水城は鶴見を撒いた後、人気のない場所に橇ごと馬を隠し、ある場所に向かった。
そこは市民の住む居住区が密集している場所で、最も貧しい地区であり、水城が住処にしている場所でもある。
向かった先は自宅のすぐ隣の家だった。
ノックをすると暫く静かだったが男が…坊を預けた女性の夫が顔を覗かせた。
「!――お前…その怪我…」
恐らく隙間から水城だと確認したのだろう。
ギロリと睨みながら顔を覗かせた女の夫だったが、水城の顔を見てぎょっとさせた。
どうやら確認は出来たが怪我までは分からなかったようである。
文句の一つでも言ってやろうと思ったのだろう…しかし水城の傷に文句も引っ込んだようだった。
「遅れてすみません…息子を迎えに来ました」
水城は静かにそう言った。
感情のない、しかし穏やかな声。
その何を考えているか分からない表情や、月光に照らされているその姿は幻想的ではあるが男からしたらぞっとするものだ。
「四日も音沙汰なしで迎えにも来なかった奴が何を今更…悪いが帰ってくれ」
「四日も迎えに来れなかったのは謝ります…夜に来てしまったのも謝ります…ですがどうか息子を返してください」
「じゃあ聞くが今まで何をしていた?当然仕事を探していたんだろうな?あ?それにその怪我はなんだ」
水城は男の言葉に何も言えなかった。
仕事を探していると言って二人に子供を預けていたのだが、実際は仕事ではなくアイヌと和気あいあいとしていた。
それは流石に水城も言えず、そしてこの傷の事も言えず、黙り込んでしまう。
黙り込む水城に男は眉間のしわを深めギロリと睨む。
「何かやばい事に巻き込まれてるんならもう関わらないでくれ…子供も俺達が育てる」
「!―――待ってください!!四日も連絡もせず預けたままなのは申し訳ないと思っています!事情も話せないのも!あなた方を巻き込むつもりはありません!もうあなた達の前には現れません!!ですが息子だけは!あの子だけは返してください!!」
「仕事もつかずどこで何をやっているかも怪我の理由さえも話せず四日も息子を放置するような奴に子供は育てられん!この子供は俺達が育てると決めたんだ!!この子を放棄したような輩が今更しゃしゃり出てくるんじゃねえ!!」
「お願いします!!あの子だけは返してください!!あの子がいなければ私は…っ!!」
縋る様に歩み寄る水城を男は突き飛ばして扉を閉めた。
尻もちをついた水城はすぐ立ち上がり夜というのも忘れ閉められた扉を叩く。
「お願いです!!返して!!あの子は私の息子なんです!!!私の息子を返してください!!!」
ドンドンと叩く音や叫ぶように声を上げる水城の声に近所の人も起きてきた。
ざわめきが聞こえているはずなのに家から男が出てくることはなかった。
ただ、幼児の泣き声が水城の耳に届く。
(坊…っ!!)
その声は息子の泣き声だと水城は気づく。
息子が泣いていると水城は焦りを積もらせる。
早く抱いてあげなければ、と。
早く抱きしめて慰めてあげなければ、と。
「坊!!待ってて!待っててね!今すぐ行くから!!―――ッお願いします!開けてください!!坊に会わせて!!坊を返して!!!」
もう男に扮しているとか言葉使いとか意識している余裕はない。
ただただ息子を返してもらいたい一心だった。
ドンドンと叩いていると家の中から男女の争う声が聞こえ、息子の泣き声も近づいてきているのに気付く。
するとガラリと扉が開けられ、水城の前には女性が立っていた。
「坊…っ!」
その女性の腕には息子がいたが、息子は口を大きく開けて泣いていた。
母に気付き息子は『かぁ』と泣きながら母を求めて手を差し出すが、女性は息子を水城に渡すでもなく水城の横を素通りし水城に振り返る。
「あなたの家でお話しましょう」
そう言って女性は水城の家に入っていき、水城は早く息子を抱きしめたいと思うばかりだったため何も怪しむことなく続く。
家にはいれば窓という窓全て閉められ、水城が入ったのを見て女性は外を覗くように見て誰もいないのを確認し扉を閉め鍵もかける。
「あの…」
全て締め切ったため暗いので女性は水城の家には蝋燭はないため家から持って来た蝋燭を備えついている蝋燭立てに乗せて火をつけた。
真っ暗だった部屋が薄暗いが先ほどより明るくなる。
戸惑うように声をかける水城に女性は息子を渡した。
母の腕に抱かれるとあれだけ泣き叫んでいた息子はピタリと泣き止んだ。
普段泣かないため疲れたのか『かぁ、かぁ』と弱弱しい声で母を呼び小さな手でぎゅっと母の服を握りしめる。
それが健気で、切なくて、辛かった。
「ごめんね…坊…ごめんね…」
色々息子に掛けたい言葉はあった。
だがこんなにも母を求め大泣きし、離れないと言わんばかりに母の服を力いっぱい握りしめる息子を見てしまうと謝罪しか言葉がでなかった。
拷問の時や戦争の時でさえ流さなかった涙をぽろぽろと流し水城は息子と自分の額をくっつけすり寄る。
乾いた血が涙でふやけ息子の頬に赤い雫が落ちたが、水城はそれよりも息子との再会を噛みしめていた。
「あなた、女性でしょう?」
「…!」
息子の頬に落ちた赤い雫を指で拭っていると女性が顔を近づかせ小声で囁いた。
