谷垣はここしばらく毒や傷からくる熱に魘されていたが、何とか回復に向かっていた。
痛み止めを呑んだのもあり痛みは和らぎ眠る事で体力を回復しようとしていた。
その時、顔をパシパシ叩かれ谷垣は目を開ける。
「なんだ…誰だ?」
「ねんね?ねんね?」
「子供…?」
そこにはマフラーを顔に巻かれている幼児がいた。
幼児は谷垣の顔をペチペチと叩き、谷垣はその幼児に見覚えがあった。
顔はマフラーの影でよく見えないが、確か…水城の子供だ。
その隣には水城が保護したという子熊がおり、幼児の動きを興味深そうに見つめていた。
「あっ!静秋だめ!谷垣ニシパ、まだ寝てるの!」
恐らく目が離れた隙にこちらに近づいたのだろう。
世話をしていたオソマが慌てて幼児を抱っこし谷垣から放した。
まだ幼いオソマでは大人のようにお尻を支えて抱っこはできず、幼児の脇から両手を回して抱える様にしないと抱っこはできない。
オソマからしたら一生懸命幼児を抱っこしているのだが、谷垣にはそれが愛らしく見えてつい顔をほころばせた。
「ねんね?しぃー?」
「そう、谷垣ニシパ、しぃー」
「パー、しー!」
何が楽しいのか、オソマのマネをしてキャッキャッと笑い両手足を振る。
フチもオソマの父もおらず、オソマはこの幼児と留守番兼谷垣を診るよう言われたのだろう。
囲炉裏の前に座り、母や父や祖母にしてもらったように幼児と子熊に囲炉裏の灰の上でアイヌ文様を教えていた。
真似事ではあるが、それでも幼児は興味を引かれたのか、色々描かれる文様をジッと見つめ楽しそうな声を上げていた。
少女と幼児の声が耳に入り谷垣は敵対していた水城に保護されたというのに心穏やかだった。
しかし暫くすると『あれ?』と困ったような声がし、谷垣はうとうとしかけた意識をそちらにやる。
顔をオソマの方へ向ければオソマは谷垣に背を向けている幼児の頭のマフラーを一生懸命巻いては解き巻いては解きを繰り返していた。
「どうした?」
「巻いてもほどけちゃう」
どうやら自然と幼児のマフラーが解けてしまったようで、それを直そうとしてもまだ幼いオソマの小さな手では上手く巻けず解けてしまい困っていた。
眉を八の字にさせるオソマに幼子はそういう遊びなのだと勘違いし楽し気な声を上げ、子熊もそういう遊びなのかと後ろからマフラーを噛み邪魔をして遊んでいた。
『あ!邪魔しないで!』と更に困ったように声を零すオソマに谷垣は苦笑いを浮かべ、最近なんとか動かせるようになった上半身を起こし手を差し出す。
「巻いてあげるから、貸しなさい」
元々子供は嫌いではない。
上手く巻けず四苦八苦しているオソマは可愛くてずっと見ていたいが、やはり可哀想かと代わりに巻いてあげようとした。
それにオソマも助かったとホッとしながらまだマフラーが絡まっている幼児をそのまま前から抱っこし谷垣に渡した。
側に降ろされた幼児の脇に手を差し入れこちらに体を向くよう膝の上に乗せ谷垣は絡まっているマフラーをそっと解いた。
(そう言えばこの子の顔…初めて見るな…)
会った時は外で雪の反射を目から守る目的で巻いていると思っていた。
だが水城はこの家に着いてからもずっと息子の顔にマフラーを巻いていた。
オソマ達にもそれを徹底させているようで、変だと思いつつも幼児を捕まえて無理に顔を見る趣味もなく、狩りに出ている時以外は常に水城が傍にいるので聞くタイミングがなく聞く理由もなかった。
しかし顔を見る機会が訪れたとなれば興味を示さないわけがない。
父親は分からないが、水城は傷が邪魔しているが顔が整っており、さぞ子供は可愛いのだろうと思う。
案外人見知りしないのか大人しく解かれていたが…
「…っ!」
顔を露わになった幼児を見て谷垣は目を疑った。
動きを止め息を呑む谷垣に幼児は『う?』と不思議そうに小首を傾げ、オソマも首を傾げて谷垣を見上げる。
(この顔は…いや、しかし…そんなまさか…)
今、谷垣の目の前にいる幼児の顔は見覚えがあった。
いや、見覚えがあると言っていいほどのレベルではなく、谷垣が正しければ…己のすぐ上の上官である尾形と顔が瓜二つだ。
(この子の父親は…尾形上等兵、なのか…?ということは…杉元と尾形上等兵は夫婦だった?いや、尾形上等兵が結婚しているとは聞いたことがない……という事は恋人…?)
