ある男二人がアイヌの住むコタンに辿りついた。
人を探しているようで、傷を負った軍人の男が介抱されていると聞いた二人は老婆の家で待たせてもらう事にした。
「シンナキサラ!」
物珍しさに集まった子供達が口口に軍人二人を指さしてそう呼ぶが、意味は分からない。
とりあえず、このコタンで偉いらしい老婆に案内され、老婆の家に入れば幼児と子熊がいた。
幼児は壁際で仰向けになっている子熊の上にうつ伏せで重なって子熊共々眠っているらしく他人が入ってきても身動き一つしなかった。
アイヌの服を着ているという事はこの老婆の孫かひ孫なのだろう。
子供に大した興味も持たず軍人二人は老婆にもてなされた。
「尾形上等兵殿……その男…杉元でしょうか」
男の1人がもう一人の男…尾形に声を掛ける。
尾形は決して銃を離さず声を掛けた男、二階堂を見やる。
「さあな…俺が会った時は怪我をしていなかったが…鶴見中尉に拷問されていたのだろう?奴はアイヌと組んでいるようだったしこの村は俺とやりあった場所から一番近い村だ…ならその可能性が高いかもしれん」
二階堂はその言葉にその瞳に怒りを燃え上がらせた。
その目を見つめながら尾形は目を細める。
(怪我を負った"男"…怪我の治療をアイヌがしていたのなら"女"と言うはずだが…口止めされている可能性もある……さて…どうだろうか)
自分が入院中、水城は鶴見に捕まり拷問に掛けられ逃走し敵対関係になったと聞いた。
それも逃走する際二階堂の片割れを殺害し腸を盗んで瀕死の重傷を負ったように偽ったというではないか。
逃亡には成功したが、その代償として二階堂の恨みを買ってしまった。
二階堂は元々鶴見に心酔してこの部隊にいたわけではない。
だから脱走兵と処罰されるのを分かっていて尾形の誘いに乗った。
それほど水城は二階堂の恨みを買っているのだ。
(また変な奴に好かれたものだ…あいつは死神の他にも変人に好かれる運命でも背負わされているのか…?)
軍にいた頃から鶴見が水城に対して強い執着を持っているのは知っている。
水城が懐いている月島を使って懐柔しようとしている姿は尾形から見て露骨で笑えるものだったが、弱みを握りやっと体"だけ"を得た自身は傍からみればもっと露骨でお笑い草だっただろう。
最初の飼い主は鶴見と同じ階級だった川畑吉平だったが、月島達が鶴見に向ける心酔や尊敬は一切感じられなかった。
その男が死んでからは水城は仮の飼い主を得たが、ただそれは表向き従っていただけで触れられそうになると噛みつき、そして囲いから逃げ出した。
結局、鬼神を飼い慣らすことができたのは川畑吉平一人だけだったのだ。
恐らく鶴見はそれが気に入らないのだろう。
だが、同じ水城に魅入られた男として、だからこそ水城が好ましく見えるのも分かっている。
敵となると容赦がなくなる鬼神だが、懐に入れさえすればあの鬼神はデロンデロンに甘やかしてくれるし甘える飼い犬となる。
そのギャップがたまらないのだ。
(だが…まさかあの男も取り込めるとはな…)
脳裏にもう一人、変人を思い浮かべる。
自分と半分同じ血を分けた異母弟…花沢勇作だ。
彼は傍から見れば普通の美青年だろうが、尾形から言わせれば周りを無自覚に振り回す事に長けた男にしか見えない。
彼の優しさは自分勝手なのだ。
周りを気にしているようで、彼は自分の事しか考えていない。
良く言って周りが見えない無神経な男なのだ、あの弟は。
そうでなければ芸者の女の腹から出た男を兄様とは呼ばないだろう。
その理由が自分に兄がおらず憧れていたからだというのだから、それを無神経と言わず何というのだろうか。
まさに妾とその子供を捨てた男の血を継いでいると言っていい。
そんな男を水城は見事に手懐けた。
(見つけたのは俺が最初だっていうのにな…やはり異母とはいえ兄弟は好みも似てしまうのだろうか…)
異母弟よりも先に水城を見つけ、知り合ったのは自分なのだ。
なのにあの空気を読まない弟は兄の心情など気にもとめず水城に懐いた。
