
あんなにも鬼神だ何だと大きく見えていた女が、他の女と同じ華奢で女らしく見えた。


「なら、俺の子供を産んでみるか」


ぽつりと呟かれたその言葉に雪乃は目を見張り、ゆっくりと尾形を見上げた。
唖然とした雪乃目と尾形の目が合い、雪乃は驚きのあまり瞬きするのも忘れ尾形を見上げていた。
そんな雪乃に尾形は冷たく冷えている頬に触れる。
雪乃の頬はまるで冷えた分を取り戻そうと尾形の手の温もりを奪っていくが、案外尾形は心地よく思う。


「一種の意趣返しだと思えばいい…避けられない事ならあの男の子供でなく俺の子供を産んでみるのも面白いかもしれない」

「……私はきっと子供を捨てるわ…あなたもあなたの子供も愛していないもの…」

「別にそれでも構わない…俺達の間に愛情なぞあるわけもなし…夫婦を約束した恋仲でもあるまい…子供は育てたい奴に任せておけばいいさ」


そう言うが、尾形は絶対にそれを許さない。
不死身と名高い鬼神の腹には自分の血を分けた子供がいる。
銃を得意とする自分と、不死身の雪乃の血が混ざり合って生まれた子供を尾形は母親共々逃すつもりはなかった。
まずは子種を仕込まなければ始まらず、信用させるために尾形は平気で嘘を吐く。
子供を宿したのなら鶴見に借りを作ってでも囲い、自分の物にしたいと、今、心から、そう思った。
そのせいで目の前の鬼神が自分を軽蔑しても、憎んでも、卑怯者だと罵ろうとも、別に構わなかった。
愛と憎しみは紙一重という言葉があるように、愛があるから憎むのだ。


「後はお前次第だ」


そう言って尾形は雪乃の頬から手を離す。
雪乃は暫く黙り込む。
確かに吉平が妊娠させようとするのは避けられない。
もう交渉材料の寅次はいないとはいえ、寅次が駄目なら別の方法で責めるのが吉平の手口だ。
吉平はどんな手を使っても欲しい物を手に入れる人間なのを雪乃は知っている。
尾形の子種を腹に詰め込んでも子供が出来るとは限らない。
むしろ今まで妊娠しなかった事からどちらの子供も宿らず満期となり雪乃は自由を手に入れる可能性の方が高いかもしれない。
雪乃は暫く考え込んだが…尾形の賭けに乗る。
頷く雪乃に尾形は嬉しそうに笑みを浮かべ両手を広げ、そんな尾形の腕の中に雪乃は自ら飛び込む。

―――雪乃は山猫に自ら捕らえられた。

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