その言葉に水城は目を丸くし弾かれたように女性を見た。
女性はその反応に『やっぱり』と笑った。
水城は何か言い訳をと思ったが、女性がそっと水城の手を触れ水城は口を閉ざす。
「いいの、話さなくて…何か訳ありなのでしょう?」
「どうして…いつ…気づいたんですか…」
女が男装しているというだけで何かあるのに、男装は男装でも軍人に扮しているというのは女性が思う以上の事情があるのだろうと思い理由は聞かないでおいた。
それを有り難く思いながらいつ気づいたのか聞くと、結構前から気づかれていたらしい。
「朝にね、私…坊ちゃんが来るのを待ちきれなくって迎えにいった事があるの…覗く気はなかったのよ?でもつい気になって窓から覗いた時…あなたが坊ちゃんにお乳を与えているのが見えたの…」
なるほどと水城は思う。
水城も気を付けてはいるが、全てを完璧にこなす事は無理だ。
だから覗かれることもあったかもしれない。
だが覗かれているのがこの女性でよかったと水城は思う。
口の軽い人だったらきっと今頃水城はもっと早くここを離れていただろう。
女性は覗いてしまった事を謝ったが、それを周りに言わなかったのだから謝る事ではないと水城は思う。
女性は大人しく抱かれる息子の頭を撫でる。
その目は正には母親だった。
その目を見ながら水城は『ああ、母とはこういう目をするべきなんだな』と他人事のように思う。
「うちの人がごめんなさいね」
「ぇ…い、いえ…私の方こそすみません…四日も預けたままでいて…迎えに行こうと思ってたのですが中々…」
アシリパやアイヌの人達が悪いわけではなく、言い出せなかった自分が…心底楽しく感じた自分が悪いのだ。
女性の夫の反応は普通だ。
四日も息子を放置する親が正しい親なわけがないのだ。
「私達夫婦は中々子供に恵まれなくて…だからあの人も焦っているのでしょうね…本当はね、あの人、子供が好きなの…坊ちゃんも可愛がってて…だからあんな酷いことを…ごめんなさい…」
水城は何も言えなかった。
四日も息子を放置する実の母親と、血の繋がりがなくてもこうして怒ってくれるほど愛情がある他人。
どちらがいい親となり子も幸せか…水城はそれは後者だと考える。
やはり血の繋がりよりも愛情は成長していくのには重要なのだ。
(このまま…このままこの人達に坊を託した方が…坊にはいいのかもしれない…)
水城はあれほど人に託すのは嫌だと思っていたのに、自分は息子に愛情を十分に与えられているか自分自身を疑っていた。
今離れればきっと親の顔なんて成長していくうちに忘れる。
だらだら伸ばして中途半端に本当の親を覚えさせるくらいなら、今の内手放した方がいいのかもしれない。
水城はそう思い息子を見下ろした。
だが息子も母を見上げ、息子と目と目が合うと水城は心が揺らいだ。
(ああ…駄目だ…この子と離れるなんて考えられない…この子を手放すなんて…ごめんね、坊…)
目以外は父親にそっくりなのに、水城にはこの子供がとても可愛くて仕方なかった。
こんなにも胸が締め付けられるほど愛しいのに水城は先ほど手放そうとした。
一瞬でもこの子を手放そうとした自分に腹が立つ。
「あなたに何があったのか、これから何をしようとしているのか…分からないけど…だけど、あなたは何があろうとこの子を誰にも譲る気はないのね」
「あるはずがない…この子を置いて行こうと…必ず私はこの子を迎えに行くわ…この子だけが私が私であれる唯一の存在だもの…」
女性の言葉に水城は即答で返した。
きっとこの先水城は女性に息子を託したように誰かに面倒を見てもらうだろう。
そうしなければ息子の命に関わらることだから。
もしも鶴見に息子の事を知られたら…きっとあの男はそれさえ利用するだろう。
だから隠し通す必要がある。
水城の言葉に女性は『そう』と答え息子を抱く水城の手に触れる。
「頑張って…そんな言葉なんの励ましにもならないと思うけど…負けないでね…私はまだ母にはなれないけれど短い間だけ坊ちゃんの母だったから…あなたのその気持ち、分かるわ…私は学がないから安直な言葉しか言えないけれど…私はあなたを応援してる…頑張ってね、杉元さん…」
「…っ」
女性達夫婦は子供が欲しかったが、結婚して数年経ってもその兆しはない。
諦めかけた時水城にこの幼児を頼まれ、諦めけた気持ちが揺らぎ子供への想いが日に日に強くなっていった。
だから夫はあんな事を言って無理にでも水城と息子を引き裂こうとしたのだ。
確かに四日も音沙汰がなく息子を放置した母親なんて親失格だ。
だがそう言われ罵られようとも水城はこの道を進んだ時から振り返らないと決めた。
例えそれが息子を犠牲にするとしても。
だが、女性の言葉は水城の心に響いた。
誰にも秘密を明けられず息子を一人で守ると気を張るばかりで水城には気の休まる時間はなかった。
ただ息子との時間だけが唯一の安らぎの時間だった。
理解者の言葉に水城はつい涙が溢れ何度も頷いた。
お礼を言いたいのに言葉を詰まらせ彼女にお礼らしい事一つも言えなかった。
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