彼は人の感情に鈍くもあり、水城に対して異母兄も似た感情を持っているというのに兄に相談する弟という関係に酔い兄に水城の事を話した。
だから水城と川畑吉平が懇ろな関係だと知っていたのだ。
今思えば血の繋がりは強かったのだろう。
好みの女が見事に重なっていたのだから。
(まあ、あいつは水城に想いを告げることなく死んだ…いや、俺がそうさせなかったんだがな…)
異母弟は死んだ。
尾形の…憧れたという兄の手によってその人生を閉じたのだ。
殺さなくてもあの異母弟の事だから水城を男と今でも思い込んで告白すらせず秘めた想いを心の奥に仕舞い込んだだろう。
尾形でさえ水城が口を滑らさなかったら今でも信じていただろう。
だがかと言って水城の男装が完璧だというわけではない。
確かに水城の男装は誰もが騙されたほどではあるが、多くは思い込みによる効果だ。
軍人=男性のみ、という認識が水城を優男だと思わせた。
それに吉平が側に置き、ガチガチに水城を守っていたから女だと気づかれるハプニングもそう起きなかったと言えよう。
そう思うと案外思い込みと言うものは恐ろしいものだ。
そして、それを分かっていて利用し、誰も出来なかった水城を上手く飼い慣らしていた川畑吉平という男もまた、鶴見とは別に恐ろしい男と言えよう。
(そういえば…結局、あいつは俺の子も川畑中尉の子も宿すことなかったな…)
吉平の事を思い浮かべると、尾形は取り引きの事を思い出す。
そして残念に思う。
いつも取り引きの事や水城の事を思い出すと鬼神に子供を宿せなかった事を後悔していた。
もっと鬼神の中に注ぐべきだったか、と。
水城が吐いたと聞いて病院に向かってみれば千景から食中毒と言われてしまった。
信じてはいないが、調べようにも水城の病室に忍び込むのは難しく、水城と碌に話せないまま水城は軍を去ってしまった。
そのあと水城の消息が途絶え、唯一繋がりがあるであろう千景を何度訪ねても千景は知らないの一点張りだった。
今でも尾形はあの時千景が水城を隠していたと思っているが、もう今はどうでもよかった。
水城と再会できた。
それも水城は金塊争奪のレールに乗る気だ。
これはいいチャンスだと尾形は思う。
(子供が出来なかった…それは残念だった……だが、今、俺の目の前にはあいつがいる……手が届かなかったあいつが、目の前にいるんだ……やっとあいつを手に入る機会が再び与えられた……この手に入るか…それともこの手でその命を奪うか……どちらにせよこの機会を逃せば次はない…)
もうこの感情が何なのか…尾形には分からなくなった。
この感情に当てはまるのは何なのか。
愛なのか、意地なのか、見栄なのか…
しかしこれだけは言える―――自分は水城に強い執着心を持っている、と。
この腕に閉じ込められるならつぶれるほど強く抱きしめて二度とこの腕から逃れないようにしよう。
だが、逃げ出し自分以外の男の腕に抱かれると言うのなら、殺す。
殺しさえすれば水城は二度と自分以外の男の腕に閉じ込められる事はなくなり、そして、尚且つ自分が殺せば水城は殺された自分のモノとなる。
生かすも殺すも、尾形に損はない。
だが、その前にするべきことがある。
尾形はチラリと二階堂を見る。
(殺す前に見定めなくてはな…まずは囲うためにあいつを弱らせなければならない…その為にこいつを連れて来たんだからな)
尾形は片割れを殺された恨みを持っているであろう二階堂を誘った理由…それは水城を捕らえるための道具として連れてきた。
一対一、それも真正面では相手が女といえ水城相手では尾形の方が分が悪い。
かといって密かに銃で狙うだけの方法は強運の持ち主の水城に通じるかは未知数だ。
なら囮を使えばいい。
二階堂が水城に対して恨みを持っているその感情を利用し、もし水城を瀕死に追い込めたら殺される前に自分が二階堂を射殺せばいい。
その後弱った水城を連れて囲い、水城が己の腕に収まるのならそのまま飼い殺し、逃げるつもりならば殺す。
尾形は己の感情がぐちゃぐちゃに塗りつぶされたように分からなくなっているが、それだけはハッキリと分かっていた。
幸い二階堂は片割れを殺した水城への恨みで周りが見えていない。
