(23 / 27) 軍人時代 (23)

雪乃はあれから数か月、チヨと春子に世話になりながらなんとか生活していた。
坊主だった頭は少しずつ伸びていき短髪程度だったのだが、今ではカツラを被るのをやめるほど伸びていた。
すでに腹も21週目に突入しようとしており、ちょっとぽっこりだった腹が盛り上がったような形になっている。
雪乃は縁側で日向ぼっこをしながら大きくなる腹を見て『なんだやっぱり何か入ってたんだ』とやっと腹に何かがいる事を実感が沸いてきていた。


「水城さん」


お腹に手を当てながら柱に肩と頭を預けるように寄り添いながらぼうっとしていると声をかけられた。
そちらに目をやればチヨがおり、雪乃は体を起こそうとしたがそれをチヨが止めた。
その姿勢が楽ならばそのままでいいと言うチヨの言葉に甘え雪乃は顔だけをチヨに向ける。
そんな雪乃にチヨは隣に座り庭を見た。
チヨの視線に釣られるように雪乃も庭を見ると暫く二人の間に会話は途切れる。
チチチと小鳥の声だけが落ちる中、穏やかな時間を二人で過ごした。


「決心はつきましたか?」


チヨが視線を庭に向けたまま問う。
雪乃のお腹はもう21週目を迎える。
ずっと結論が出るまで待っていたチヨだったが、中絶するのならもう決めて早めに出さなければ中絶できなくなる。
後期中絶はしないと決めているのでそれ以上育ってやはり中絶をしたいと言ってもチヨには出来ないのだ。
雪乃も庭を見つめたまま暫く黙り込んだがコクリと頷いた。


「産みます」


そう呟く雪乃にチヨはただ『そうですか』とだけ答える。
雪乃は庭から腹に視線を移し、ぽっこりと出ている腹を撫でる。
するとそれに答える様に中から小さな衝撃を感じた。


「時々…蹴るんです…」

「ええ、そうね…元気な証拠よ…」

「それが気持ち悪かったんです…兄の子でもなく尾形の子でもないソレがまるで私に存在を認めさせようとしているようで………人間かも分からないくせに…気持ち悪くて…」


雪乃の言葉をチヨは黙って聞いていた。
雪乃は少し変化が起こった。
腹にいる子を認識し始めているのだ。
まだ父親がどちらなのか分からず、まだ人間ではないと思い込んではいるが、大きくなる腹に雪乃は現実から目を逸らすのを少しやめた。
そうなると雪乃の景色が変化した。
この腹に気配を感じるようになったし、大きくなるに連れて中の物が腹を蹴ってくる。
まるで気づいてと、認めてよ、とソレが訴えるようだった。


「でも……無視をしても…存在を認めていなくても…何度も何度も蹴ってくるそれが…なんだか……」


雪乃はその先の言葉が言えなかった。
言ってはダメな気がした。
言ったら、認めたら、他の妊婦と同じだと思った。
雪乃は他の妊婦とはあまり関わらないようにしている。
中絶を決めた妊婦も、出産を決めた妊婦も、なんだか自分とは違う生き物のように思えた。
彼女達はどんな感情であれ、子供に対する想いを持っている。
だが雪乃にはそれがない。
ないと、思い込みたかったのだ。
認めてしまえばこの腹の子を自分の子供だと認める事になるから。
父親が吉平だと認めてしまうから。


「何度か…赤ん坊を抱いてここから出ていく母親を見た事があるんです…里親が赤ん坊を迎えて抱いて帰っていくのも見た事があるんです……彼女達は笑っていたんです…とても幸せそうに……とても幸福そうに…なぜ一度は捨てたモノを抱いて笑顔でいられるのか…分からないんです…」


