アシリパの様子に気付かないまま楽しく話をしていると、いつの間にか一人の女の子が歩み寄り水城に向かって指さした。
「シンナキサラ!」
「なんだい?」
その単語は聞き慣れておらず、首を傾げる。
アシリパ曰く、『シンナキサラ』とは『変な耳』という意味らしく、アシリパが見せてくれたがアイヌの耳たぶは丸くて厚いらしい。
成程と思いながら水城は自分の耳を触った後、『どれどれ〜』と女の子の耳をちょんちょんと触る。
女の子はくすぐったいのかキャッキャと笑いながら頭を振った。
それにつられて水城も笑みがこぼれる。
「やめろぉ変な耳〜」
「私は杉元っていうんだよ…お嬢ちゃんは?」
「私オソマ!」
「いやそれウンコでしょ!?」
名前を聞いたのに返って来たのは『ウンコ』だった。
水城はアイヌの言葉は分からないが、アシリパと出会って何個か覚えた単語はある。
『チタタプ』、美味しいという意味の『ヒンナ』、そしてウンコという意味の『オソマ』である。
アイヌは味噌の事を知らなかったようで、食事の際持っている味噌があればもっと美味しいのではないかと思い取り出して真っ先にアシリパに言われたのが、『オソマ』…ウンコである。
アシリパに水城はウンコを食うシサムと思われている。
そのため決してその単語は子供につける物ではない。
『馬鹿にしてんのか』と不貞腐れていると、アシリパは首を振った。
「馬鹿にはしていない…私達は赤ん坊に病魔が近寄らないよう汚い名前で呼ぶんだ」
その言葉に水城は納得した。
日本には昔幼い頃の名前と成人したらつけられる名前があり、そういう風習の民族は日本にもまだあるかもしれない。
因みにアシリパは『エカシオトンプイ』…祖父の尻の穴と呼ばれていたらしい。
それは確かに病魔も裸足で逃げ出すだろう。
(名前、か…)
名前と聞いてやはり思うのは息子の事。
ずっと生まれてから水城は息子に名前を付けず呼ばず育てていた。
ずっと坊、坊、と男の子という意味で呼んでいたし、千景達もあまり深くは触れずにいてくれた。
ただ息子は戸籍がまだない。
出生届は明治初期に規定として定められたが、水城は迷っていた。
届けたいのは山々だが、そもそも水城の戸籍は偽物だ。
水城はいずれ女に戻るつもりではあるが、今、息子の出生届を国に出せば女に戻った時に色々と問題が生じるだろう。
そして、もう一つ、名付けない理由はあった。
(名前を借りるのを許してくれるだろうか…)
付けたい名前はある。
あるが、付ける勇気がまだなかった。
自分は裏切ったも当然なのに、名前を借りたなんて知られたらと思うと怖かった。
ただ、付けるなら息子も好きになり誇らしく思える名前を付けたい。
そう思っているとアシリパが『出来たぞ、杉元!』と呼んだので水城は意識をそちらにやる。
どうやら考え込んでいる間に子熊の食事の準備が終わったらしく水城はあぐらをかいた上に乗せていた子熊をフチに渡した。
ビンに入れられたその液体を子熊はグビグビと元気よく飲んでおり、それはまるで哺乳瓶でミルクを与えているようだった。
それを水城は懐かしそうに見つめる。
(坊もチヨさん達にこうしてミルクをもらってたなぁ…)
名前のことは一先ず置いておき、水城が体調を崩した時に息子は哺乳瓶でミルクを貰っていた光景を思い出す。
未熟児だった息子は今では元気にハイハイができ、そろそろ歩く事も出来そうだ。
しかしこのままの生活を続けていれば初めて息子が歩くところを見るのは母親の水城ではなく近所の人になってしまうだろう。
息子の成長をその場で喜べないのは、少し…寂しく思う。
「よし、杉元!行くぞ!」
「へ?」
少し思いにふけっていたからかアシリパが何か話していた事にも水城は気づかなかった。
キョトンとする水城にアシリパは呆れたようにため息を吐く。
「なんだ聞いていなかったのか?昨日仕掛けてきた罠を見に行こうと言っていたんだ…大量にかかっていたら帰る時お前にも分けてやるってな」
「ああ、そうだったんだ…ごめん」
アシリパは水城が家を借りているのを知っているが息子がいるのは知らない。
だから泊まっていくとばかり思っているのだろう。
だが水城は迷っていた。
アイヌの人達といるのは心地よかった。
自由でゆったりな時間を過ごせていたし、アシリパもいる。