水城が女だというのはもう知っているし、受け入れた。
じっと見れば確かに顔の骨格は女で、顔の作りも女だ。
不思議なもので男だと思い込むとあれほどの美女でも女顔の美男子に見えるらしい。
女なのだから水城も子供を産んでも可笑しくはない。
だがまさかの父親に谷垣は混乱でいていた。
『谷垣ニシパ?』と固まって幼児…静秋をジッと凝視する谷垣にオソマが不思議そうに声を上げたその時――――
「その手を離せ!!」
谷垣はその怒号にハッとする。
声の方へ目をやれば入り口には水城が立っており、谷垣に向かって銃を構えていた。
銃口を向けられた事よりも谷垣は水城の鬼のような形相にゴクリと喉を鳴らす。
水城は息子にお乳を与えるため一時アシリパと別れ戻って来た。
しかし戻ってみれば谷垣の膝の上に顔を露わになった息子がおり、それを見た水城はカッとなり銃を構えた。
「離さないと撃つ!!」
動かない谷垣に水城は苛立ったような声を上げ、オソマがビクリと肩を揺らした。
それに我に返った谷垣は水城を見上げる。
「この子達の前で撃つのか」
「お前が静秋から手を離せば撃たない!いいから私の坊から手を離せ!」
二瓶の時も思ったが、どうやら水城は息子の事になると冷静ではいられなくなるらしい。
谷垣は水城を刺激しないよう静秋を降ろそうとした。
その時、そばで固まっていたオソマが谷垣の前に立ち両手を広げて庇う。
「杉元カッケマッ!!谷垣ニシパのせいじゃない!あたしが上手く巻けなかったから谷垣ニシパにお願いしたのっ!」
水城の怒鳴り声と銃を向けるのを見てオソマも水城が怒っていると分かった。
だが怒っている理由まで分からず、自分が上手くマフラーを巻けなくて谷垣に代わりに巻いてもらおうとしたから怒っていると思っているらしく、怖くて涙目になりながら必死に谷垣は悪くないのだと訴える。
しかし水城はオソマの言葉に首を傾げたが、そこで少し冷静さを取り戻したのか現状を把握する。
谷垣が息子を膝の上に乗せ顔を露わにしているのは、谷垣が言葉巧みにオソマから息子を取り上げて顔を見ようとしたと思っていたが、どうやらそれは誤解だったらしい。
成程、と思ったが、怒りは消えない。
だが、うるうると目に涙を浮かべながら健気に谷垣を庇うオソマの姿は、母として感情が芽生えつつある水城にとって絆されてしまう光景でもあった。
暫くオソマと見つめ合っていた水城は溜息を吐き銃を降ろし、谷垣を庇うオソマの前に歩み寄りしゃがみ頭を撫でる。
「そうだったんだね、オソマちゃん…ごめんね、私、谷垣が無理に坊をオソマちゃんから奪ったんだとばかり思ってたから…谷垣にごめんねするから許してくれる?」
「ほんとうに?谷垣ニシパにごめんする?」
「ええ、勿論…悪いのは誤解していた私だもの」
水城の言葉に納得したのかオソマは笑顔を浮かべてくれた。
それにホッと安堵しながら水城は谷垣に顔を上げる。
「銃を向けてごめんなさい」
「い、いや…こっちこそ…誤解させてすまない…」
谷垣は謝る必要はない。
勝手に誤解をして勝手に怒りだしたのは水城の方だ。
だが、水城が息子にマフラーを巻いた理由を知った今、意識してみたわけではないが隠したがっていた秘密を見てしまった気まずさはある。
「オソマちゃん、もうすぐアシリパさんが帰ってくると思うんだけどちょっと谷垣と二人でお話する事があるから待っててって伝えてくれるかな?」
息子の脇に手を差し入れて抱き上げ、さりげなく谷垣から奪いながらオソマに伝言を頼む。
オソマはチラリと谷垣を見た後水城を見上げたが、その顔はとても不安そうだった。
水城が笑顔を浮かべながら『もう怒ってないから大丈夫よ』と頭を撫でてあげるとそれを信じたのか頷いて家を出て行った。
それを笑顔を浮かべたまま見送った水城だったが、オソマの姿が遠くへ消えたのを気配で感じ取るとその表情を険しくし谷垣をギロリと睨みながら振り返る。
「…見たな」