この家には様々な思いを抱える妊婦が多くいた。
しかしこの家は妊婦の駆け込み寺のような役割もあり、決して中絶を前提に駆けこんでくる妊婦ばかりではない。
勘当された娘、駆け落ちしたがお金がない夫婦、お腹の子の父親からのDVから逃げた女性、そして決してお天道様の下を歩けないような人達もこの家を頼って訪れる。
だから子供を堕ろして手ぶらで帰っていく者もいるし、赤子を抱いて帰っていく者もいる。
里親もチヨと春子が探しているため、貰いに来る人達も出入りしていた。
その姿を雪乃は時々見かけることがあった。
勿論、中絶して笑顔で帰っていく人もいれば、中絶し責任や罪悪感に暗い顔のまま帰っていく人もいる。
その中でも雪乃が印象に残っているのは、赤ん坊を抱いて帰っていく人達だった。
時々中絶を選んでも結局産んで己の手で育てる選択をする人がおり、それがとても不思議だった。
あれほど産みたくないと思って中絶を選んだのになぜ生み落とした挙句育てるのか。
どうしてそんな笑顔でいられるのか。
雪乃には彼女達が別の生き物に見えた。


「私はこの仕事を祖母から受け継いで沢山の妊婦を見てきたわ…母親になるためにここを訪れる人もいれば、女に戻る人もいる…そんな人達を沢山見てきたの…でもね、そんな私でも不思議に思う事があるの……私もなぜ中絶を選んだのに産み育てる事を選ぶのか…ずっと疑問に思っていたの…」


チヨの仕事は祖母が始めたものだった。
母達はそんな祖母を偽善者だなんだと嫌っていたが、チヨはそんな祖母が輝いて見えた。
チヨもこの仕事を受け継いだ時実家から勘当されてしまったが、別に後悔はしていない。
春子もチヨの仕事を手伝ってから家の者に毛嫌いされ、もう家に寄りつかなくなっている。
そんなチヨ達を支え援助してくれるのが千景や、チヨ達の考えに賛同してくれる人達だ。
チヨはお嬢様だった頃は知らなかった現実を知ってしまったのだ。
チヨも祖母のように妊婦の手助けをしたくて反対を押し切ってこの仕事を続けている。
望まず妊娠した女性の多くは中絶を決める。
だが、その中で不思議と中絶を決めても気持ちが変わって産み育てる選択をする女性がいるのだ。
彼女達は来るときは暗い顔をしていたのに、赤子を抱いて帰る時には愛し気に赤子を見て笑っているのだ。
それがチヨも不思議に思い、そして嬉しかった。


「でもね…その人達のほとんどは貴女のように笑顔で赤ちゃんを抱いて帰っていく人を見て産みたいと思うみたいなの…『あの人達はなんて幸せそうなんだろう…私もこの子を産めばあの人達のようになれるのかしら』ってね」

「………」


雪乃はチヨの言葉に何も言えなかった。
当たっていたのだ。
雪乃も笑顔で赤子を抱いて帰っていく女性の姿を見てまず興味を持った。
そして次第にそれが『産みたい』と思うようになっていったのだ。
もしかしたらこの腹にいるのは人間で、尾形の子供かもしれないと思うようになったのだ。
無関心だった腹に、憎くも思ったこの腹に…雪乃は初めて情を持った。
最初こそ戸惑ったが、それが不思議ととても居心地がいいのだ。


「産むことを決めたのはいい事だわ…せっかく女性に生まれたんだもの…出産の経験をしてみるのも大切な事だわ…子供を産んだ後は育てなきゃいけないと思わなくていいの…こう言っては可哀想だけど子供はね親がいなくても育つものよ…貴女がいなければ死んでしまうほど子供は軟じゃないわ」


子供を産みたいと思うようになったのはいい兆候だとチヨは思う。
出産を経験してみるのも雪乃にとっていい事だろう。
産んだのだから育てろとは言わない。
人権うんぬんやら常識うんぬんやらと喚くのなら、他人だが愛情がある人間と、血が繋がっているが全く愛情がない人間のどちらがいい親になれるのか教えてほしいものだ。
養子縁組や里親などの制度があるのだから、産むが育てるほどの愛情がないのなら子供が欲しい人達に任せればいい。
むしろ実の親だからと嫌々育てて虐待されるよりは血の繋がりがなくても愛してくれる親の方が子供にとっては幸せではないのか。
血の繋がりが子供にとって大切な事ではなく、そこに愛情があるかないかが子供にとって重要ではないのか。
チヨはこんな仕事だから謂れのない事や批難を何度も浴びたことがあり、その度にそう思う。


「………」


それまで雪乃は表情なく腹を撫でていたが、チヨの言葉に腹を撫でるその表情はとても穏やかに変わっていた。

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