結局千景は雪乃の意思を曲げる事は出来なかった。
しかし千景は雪乃の…妹の味方らしく、雪乃の『どちらの子か分からないからまだ話さないでほしい』という言葉を信じ暫くは黙ってくれるらしい。
とりあえず様子見として暫くは入院したが、あまり長い間雪乃を入院させることができずすぐに退院させた。
この時ばかりは千景は雪乃の不死身さが憎く感じたという。
はっきり言えば千景は医師として雪乃を戦場に送り出すのは反対だ。
だが雪乃から言うなと言われているし、雪乃は男と偽って軍人に入隊し、上からも不死身を早く治して戦場に出せというお達しも来ており、千景は上からも横からも下からもせっつかれ、『もうどうにでもなぁれ』と考えるのをやめた。
『何かあったら絶対に医療班を呼ぶこと』『無理は絶対にしない事』『心臓を潰されようが絶対に腹だけは守る事』、と何個か約束をさせる事は出来たが、戦場に立ってそんな約束守り切れるとは千景も思っていない。
せめて『腹だけは守る事』だけは守ってほしいと心底思う。
倒れた数日前、雪乃は丁度戦場で怪我を負って戻って来たのもあり、入院が長引いた理由を傷が膿み熱が下がらなかったからという事で何とか延長させていた。
戻ってきて即吉平と尾形から質問攻めされ雪乃は帰って来たというのにもうものの数時間で疲れ果てた。
尾形達もあれだけ仕込んでいるのに妊娠しないのは可笑しいと思い焦っているのだろう。
妊娠ではなかったと知らされた吉平の顔はとても残念がっていたし、尾形は表情は変わらないものの『そうか』と呟く声は少し沈んでいた気がした。
妊娠してないと思っているため二人の行為は変わらず行われる。
本当なら流産の恐れがあるため妊娠中の行為は控えた方がいいが、その行為で子供が死んでも雪乃は喜ぶだけだろう。
(もし尾形の子供だったら産んでもいい…でも……でも、もしもあいつの血を引く子供だったら?)
雪乃は誰もいないのを確認し、腹に触れる。
お腹にいる子供はまだ誰の子供か分からない。
尾形の血を引く子供なら産んでもいいと思えるが…しかし…吉平の子供の可能性もある。
尾形の子供か、吉平の子供か、どちらか判断するためにはまず子供を腹から出さなければならない。
その間雪乃は約10ヶ月もの間この腹に子供を置いておかなければならない。
尾形の子供だと確実に分かっていたら我慢も出来た。
だがもしかしたら吉平の子供が宿っているとしたら…10ヶ月もあの男に縛られる事になる。
(でも…もう少し…あと少し…)
雪乃は触れている腹を撫でる。
初めての妊娠で好いてもいない相手の子を宿す事になろうとは雪乃も思ってもみなかったが、あと少し我慢すれば戦場に駆り出され雪乃は肉の塊と別れる事が出来る。
そう思う事で今すぐ戦場に向かいたい気持ちを抑えていた。
しかし、こういう時に限って相手も我が祖国も戦争を仕掛けようとはしなかった。
暫くの休みを兵達は喜んでいたが、雪乃は喜べなかった。
暇があればあるだけ雪乃は次から次へと二人から子種を注がれるのだ。
重複妊娠というものがあり妊娠中2人目を妊娠する事が数百万分の1の確率で起こる事もあるらしく、そうなっても可笑しくないほどの量が雪乃の中に入り込んでいた。
雪乃はもう、なんのためにこんなところにいるのか分からなくなってきていた。
―――しかし、案外チャンスはすぐに訪れた。
雪乃は妊娠が発覚してから初めて戦場に立つことが出来たのだ。
「〜♪」
雪乃はご機嫌だった。
鼻歌を歌ってしまうほどご機嫌に塹壕で上官の命令を待っていた。
「杉元さん、なんだかご機嫌ですね……怖くないんですか?」
傍にいた新兵がそう恐々と話しかけてきた。
配置された自分の隣にはあの名高い不死身の杉元がいる事に緊張し、そして殺気しかない戦場の空気に押されているのだろう。
雪乃は新兵の言葉に『ん〜』と考える様に上を向く。
「怖くないな…今日はなんだか楽しいんだ…」
『早く敵陣に突っ込みたいよ』と笑って答える雪乃に新兵はあんぐりと口を開けた。
死ぬかもしれない戦いをしているのに楽しいと言ってのける雪乃が信じられないのだろう。
自分はこれほど怖くて恐ろしく、足が震えて仕方ないというのに。
そこで自分と雪乃の違いを思い知る。
流石は名前に不死身とつくだけある、と感心し尊敬した。
『俺も頑張って生き残らないと』とグッと拳を握る新兵をよそに雪乃はお腹に手をやり焦る気持ちを落ち着かせていた。
(あいつの子供だったら子供だけ死んで……でも尾形の子供だったらきっと私も一緒に死んであげれるはず…)
お腹に宿る子供はどちらの子か分からないが、考えすぎて雪乃は子供だけが死んだら吉平の子供で、母体と共に死ねば尾形の子供だと自分独自のルールを決める。
愛情というものがあるのなら、吉平の子供には全くなく、尾形の子供になら少しだけ愛情を与えてやれる気がしたからだ。
一人で死ぬのは寂しいものね…お母さんも一緒にいてあげるわ、と尾形の子供に対してだけそう呟き雪乃は目を細め笑う。
「突撃―――!!」
その時、やっと待ちに待った号令が響いた。
その瞬間どちらとも言えぬ雄たけびが上がり、雪乃は塹壕から飛び出し誰よりも早く敵兵へと向かって走る。
(さあ!!殺しなさい!!この体を!この腹を!!子供ごと殺して!!!生きたまま腹を裂いても構わない!!腹の子があいつの子供じゃない事を証明してみせて!!)