「…………」
オソマに向けた柔らかな声とは真逆の低く唸り怒りを見せるその声で問われ、谷垣は無言で頷いた。
その頷きに水城は深い溜息をつきながらしゃがんでいた体勢を足を崩して座る。
その上に息子を座らせるが、もうマフラーで隠す事はしなかった。
「父親は尾形上等兵か」
「見て分かるでしょ…分かり切った事聞かないで」
確認のため聞いただけなのに噛みつかれた。
水城もただ八つ当たりをしていると分かっているが、どうしてもこの苛立ちは抑えきれなかった。
隠し通せるとは思っていなかったが、知られたくはなかった。
しかし連れて行くにしても最近白石はリュウを連れて街に出かけてしまい面倒を見てくれる人はこのコタンのアイヌしかいなかった。
その中でアシリパの叔父という一家しか息子を信頼して預けられず、仕方なく息子を置いてアシリパと共に狩りをしながら囚人の情報を集めていた。
それがこんな事になり水城は自分に腹を立てていた。
無言で返す谷垣に水城は少し申し訳なく思う。
ここ数日彼は軍服を脱ぎアイヌの服装に着替えているからか以前よりも水城は彼に対する感情にトゲはない。
というのも数日の彼を見ていて、警戒するほどの人間ではないと思い始めていたのだ。
目線を落とす谷垣を気まずげに見た後息子へ視線を落とす。
息子は水城の膝の上に手を乗せ立つ子熊に手を伸ばしており、子熊はそんな息子にフンフンと鼻をひくつかせていた。
可愛い一人と一匹の光景に水城は心を落ち着かせる。
「ごめん…今のは八つ当たりだったわ……私この子の事になると神経質になって、つい……殺す気は…ないとは言わないわ…嘘はつきたくないもの」
殺す気がなかった、とは言えない。
確実に水城は谷垣を殺す気で銃を向けたのだ。
谷垣は水城へ目をやる。
水城は子熊の頭を撫でており、その表情から先ほどの怒りは見えなかった。
どうやら怒りは鎮火したらしくそれに胸を撫で下ろす。
「…いや…俺の方も…その、勝手に見てすまない…」
「いえ…マフラーを巻き直してくれようとしていたのよね…谷垣が謝る事はないわ」
首を振る水城に谷垣は戸惑う。
はっきり言って、水城に違和感を感じていた。
姿は軍服という男装をし、口調や仕草は女そのもの。
ずっと水城は男だとばかり思っていたため、女口調や仕草は今の谷垣にはまだ慣れなかった。
受け入れたとはいえ、慣れと受け入れるのとは違う。
気まずい空気の中、母に抱かれていた静秋が『かあ、パイ』と言い出した。
「あ、ごめん…ちょっと坊にお乳上げていい?」
「え、あ、ああ…じゃあ俺は外に…」
「その体じゃまだ歩けないでしょ?私が後から来たんだし、背中向けるからいいよ」
「す、すまん…」
謝る谷垣に水城が『なんで谷垣が謝るの?』と笑い、その笑みに谷垣も釣られて笑うが少し引きつっていた。
家族以外の男に授乳すると言って気まずくならないわけがない。
谷垣も気を使って顔を水城とは逆に背ける。
しかし目を瞑っても耳は機能しており、衣擦れの音が嫌に生々しく感じた。
ちゅうちゅうと吸う音すら敏感に拾う自分の耳が嫌になりながらも何とか授乳は終わったのか、暫くして『もういいよ』と許しを得た。
瞑っていた目を開け、水城を見れば、お乳を吸い満足した顔で母の膝を陣取る幼子がいた。
その幼子が膝の上から降りたがったため降ろせば傍にいた子熊の上に乗って遊び始めた。
子熊も一緒になって遊び、この家に静秋と子熊の楽し気な明るい声だけが響く。
谷垣は子供の楽しそうな声に今まで気まずげだった表情を和らげ、何となく水城を見た。
息子を見守る水城はとても穏やかな表情を浮かべ、その姿は正に母そのものだった。
(これが不死身の杉元か…)
不死身の杉元と言えば鬼神の如く露西亜兵を殺し、死ぬほどの怪我を負ってもすぐに復帰する正に真の日本兵と言っていい人間だ。
二瓶と共に敵対している時も不死身の杉元と対立する事への緊張感はあった。