だがいつまでも息子を放っておくのも母としてどうなのだろうかとも思う。
いっその事アシリパに事情を説明して金塊探しの間このコタンに預けようかとも思ったが…普段アシリパに世話になりっぱなしなのにそんな無茶は言えなかった。
だから今日帰ると言おうか迷っており、今罠をしかけたと言う場所まで向かうため前を進むアシリパの後姿を見ながら水城はずっと考えていた。
今日は中々現実に留まる事のない日らしく、考え込んでいるとあっという間に案内が終わり水城は慌てて胸元に抱えている子熊が落ちないよう気を付けながらアシリパを手伝った。
昨日は川魚用の罠、『ラウォマプ』をしかけたらしく、引き出された罠を見てみると罠一杯に小さな魚が溢れんばかりに掛かっていた。
「すごい!沢山捕れてる!」
「『エゾハナカジカ』だ!こいつらは寝るときだけ岸に来るからラウォマプを岸の近くに沈めておいたんだ!」
ピチピチと跳ねるその魚はカジカといい、冷たい水が好きなのだという。
冬によく捕れ、冬のカジカは脂がのって美味しいのだとか。
「鍋にする分と杉元に明日別ける分はここで内臓を取ってしまうから杉元も手伝え」
「ああ…ってあれ……小刀も銃剣もアシリパさんの家に忘れてきたみたいだ…」
「なにィ!?カジカは捌かないと味が落ちる!!早く取りに行けバカ!!」
「ひどーいぃ!」
理不尽な怒り(アシリパにはもっともな怒り)に水城は剣や小刀を取りに村まで走った。
「っと…こっちの林を突っ切った方が早そう」
子熊が落ちないよう腹の部分に手をやり走る水城は近道のような場所を偶然発見した。
あまり遅くなるとアシリパに怒られるのでそこを通って村に戻ろうとしたその時…
「止まれ!そこを動くな!!」
突然の怒鳴り声に水城は思わず立ち止まった。
振り向けばそこには髭の生えたアイヌの男が立っていた。
険しい顔でこちらを見つめており、水城は脳裏に和人を良く思わないアイヌもいるという話を思い出し、つい顔を険しくしてしまう。
「なんか用か」
警戒をしているのを隠すことなく水城は低い声で問う。
相手もそれに怯えるわけでもなく、指を水城の足元に向かって指す。
「足元のヒモに触れるな!」
「…!」
水城は言われて足元のヒモに気付いた。
男曰く、これは『アマッポ』という仕掛け矢らしく、ヒモに触れると仕掛けている毒矢が飛んでくるらしい。
熊や鹿を仕留める物もあるが、今回のはカワウソ用の罠で即死はしないものの男のいとこがこの罠にかかり何日も苦しんだあげく最後は全身が倍に腫れて死んだという。
「だから、アイヌのコタンの近くにある森は不用意に歩かない方がいい」
「恐ろしいな…そうだったのか…助かったよありがとう…えっと…」
「私の名は"マカナックル"…アシリパは私の姉の娘だ」
相手から殺意があったわけではない。
あまり歓迎されていないという頭があるとつい警戒してしまう。
令嬢だった頃にはなかった癖で、これは軍人の頃についてしまったものだろう。
マカナックルと名乗った男はアシリパの叔父であり、そしてオソマの父親らしい。
水城はそれを聞いて『たしかにオソマちゃんによく似ている』と思い、更に『子供ってお父さん似になる事が多いのかな?』と自分の息子も父親似なのでそう思う。
「さっきはすまない…和人の私を敵視する人間がいると思っていたから…」
「アシリパから聞いたのだろう?私達の村の人間がシサムと戦うために砂金を集めていた事やそれを奪われてアシリパの父達が殺された事…」
申し訳なく謝る水城にマカナックルは首を振ってくれた。
アシリパの叔父ということもあって、頭の良いアシリパが懐くのだからとそれなりに和人には好意的でいてくれるようだ。
「犯人に心当たりは?」
「ない…ただワッカウシカムイ(水の神)の怒りだとみんな言っている」
金塊の事も知っているようだから犯人の事を聞こうとしてもやはりマカナックルも分からないと答える。
本当かどうかは分からないが、皆殺しにされたのは『神の怒り』だという人間も少なくともいるようだ。
アイヌは川では洗濯せず、排泄物も流さない。
そこまで大切にし汚さないように綺麗にしていた川で砂金を取るから神が怒り災いが起こったのだと。
そう信じている者もいるようだった。
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