(19 / 27) 軍人時代 (19)

千景は病院内の廊下を歩いていた。
手にはカルテが握られており、それに目を落としながら考え事をしていると…


「森田軍医中尉殿」


呼び止められてしまい、千景は立ち止まる。
声は後ろからかけられたため振り返ればそこには一人の男と目と目が合った。
初見の男に呼び止められ千景は隠すことなく『誰だ』と首を傾げる。


「えっと…」

「杉元一等卒の容態をお聞きしたいのですが」


一応軍医中尉という階級である以上知らない奴に話しかけられる事はなくはない。
ただ病人でも怪我人でもなく、千景の患者でもない男に呼び止められ不思議に思った。
『何かな』と問う前に出た相手の言葉に千景は全てを察した。
一応上流階級の出ではあるが、不躾にその男を千景はつい思わず指さしてしまう。


「ああ、君が浮気相手君?」


男は表情こそ変わらなかったが、『浮気相手』という言葉に不快そうな視線を千景に向けた。
その視線を気づかないふりをしながら千景はジロジロと男を見る。
男は可愛いさなど程遠いのにどこか猫のような印象を抱かせる。
目に感情はなく、何を考えているのか分からない気味悪さがあった。
だが千景は否定も肯定もしない男に『なるほどねえ』と顎を撫でる。


「心配して見舞いに来たって事かぁ…いやあ、浮気相手君って意外とマメなんだねえ」

「…友人としてですよ…面会謝絶でしたので直接森田軍医中尉殿にお聞きしようかと思いお声をおかけしたのです…それで杉元一等卒の容態は…」

「うん、言えないね…―――って言いたいけどそれじゃ納得してくれないだろう?別に機密ってわけじゃないし……言っておくけど"違う"からね」

「………」


相手はあくまで『友人』として見舞いに来たと言い張る。
まあそこは千景も興味はないのでどうでもいいが、男が容態を聞きに来たのは本当だろう。
ただし―――『雪乃は妊娠しているのかしていないのか、どっちだ』と聞きに来たというのが正解だろう。
千景が吉平と友人関係であり、雪乃の主治医のようなものだと周囲にはすでに認識されているので、浮気相手の男も千景は全て知っているのだと判断したのだろう。
千景の言葉に男は初めて感情を瞳に浮かべた。
ピクリと眉が一瞬動き、千景を見る目は疑っていた。
吉平の友人という事で吉平の味方だと思われているのだろう。
だが千景は確かに友人の肩を持つものの、吉平が生きていた時から殆ど中立であるのだ。
本音を言えば興味なし…である。
千景はカルテを捲りながらまだ疑っている男に診断を述べる。


「確かに嘔吐したって聞けばそう思っても仕方ないけどね…でも、杉元一等卒はただの"食中毒"だから…彼の中には何も無いよ」

「…あいつは食欲がないと言っていましたが?」

「残念だけど水だけでも食中毒は起きるんだよね…それに彼が食欲がなくて食べてない理由は一つじゃないだろう?」

「………」


そうは言ってもやはり相手は納得しないだろう。
そう思い『見る?』と言ってカルテを差し出す。
カルテにはドイツ語で書かれているので相手が読めなければ何が書かれているのか分からないし、読めたとしてもカルテには建前の食中毒と書いてあるので見せても意味はないが。
しかし男は差し出されたカルテをじっと見つめた後手に取る事もなく千景へ視線を戻す。


「面会は可能ですか」


男の問いに千景は首を振る。
重体と言う訳ではない。
だが、雪乃は上から面会謝絶を命じられている。
千景のお陰で見張りはついていないが、医師である千景以外がその病室に入る事は禁じられている。
その理由をこの男も理解しているのか『そうですか』とだけ呟き、もう用はないと敬礼をした後背を向けようとした。
千景も名も知らぬ男になぞ興味もなく見送る気もなかったのでとっとと去ろうと思った。
しかし、そこでふと千景は疑問に思う。


「なあ…君はさ、もしも"そうだった"場合、どうしてた?」


千景の問いに背を向けかけた男は千景へ向き直す。
暫く黙り込んだ後男は『どうとは』と返した。


「あれがそうであった場合、どちらかが原因だろう?吉平は考えていたようだが…君、ただ単にちょっかいかけてただけだろ?もしもそうだった場合どうしてた?」


ここは病院の廊下でどこで誰が聞き耳を立てているかは分からない。
その中で気づかれないように話すのは少々骨が折れる。
千景はただ単に興味があって聞いた。
もしも子供が出来た場合、それも己の血を引いた場合、この男は子供や雪乃をどうしていたのか…と。
吉平は母子共に引き取る気でいた。
その子供が浮気相手の血を引いていても、だ。
死ぬ直前までその手続きもしていたのだ。
この男は知らないが雪乃の腹の中には吉平かこの目の前の男かのどちらかの血を引いた子供が宿っている。
子供を産むと決めた雪乃は母となるのを選んだのだ。
とは言え雪乃は恐らく産んだ後里子に出すつもりなのだろう。
吉平であろうと目の前の男であろうと雪乃はどちらも愛していない。
愛していない子供を育てるほど雪乃はどちらにも、そして子供にも、情はない。
それに妹の仕事を見ていて千景は思う。
別に実の親だからと育てる義務はない、と。
子供は親がなければ生を受ける事はないが、だが、親がいなければ育たないというわけではない。
愛情があろうとなかろうと、衣食住を与えてくれる人間さえいれば子供は勝手に成長するのだ。
血が繋がろうとなんだろうと必ず子供は親が必要なわけではないのだ。
だから雪乃が子供を里子に出すとしても千景は批難も責めもしない。
それもまた選択肢の一つなのだ。


「それをお答えしたとして…森田軍医中尉殿に関係がおありなのでしょうか」


男は千景の問いに静かに答えた。
男は千景の言葉を冷たく突き放した。
千景は棘のある言葉に何も感じず肩をすくめてみせる。


「別に関係はないね…興味本位で聞いただけだったし」


『時間を取らせて悪かったね』と言って男に背を向け千景は去っていく。
千景は内心クツクツと笑いをこらえていた。
男に背を向けたのだから男もそのまま去るだろうと思った。
だが、男は去る事はなかった。
男の視線が背中に刺さるのを感じながら千景は愉快だと笑った。

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