戦場でも遠目で見た時もまさに噂に違わない戦いぶりに体が震えた。
その震えは決して恐怖ではなかった。
まるで後に続けと言われたようだったのだ。
そんな不死身の杉元が今ではまるで聖母のように微笑み息子達を見守っている。
誰がそんな鬼神を想像できただろうか。
(尾形上等兵が彼女を変えさせたのだろうか…そもそも尾形上等兵は杉元がここにいる事を知っているのだろうか)
だから、ますます尾形との関係が気になった。
水城が上官や同僚を半殺しにして軍を辞めたのは聞いている。
上層部が渋り鶴見が庇ったものの、事が事だけに存続させるにはあまりにも彼の地位は低すぎたのだろう。
これまでの功績として、軍法会議だけは免れたらしいが恩給はなしになったと聞く。
それでも水城は文句ひとつも言わず軍を呆気なく去っていったという。
きっと彼に…いや、彼女にとって軍はそれほど思い入れはなかったのだろう。
そう思うとその深まった興味は更に沈むように深くなっていく。
「なにか質問でもあれば聞くけど」
あまりにも見過ぎたのか、息子を見つめながら水城がそう呟く。
水城の言葉に谷垣は自分が水城を凝視していたのに気づき気恥ずかしさに頬をかき水城から目を逸らす。
「尾形上等兵はここにお前達がいる事を知っているのか…」
色々聞きたい事はあった。
なぜ女の身で軍人となったのか、なぜ今まで気づかれずにいたのか、そして尾形との関係。
色々あったが、尾形がここに水城と息子がいる事を知っているのかが谷垣にとって一番気になったものだった。
アイヌと手を組み、二瓶と対峙したところから恐らく水城も金塊を狙っていると言っていいだろう。
だが尾形は軍に属しており、その中で鶴見の部下に属する……いわば水城と対立関係に当たる。
夫と妻が争うなど息子の事を考えれば避けるべきだ。
水城は谷垣の問いに首を振った。
「あの人とやりあった事あるから私がアイヌと手を組んでいることは知っていると思うけど…ここにいるのは知らないわ…まああの人も馬鹿じゃないから接触した場所から近いこの村を疑うでしょうけど…」
「そうか…」
『やりあった』、と子供を作るほどの関係なのにあっけらかんに言える水城に谷垣はやはり母の顔をしていても不死身の杉元なんだなと思う。
「そもそもあの人、坊がいる事さえ知らないし」
谷垣はなんと答えたらいいのか戸惑っていた。
だが続けられた言葉に呆気に取られ、思わず水城を凝視し『は?』と零してしまった。
そんな谷垣をよそに水城は続ける。
「私あの人に黙って子供産んだから…あの人、知らないわよ?息子がいるの」
「…………」
もはや言葉さえ見つからなかった。
尾形と水城の間に子供がいる、それはすなわちそれを許すほどの仲…と思うのは仕方ないだろう。
だがどうやら尾形は水城と自分との子供がいる事すら知らないらしい。
それを知って尾形に対して『何を考えているのか分からない不気味な上官』というイメージだった谷垣は一気に『可哀想な上官』にランクダウンした。
とりあえず『そ、そうか』としか返せない谷垣に水城はにっこりと笑みを浮かべ…
「だから坊の事を尾形や周りに言ったら殺す…私から坊を奪うなら軍隊であろうと全て殺す…例え逃げた場所が地獄の底だろうが谷垣、私は絶対にお前を殺す」
にっこりと笑う水城はとても美女そのものだ。
傷があっても衰えないその美貌に普通の男なら見惚れるところなのだが…
見惚れるほどの状況でないのを谷垣は感じ取っている。
本気だ…本気で命(と書いてタマと読む)をとる気だ……谷垣は露西亜兵を前にしても臆さなかったのに目の前の鬼神に体が震えたのを感じた。
―――そして理解した。
なぜこうも簡単に話してくれたのか…
水城は釘を刺しにきたのだ。
谷垣は気づきたくないのに気づいてしまった瞬間だった。
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