銃剣を持って走る雪乃は格好の的だろう。
しかしいつもならどこかしら当たったり掠ったりするはずなのにこの日に限って無傷で敵の塹壕に辿りついてしまった。
と、いうのも雪乃に向かって銃を撃とうとした敵が味方の弾で頭を撃たれ死んだからだ。
雪乃は『へたくそが』と死んだ敵にそう悪態つきながら持っていた銃剣を捨て、対峙する露西亜兵と睨み合う。
「どうしたの…私は無防備よ…さっさと殺しなさい」
あまりにも無防備過ぎたのだろうか。
銃剣を捨て襲い掛かろうともしない雪乃を露西亜兵はたじろぎ距離を置く。
じりじりと距離を置き警戒する露西亜兵に雪乃はじれったく感じ、眉を顰め苛立つ。
「殺しなさい!!」
相手に言葉が通じないのは知っているが、雪乃は攻撃してこない露西亜兵に苛立ちをぶつける様に声を上げた。
その瞬間、雪乃の後ろから銃声が鳴り響き、対峙していた露西亜兵が絶命した。
後ろへ振り返れば話しかけてきた新兵を含んだ日本兵が数人銃を構えており、どうやら雪乃が敵を引き付けている間隙だらけの露西亜兵を撃ち殺したらしい。
「杉元!敵を引き付けてくれてありがとうな!」
そう言って笑いながら男は次の敵兵を殺しに走る。
新兵も話しかける余裕がないのか必死な形相で敵兵の命を奪っていった。
雪乃はグッと拳を握りしめる。
(どうしてこんな時に限って…ッ!!)
普段、生きたいと願っている時に限って命に関わる大怪我をさせる癖に死にたいと思う時は傷さえ負わせてくれない。
雪乃は神を恨んだ。
◇◇◇◇◇◇◇
今回は日本軍が露西亜兵を引かせるまで追い詰めることが出来た。
結局決着はつかなかったが、日本軍側からも戻るよう命令があり命ある者はそれぞれその場を去っていく。
雪乃も味方の掘った塹壕で戻ろうと足を引きずりながら歩いていた。
あれから雪乃は死のうと試みたが、その度に味方の乱入で邪魔が入り結局今日も図太く生き残ってしまった。
とは言え無傷というわけではなかった。
胸、片腕、片足に銃弾で撃たれ、剣で刺され、軽傷以上の傷を負っている。
しかし普段あれだけあちこちに怪我を負うのに、今日に限って腹だけは無傷だった。
まるで子供を守っているようだと雪乃は無傷で汚れしかない己の腹を嫌悪しながら睨む。
すでに戦争も一時終了し、味方も敵も皆自分の陣地へと急いでいた。
そのため開戦直後から鳴り響く銃弾や砲弾の音や雄たけびも聞こえず静まり返っていた。
ズルズルと足を引きずる音だけが響く中雪乃は力尽き死んでいる仲間を見ないよう前だけを見つめ歩いていた。
その時、雪乃は信じられないものが視界に写り思わず立ち止まった。
「―――――」
雪乃は絶句し、怪我した足を引きずりながら急いでソレの元へ向かう。
近づけば雪乃は崩れる様に座り込み、『邪魔な物』を退かす。
「なんであんたがここにいるんだ!!!川畑吉平!!!」
『邪魔な物』を退かし現れたソレ…兄である吉平の胸元を掴み叫ぶ。
雪乃の前には兄が倒れていた。
邪魔な物…部下である曹長が上に覆いかぶさるように倒れていたその下に吉平も倒れていた。
それを見た雪乃は痛みを忘れ駆け寄りすでに事切れていた曹長を退かした。
胸元を掴み揺さぶればまだ息があったのか『ぅ』と声を零しながら吉平の閉ざされた瞳が開けられ、雪乃を見た。
「雪乃…生きて、たのか…」
『良かった』と呟く吉平に雪乃は怒りで奥歯を噛みしめる。
「なんであんたが倒れてるんだ…!!なんで…!!なんで死にかけなんだ!!許さないからな…!あんたが死ぬのなんて私は認めないからな!!!立てよ!!立ってよ!!立って…!立ってその足でお母様の待つ家に帰れ!!!――――これ以上お母様から奪うな!!!」
兄の腹は真っ赤に染まっていた。
爆発に巻き込まれ、内臓が飛び散ったのだろう。
