「死んだのか?」
熊が完全に動かなくなって暫く水城は熊には近づかなかった。
あれほどの強大な力を水城に示した熊がそう簡単に死ぬなんて信じられなかったのだ。
露西亜兵だって遭遇してすぐに『死ぬかも』と思った事はなかった。
「逆立っていた体毛がねている…死んだ」
水城の恐る恐るの問いにアイヌの少女は頷いた。
それに安堵していたが、改めて見て水城は何てモノと対峙し得物の取り合いをしていたんだと気づく。
その巨体と人の指ほどもある爪や鋭い牙で襲い掛かられればいくら不死身でも死んでしまっていただろう。
するとアイヌの少女は小刀を取り出し、刺さった矢を周りの肉ごと取り出し始めた。
それを不思議に思い問いかけると、矢には様々な毒を混ぜているためこうして矢の周りの肉も一緒に削ぐ事で肉や毛を安全に使用できるのだとか。
「その男死んでるのか?」
自分よりも幼いのにやはりアイヌだからか狩りには慣れてるんだなぁと感心していると、アイヌの少女は水城の傍にいる男の死体に気付く。
アイヌの問いに水城は頷いて返す。
「ああ、ハラワタ全部食われて埋められてた…その母熊にやられたんだ」
「…母熊?」
水城は今男装しており、普段は女言葉は避けて話すようにしている。
どうやらこの顔の傷と軍服のお陰で多少声が高くても、声が高い男と誤魔化せるらしく誰も水城を女だと気づいていない。
アイヌの少女も水城が男だと言う疑問さえ持たず、水城の言葉に首を傾げた。
だから水城は襲われる前に小熊が木に登っていた事や、その時下の穴から母熊が飛び出した事を伝えた。
すると水城の説明にアイヌの少女は首を傾げたまま怪訝そうな表情を浮かべ『それは変だ』と呟いた。
「冬ごもりの穴から出たばかりの熊は何も食べない…胃が縮んでいるからすぐに食えない」
そう言いながらアイヌの少女は熊を仰向けにし腹を裂く。
アイヌの少女曰く。冬ごもりの穴から出た熊は子供を守るために襲ったとしても胃が縮んでいるため肉までは食べないのだとか。
「ほら、やっぱり胃がからっぽだ」
「じゃあ、オッサンを喰ったのは別の熊か…」
ほら、と言い裂いた中からアイヌの少女は熊の胃を水城に見せる。
水城が覗き込めば確かにどう見ても人間の腸を食べたにしては縮んでいた。
母熊が襲う前に見た小熊も、水城がいたからではなく、遊んでいたからでもなく、母熊が別の熊が近づいているのに気づき小熊を避難させたらしい。
「まずい事になったぞ、お前」
「なんで?」
「この時期に肉が食えるのはマタカリプだ…
冬徘徊するもの……冬ごもりしそこなって気が荒くなっている危険な熊だ」
まだ熊はいるらしい。
それもアイヌでさえ危険だと言うほどの熊が。
「お前その男の死骸をどうするつもりだ?」
アイヌの少女の問いに水城はどう対処すべきか考えていたが、目を逸らす。
この男の入れている入れ墨に気付かれやしないかと不安だった。
水城がポショポショ声で『近くの村まで運ぶ』という言葉にアイヌの少女は即効、首を振った。
「それはやめておけ…その男はマタカリプの食いかけだ…熊は一度手に入れた得物にはすごく執着する」
熊は餌に執着し、この男を村に連れて行くのなら、必然的にその熊も連れて行った村まで追いかけてしまうらしい。
と、いうことはそうなれば水城はその凶暴な熊を人が住む村までの案内人となるだろう。
『置いていけ』というアイヌの少女に水城は先ほどのアイヌの少女と同じく考えるまでもなく首を振った。
「それは出来ん!この遺体は絶対にここには置いていけない!」
水城はやっと手がかりを得たのだ。
息子と一緒に過ごす時間さえ削って探して、探して、探し回った砂金の手がかりが、今、目の前に、いる。
大切な幼馴染との約束の為、大切な幼馴染の為に、水城は何としてもその金塊を見つけなければならない。
この男は暗闇しかなかった先を照らしてくれたのだ。
男は死んでもいい。
どうせ会って話すだけで名前もどこに住んでいるのかも何をしているかも分からない男だ。
だが男の皮だけは諦めるわけにはいかない。
全ては幼馴染の為…そして、我慢させ続けている息子の為だ。
喰い気味に断る水城にアイヌの少女は首を傾げた。
「その男はお前の家族か?友人か?そんなに大事な人間なのか?」
「あー…いや…そういうわけでは…」
歯切れの悪さに疑問はあったが、食い下がる水城にアイヌの少女は説得を諦め一つ提案をする。
「じゃあお前がマタカリプを撃てばいい…兵士なら戦え」
その言葉に水城は戦ったのは露西亜兵という『人』で化け物みたいな熊ではない…そう思うが、口にはしなかった。
アイヌの少女は何も言わない水城をよそに空を見上げる。
空はもうすっかり夕方に代わり、次第に暗くなるだろう。
「もうすぐ真っ暗になる…今夜は月が出ないから自分の手も見えなくなる…でもヒグマからはこちらが見えてるぞ」
そう言われ水城はやっと時間が経っている事に気付いた。
『塾、どうしよう』とも思ったが、緊急事態の上、やっと手に入った手掛かりだ…働いている場合ではない。
どうやら熊は夜目が利くらしく、人間からは見えないが、熊からは人間の姿は見えるらしい。
「熊の夜討ちは危険すぎる…覚悟がないなら早く立ち去った方がいい…―――弱い奴は食われる」
その言葉に水城は心がスッと静かになるのを感じた。
そして、転がしていた男の死体に手を伸ばし、男の背中の服を捲る。
「面白い話があるんだ」
そう言って水城が見せる男の背中に、アイヌの少女は目を丸くした。
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