やっと雪乃は軍から離れる事が出来た。
結局最後まで尾形とは会う事はなかった。
そんな身寄りのなく行く当てもない雪乃は現在、荷物を持ってある一軒の家の前に立っていた。
「何してんだ?入るぞ」
突っ立っている雪乃に気付き門扉に手を掛けていた男、千景は振り返り声をかける。
その声にはっとさせた雪乃は慌てて千景の後に続き家に入る。
「おーい!チヨー!兄ちゃんが帰ったぞー!」
雪乃は呑気な千景の声を聞きながらキョロキョロと興味深く辺りを見渡した。
その家は広い土地を所有しており、庭も手入れされているのか立派だった。
玄関に辿りつき千景は勝手に玄関を開けて入る。
兄だから勝手知ったる何とやらだろう。
勝手に入っていいのだろうか、と靴を脱ぐのを悩んでいると誰かが歩いてこちらに向かってきているのが見えた。
そちらへ目をやれば眼鏡をかけた女子学生が現れた
「兄ちゃん、早かったんだね…もっと遅いと思って出迎えれなかったよ」
『ごめんね』と兄の帰宅に嬉しそうにする少女に千景は『んな事気にすんな』と少女の頭を撫でた。
「春子、姉ちゃんいるか?」
「姉ちゃんは今買い出しに行ってるよ」
どうやらこの少女がチヨではないらしく、春子と呼ばれた女子学生は千景の問いに答えながら雪乃に気付き視線を向ける。
だが、顔に大きな傷を残す軍人にビクリと肩を揺らして驚き、その様子に気付いた千景は雪乃を見て『ああ』と思いだしたように声を零した。
「怖がらなくていい…こいつが言ってたやつだ」
「え…でも…妊婦さん…」
「こう見えてこいつ女だからな」
「え……え?…で、でも…軍服…」
「こいつ男装して軍人やってたから」
「え……ええええ!?」
軍を出てそのままこちらにやって来たので雪乃はまだ軍服を着たままだった。
肩には銃もあり、軍人の訪問に春子は驚いていた。
だが更に驚いたのが、どこからどう見てもイケメンな軍人さんが女だということだ。
つい女性の証拠である胸を見るも、雪乃は胸をサラシで潰していたため胸はない。
豊満を真っ平らにする事は出来ないためちょっと男にしては胸がある、の、かな?程度しかない。
驚きの声を上げる春子に雪乃は苦笑いを浮かべ、千景は悪戯が成功した悪い笑みを浮かべていた。
春子は言葉に出来ない驚きで思わず雪乃を指さしていた。
「え、ええ!?お、女の人!?えっ!?待って!どうやって軍に入ったの!?」
漫画ならば眼鏡は反射していただろう。
驚きが隠せないでいると、雪乃の後ろにある玄関が開く音がした。
振り返れば着物を着た女性が買い物袋を手に立っていた。
「あら、兄さん来ていたのですね」
「ああ、今な…丁度いい、チヨ、こいつが例の妊婦な」
チヨと呼ばれた女性は玄関にいる兄に気付き、兄が指さす方へ目をやれば軍服を着た男が立っていた。
説明がなければ兄の友人かと問いていたが、兄の言葉に微かに目を丸くしたがすぐに微笑みを浮かべる。
春子とは違い、どうやらチヨは兄の度胸を継いだらしい。
「はじめまして杉元水城さんですね」
「はい、お世話になります杉元水城と申します…ご迷惑をおかけしますがどうぞよろしくお願いします」
「ええ、お世話します森田チヨと申します…ここで立ち話も何ですから中に入りましょう」
頭を下げる雪乃に驚きもなく、買い物袋を妹の春子に渡し雪乃に上がるよう言って話が出来る部屋まで案内してくれた。
少し奥にある一室は中庭に面しており障子を開ければ整理されている中庭が楽しめた。
しかし今の雪乃に景色を楽しむ暇はなく、お茶を目の前に運んでくれた春子に頭を下げる。
「さて…軽くですが兄から話は聞いてます…父親が分からない子供を産むとのことですが…本当によろしいのですか?」
事前に千景から重要な部分だけの事情を聞いていたチヨは確認のため問う。
その問いに雪乃は頷く事も首を振る事もできなかった。
雪乃はそっと腹に手を当て無感情に答える。
「分かりません…」
「分からない?」
分からないと言う雪乃にチヨも春子も首を傾げお互い顔を見合わせた。
兄からは雪乃は『産む』と言ったと聞いてたからだ。
「分かりません…愛してはいないんです…情すらないんです……一度は殺そうとしました…戦場で怪我を負えば子供は死ぬと思いました…子供が死んでくれるなら私も巻き添えで死んだって構わないと思いました…でも…この腹には子供がいる…どうしてでしょう…なぜこの子供は死ななかったのでしょうか……子供だけ死んだら兄の子なんです…私も死んだら尾形の子なんです…じゃあ、この子は誰の子なのでしょう……この子は…誰の子で…なぜこの腹にいるのか…分からないんです…分からないから…どう、対処したらいいのか…分からないんです…」
腹に手を当ててもまだ腹は大きくはない。
服さえ着てしまえば妊娠しているなんて気づかない。
だから雪乃はまだ自覚がないのかもしれない。
しかしそれ以上に腹の子が分からなくなってきていた。
雪乃は腹の子だけ死ねば吉平の子、母子共に死ねば尾形の子だと決めていた。
だけど子供どころか母子共に戦争に生き残ってしまったのだ。
ならこの生き残った子は何なのだろうかと思った。
生き残った子はどちらの血を継いでいるのか、それともどちらでもなく全く別の誰かの血を引いているのか。
雪乃は分からなくなっていた。
勿論雪乃は吉平と尾形以外に体を許してはいない。
菊之丞や暴漢たちの子だとしても仕込まれた時期が当てはまらない。
なら誰の子なのだろうかと考えた。
