水城は溜息を吐く。
胸元から『ブブブ』と声が聞こえ、そちらに目をやればクリクリとした目がこちらを見上げていた。
その愛らしい瞳に水城はふと笑みを浮かべる。
「お母さん、殺してごめんな?」
胸元には子熊がいた。
寒くないようにと上着の中に入れて顔だけ出した子熊が水城を見上げていた。
子熊の額当たりを指で撫でてやると子熊は気持ちよさそうに目を細める。
その可愛らしい仕草に笑みがこぼれたが、ふと子熊から目線を逸らし水城は目の前の光景を見つめた。
そこには大きな熊がピクリとも動かず横たわっていた。
その熊は水城の胸元にいる子熊の母熊で、すでに息絶えている。
その傍には二人の軍人の男が転がっており、木の枝にも男が己の内臓と共に引っかかっていた。
三人の内、二人は熊が殺した者達だった。
1人は熊に顔の皮を剥がされた拍子に撃たれた銃によって死亡し、後は熊に殺された。
ただ、皮を剥がされた男が熊を仕留め、その後息を引き取った。
「一歩間違えれば私がこうなってたと思うと…ゾッとするわ…」
――水城はその日、アシリパと森を歩いていた。
狩りをしようとしていたのだ。
この熊が冬眠している巣穴を見つけ、危険を冒す狩りよりもと別の得物を狩ろうと移動していた時だった。
その変化にアシリパが気付いた。
何やらアシリパ達がつい先ほど出てきた小屋からチカチカと何やら光っているのを見つけ、水城はそれを『双眼鏡の反射』だと気づき慌てて逃げる。
相手は4人。
だがその4人との距離は縮まず、どうやら彼らはスキーを使用して追ってきているようだった。
だからこそ水城は逃げるのを諦め二手に別れた。
アシリパに入れ墨を預け、もしもの時はそれを渡して逃げる様に言って。
そうして別れて捕まった先がこの先ほどアシリパが言っていた冬ごもりしている熊の巣の前だった。
狩りをしていただけだと誤魔化したものの、以前野戦病院で自分を見つけた一人の軍人によって失敗に終わってしまい水城は仕方なく覚悟を決め熊の巣穴へ飛び込んだ。
それは賭けだった。
アシリパの『ヒグマは巣穴に入って来た人間は決して殺さない』という言葉を信じたのだ。
結果は目の前の光景で分かる通り、ヒグマは入って来た水城を殺さず、外にいる男達を殺した。
水城は倒れている木に座りながら男達の軍服を見る。
「やっぱり、軍が絡んでるか…厄介な事になったなぁ…」
軍服にはやはり尾形同様第七師団の印が刻まれており、水城は脳裏に鶴見と月島を思い浮かべ、面倒臭いなぁと溜息を吐く。
第七師団は優秀だ。
特に鶴見中尉とその配下達が。
出来る事なら関わりたくはないが、そう言ってられないのも確かだ。
未だ鶴見中尉という文字を見ているとゲシュタルト崩壊する水城は溜息を吐く。
面倒臭いなと、厄介だなと…だがそれだけではない。
「坊…泣いてないかな…」
ついに息子を迎えに行くことは出来なかった。
昨日天候が崩れてしまい一日アシリパの小屋で過ごした。
今日こそ帰らなければと思ったのにこのハプニングである。
これが鶴見の指示かどうかは分からないが、水城は心底鶴見を恨み、彼に八つ当たりをする。
「まあ、考えても仕方ないか…よし、アシリパさんと合流しよう」
4人いたはずなのにこの場には3人しかいない。
という事は残りの1人はアシリパの方を追ったのだろう。
アシリパならば上手く交わせるだろうし、別れるとき入れ墨を渡して逃げるよう伝えてあるので問題ないだろうと思いつつ、やはり心配だった。
速足にアシリパが逃げた方へ向かえば、暫くしてアシリパの姿が肉眼でも確認できる距離まで来た。
(あの狼…やっぱりアシリパさんに懐いているんだ…)
そこには雪にも負けない白い美しく強大な狼がいた。
アシリパに腹を見せ思いっきり撫でてもらっているその姿は飼い犬そのものだが、水城が近づくとその気配に気づいたのかすぐに立ち上がり立ち去ってしまう。
どうやらこちらを警戒しているのか近寄っても懐かない狼を水城は見送っていた。
するとブブブと服の中から聞こえ、水城はトントンと軽く叩く。
「しーっ…ごめんね、もうちょっと我慢しててね…アシリパさんに見つかったらチタタプにされちゃうから」
そう言えば理解したように子熊は黙ってくれた。
チタタプ、とは『
我々が 刻む もの』という意味を持っており、チタタプと言いながら叩き時々交代して叩く料理だ。
本来は生で食べるのだが、この間リスを獲った際アシリパは脳を恐々食べる水城に合わせつみれ汁にしてくれた。
昨日獲ったウサギもチタタプにして食べたため、この子熊も知られたら食べられると思ったのだろう。
子熊の様子を気を付けながら歩いているとふと雪の上に一人の男が倒れているのが見えた。
男は軍服を着ており、その番号からあの三人組の仲間だという事は分かった。
(あの顔…どこかで見た事あるような…)
水城は男の顔に既視感を覚えたが、思い出せなかった。
しかし何か引っ掛かりを覚えるという事は絶対にどこかで会っているということだろう。
思い出そうとしていた時…
「杉元それどうした?」
「へ?―――ッきゃああ!!」
アシリパに指さされ、水城は思わず女の悲鳴を上げた。
男に気を取られ過ぎたのか胸元に隠していた子熊が顔を覗かせているのに気づかなかった。
「これは…!何でもない!関係ない!!」
「すぅぎぃもぉとぉぉ〜その子熊どうするつもりだぁ?」
咄嗟に子熊を庇うように背を向けて屈み子熊を抱きしめる水城にアシリパが背中からぬっと顔を覗かせる。
水城はそれに言い訳をしようとしたその時、気のせいか幻影か、アシリパが唇を舐めた気がして水城は『ひい!』と小さく悲鳴を上げ、更に子熊を抱きしめる。
「こ、この子は私が面倒みるから…!私が母親代わりになるから!!!」
子供一人二人増えても同じだし!まだおチチ出るし!!と声には出さずそう言う水城にアシリパは顔に暗い影を落としながら目をかっ開いてこちらを見る。(水城視点)
「なるからって…子熊を育てた経験はあるのかぁ?そいつが何を食べるのか知っているのかぁ?」
そう言われて水城は返す言葉もなく『うぅ』と唸るしかなかった。
熊の事はアイヌの方が良く知っているし、許可を得たとしても人の住む場所で子熊を育てることはできないだろう。
水城は覚悟を決めた。
「…分かった…この子はアシリパさんだけで食べて……この子の脳ミソに塩かけて食べるとかチタタプにするとか…私には無理…」
「はあ?食べんぞ」
アイヌの料理はあまり知らないが、これまでチタタプにして食べたり、目玉や脳を食べさせられ…食べたりと、この子熊も食べるのならそうなると思った。
だが思ってもいない言葉に水城は目が点となる。
「…え?」
「私達は猟で子熊を捕まえたら村で大切に育てる風習がある…よし行こう!私の
村へ!」
水城は状況がつかめないまま、アシリパに手を引かれその場を後にした。
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