曹長も重傷を負いながらも吉平を助けようとし、そしてここで力尽きたのだ。
吉平は血を流し過ぎたのか顔は青白く覇気がなかった。
大量の出血で死んでいく人間を見てきた雪乃には分かった。
雪乃は忘れない。
忘れられるわけがない。
まるで全ての血が抜き取られたように彼らの肌に色が消えていくのを。
許せなかった。
今更…
母を苦しめ雪乃を苦しめ家や雪乃の未来を滅茶苦茶にしたこの兄が死ぬなんて許せなかった。
自分だけが楽になろうとすることが許せなかった。
雪乃は視界が滲み、雫が吉平の血だらけの軍服に落ちて濡らしていく。
何も答えない兄に雪乃は縋りつくように胸元に顔を埋めた。
「雪乃…、」
グッと拳を握る様に兄の服を掴むその手を強くする。
その雪乃の手に吉平の震える手が触れた。
雪乃はその手に顔を上げ吉平を見た。
血の流し過ぎで意識が朦朧としてはいるが、その目はしっかりと雪乃を見つめていた。
涙で濡らす雪乃の琥珀色の瞳に吉平は死に際だというのに見惚れていた。
涙を拭うように真っ赤に染まった己の手を雪乃の頬に伸ばし、撫でる。
「いきなさい…おまえ、だけは……」
雪乃を見つめるその顔はまるで兄のようで、夫のようだった。
吉平はそう囁き―――命尽きた。
雪乃の頬に触れている手がぽとりと物のように落ちていく。
雪乃は地面に投げ出されたその兄の手を見下ろした後、兄に視線を戻す。
兄の命はもう尽き、呼吸も止まり、首を支えられずダラリと仰ぐように頭が垂れる。
目を開けるその瞼はいつまで経っても閉じる事も瞬く事もなく、開けられているその口からは血が滴り落ちていた。
微かに呼吸の際動いていた胸元ももうピクリともしない。
雪乃は動揺したように視線を泳がせ吉平の身体を抱きしめた。
まだ体温があり、吉平の体温は雪乃の肌を伝って移る。
まだ体が暖かいのに吉平は死んでいるのだ。
先程まで生きていたのに、吉平の心臓はもう動かない。
雪乃は瞬きも忘れ目を見開き溢れる涙が頬を伝う。
「ねえ…やめて…悪い冗談でしょ……揶揄ってるのよね…私を揶揄って遊んでるのよね……ねえ…ねえ…そんなの…面白くないわ…ねえ…ねえってば…ねえ……お願いだから…何か言ってよ……」
死んだのだ。
あの、兄が。
それは頭で理解できたが、感情がそれを拒む。
ずっと殺してやりたいと思っていた。
雪乃の人生を滅茶苦茶にして、母から全て奪って、自分は楽になるなんて雪乃は許せなかった。
雪乃が何度も呼びかけても雪乃の声に吉平が答える事は一度もなかった。
寒さからか、それとも死んだからか、抱きしめる兄の身体が少しずつ冷たくなっていくのを感じ雪乃は動揺が隠せなかった。
「お願いだから…死なないで……まだ私除隊してないのよ…満期だってまだ残ってるのよ……まだ取り引きは続いているのに……私に散々酷いことをしてきたくせに…なんで置いていくの…置いていかないでよ…置いていかないで……お願い、だから……ねえ、お母様にはもうお兄様しかいないんだから…お母様をこれ以上悲しませないでよ…ねえ…ねえ…何か言って…お願いだから…お願い…そんなの、ないわ…そんなのって…ないわよ…そんな…勝ち逃げなんて…卑怯よ…卑怯すぎるわ…」
感情を表すように吉平を抱きしめる力が強くなっていく。
まだ満期になっておらず取り引きは続いている。
なのに吉平は逃げる様に死んだ。
雪乃を穢しておいて、雪乃の腹に子を宿らせておいて、吉平は逃げたのだ。
あれほど子供が欲しいと言っておきながら結局は最後まで面倒が見切れないのだ。
「結局…私は…なんのためにここにいるの…」
雪乃の呟きに答える者は誰もいなかった。
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