そもそもこの腹にいるのは本当に人間なのだろうか。
しかしどんなに考えても誰の子か、誰の血を継いでいるのか答えは出なかった。
春子はそんな雪乃に顔を引きつらせ兄を見た。
兄は雪乃の背中に手をやり優しく撫でており、春子が感じた恐ろしさは一切見られなかった。
次に姉を見る。
姉は目を丸くして腹を撫でる雪乃を見つめていたが、ふと笑みを浮かべ立ち上がって雪乃の傍に座る。
そして腹を撫でる手に己の手を重ねる様に触れた。
その手に雪乃は顔を上げ小首をかしげる。
「そう、分からないのね…なら考えるといいわ…ここには貴女のように分からない人達が沢山いるから…ただね、中絶はただ子供を堕ろすだけじゃないの…出産も中絶も母体に負担がかかるの…そのためもしも中絶すると決めたのなら早めに決めた方がいいの…だから最初に聞いたのよ」
「どれくらいまででしょうか…」
「中絶は初期、中期、後期と分かれててね…初期は11週目まで、中期は12週目〜21週目まで、後期は22週以降よ…体に負担が少ないのは初期ね…でも私は中絶に反対はしないのだけど後期中絶だけはしないから、それは覚えておいてね」
「なぜ?」
「後期中絶は母体に危険だからなの…後期中絶の場合今の技術では母子に負担を掛け過ぎて下手をすると死んでしまうから…私は貴女達を救いたいの…死なせたいからこんな仕事をしているわけではないわ」
「………」
チヨはどんな道を選んだ妊婦にも決して頭ごなしに否定はしない。
勿論産むと言われると嬉しい。
こんな仕事をしていても命を軽視しているわけではないのだ。
ただ中絶も彼女達にとって大切な選択肢の一つなのだ。
雪乃はチヨの言葉に深く頷いた。
死ぬのは怖くはない。
死と隣り合わせの生活を数年も続けていたのだから出産で死ぬ事はそれほど恐怖はなかった。
まだ雪乃は死んだのなら死んだでいいと思っているのもあった。
それに、母子共に死んだのなら、それは尾形の血を引いているということなのだから。
「これだけは覚えておいて…貴女がもし堕ろしたとしても誰も貴女を責める事はできないわ…この家にいる私達だけは貴女の味方よ…ここを出て行っても、ね」
重ねていた雪乃の手を取ってチヨはぎゅっと握りしめる。
それは意識が不安定の雪乃を呼び戻そうとしているようだった。
虚ろだった雪乃の目がその言葉、その手で少しだけ光が灯った気がした。
◇◇◇◇◇◇◇
チヨは春子に部屋に案内する前に風呂に入れるよう伝え、兄と二人きりになる。
「どう?やばかっただろう?」
二人の気配や足音が消えたのを確認し千景が妹に声を掛ける。
その顔はニヤついていてとても友人の妹を心配しているようには見えなかった。
どちらかと言えば楽しんでいるように見え、チヨは眉を顰めることなく頷く。
「私も色々な方を見てきましたがここまで壊れている方は初めてです…一体何があったのです?」
腹の子の父親候補が二人いるのは聞いているが、詳しくは聞いていない。
聞く必要がないと思ったからではなく、兄が話したがらないのだ。
千景の趣味をチヨも春子も知っている。
童貞を死体で済ませたと聞いた時はドン引きしたし、今だに生身の女を抱いたことがないというのもドン引きである。
いい歳なんだからいい加減生身の女を抱いとけよと思ったりはするが言うのも面倒臭いほどこの兄の性癖をチヨも春子も受け入れている。
そんな兄が話したがらないのならよほどの事だろうと聞かないでおいたが、本人と話してチヨは初めて事情持ちの妊婦に気味の悪さを感じた。
妹の問いに千景はニヤついた顔を真顔に変えた。
「お前らにはあまり話したくねえな…」
「いいえ、話してください…あれは異常すぎます」
今でも雪乃の姿は思い出せる。
腹に手を当てる雪乃の声はとても淡々としていた。
悲しくも聞こえるが、しかし感情はない。
憎しみさえないただただ無関心だけ。
子供に無関心な母親は多くいるが、多くの母親は少なくとも子供に対して憎しみは持っていた。
だが雪乃はその憎しみすら感じられず、本当に無関心だった。
お腹にいる子供が何者なのかさえ分からなくなっているのだ。
それを異常と言わず何というのか。
逃がさないという目で見つめる妹に千景は頭を掻く。
千景は特殊思考の趣味を持つが、それ以外はいい兄なのだ。
こんな仕事していても妹達には男がしでかした馬鹿な話は聞いてほしくなかった。
特に妹は吉平に対して親しみを持っていたから。
しかし可愛い妹のお願いに勝てる兄もいない。
千景は渋々全てを話した。
その話しにやはりチヨは絶句する。
「…そんな…まさか吉平さんがそんな事を…」
「まああいつ外面はいいからな…お前らも知らなかっただろ…あいつ、俺以上の変態だぞ」
吉平はチヨも知っている。
あの兄と親しくしてくれる出来た人間、というのがついさっきまでの印象だった。
だが話しを聞いてしまえば結局兄と同類だったから兄と付き合えたのだと理解した。
正直死体しか愛せない兄の方がマシに感じる。
普通に尊敬できる男性だと慕っていた分そのショックは大きい。
「…あの方の事情は分かりました……これは長期戦になるかもしれませんね…」
厄介な相手、などは思っていない。
ただ癒えるのに時間がかかるとは思った。
千景も同じことを思ったのか妹の言葉に『そうだな』と答えた。
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