尾形の殺意も計画も気づかないまま死んでいくだろう。
銃を抱えるように握る力が自然と強くなった。
カチャリ、と音を立てたが二階堂や老婆には気づかれなかった…だが…
「かぁ?」
その音かは分からないが、子熊と寝ていた幼児が目を覚ました。
仰向けに寝ていた子熊の上に抱きつくようにうつ伏せで寝ていた幼児は顔を上げ、周りを見る。
尾形にお尻を向けていたため見渡してもその幼児の顔は見えなかったが、二階堂が何故かその幼児の顔を見た後驚いた顔で自分を見た事が少し気になった。
『なんだ』と意味を込めてジトリと二階堂を見れば、上官に睨まれているというのに二階堂は驚いた顔を崩さず何度も幼児と自分を見比べる様に見ていた。
それに怪訝そうにしていると、幼児がコロンと子熊から落ちる様に降り、壁に手をやり―――立ち上がった。
「かぁ、ないない?」
尾形に背を向ける様に立っているので顔は見れなかったが、老婆は幼児のつかまり立ちを見て驚いたような声を上げる。
…いや、驚いたというよりも喜びだろうか。
せっせと尾形と二階堂のもてなしをしていた老婆は幼児の元へ駆け寄り何か言っていた。
しかし日本語は話せないようで、アイヌ語だったため二階堂にも尾形にも聞こえなかった。
だが老婆の言葉を幼児は理解したように『あい』と返事なのか、それともただの言葉なのか分からない声を呟いてコテンと尻もちをつくように座る。
幼児が起きてもまだ子熊は眠りこけていた。
老婆が幼児の頭を撫でた後尾形と二階堂のもてなしに戻るが、その顔はとてもニコニコとにこやかに嬉しそうに笑っていた。
(なにをそんなに笑ってる?…もしかして立ったのが初めてなのか?)
尾形は結婚もしていないし子供もいないが、上官や同僚が自分の子供が初めて立った時の事を自慢しているのを聞いたことがある。
にこやかに笑っている老婆からしてこの幼児はつい今しがた初めて立ったのだろう。
かあ、とは恐らく母親だろう。
(子供が初めて立った場面を見れんとは…運が悪いと言うかなんというか…)
老婆の娘の子供か、その子供の子供かは分からないが、子持ちの人間の会話からしてこの場にこの幼児の父と母がいないのは世の中としてはとても残念な事なのだろう。
だが家族がいない尾形には興味のないものだった。
水城を捕まえるためわざわざこんな雪深い山奥に来たのだ。
幼児なんかに構っている暇はない。
そう思っていたのだが、その幼児がこちらに振り返り――――尾形はその顔を見て固まった。
「う?」
コテンと首を傾げこちらを見る幼児に尾形は時間が止まったように固まった。
その幼児の容姿は鏡を見たように自分にそっくりだった。
確かに二階堂が何度も幼児と自分を見るだけはあると思うくらい瓜二つだった。
ただ、幼児だからか、あちらの方が顔は穏やかで愛嬌があるように見える。
似過ぎている幼児にも驚きだったが、何より尾形を更に驚かせたのは…
「その目…」
尾形は思わず無意識に呟く。
尾形が驚いたのは幼児の容姿もだが、何より見覚えのある瞳に驚愕していた。
幼児の目はとても美しい琥珀色をしていた。
その目の色をした人間を尾形は一人知っている。
(いや…まさか…そんなはずは…)
脳裏に一人の女が浮かぶ。
元々疑っていた尾形はすぐに結びつける。
そもそも疑いようがないだろう。
鏡を見たようなそっくりな自分に、目は執着している女そのままだ。
それで気づかないほど尾形は鈍くはない。
じっとこちらを見つめる幼児を尾形も見つめる。
その場は何故か静かだった。
幼児は尾形を向いていた顔を正面に戻し、再び壁に手を置き立ち上がる。
うんしょうんしょという言葉が聞こえる様に一生懸命立とうとする幼児を何故か大人三人は黙って見守っていた。
しかし立ったばかり、それもつかまり立ちしたばかりの幼児がそう簡単に自由に歩き回れるわけもなく、ふたたび尻もちを突くように座ってしまう。
老婆は立つたびに嬉しそうに拍手をして喜び、それに幼児もきゃっきゃと嬉しそうに笑い手をブンブンと振り回す。
立って歩くのを諦めたのか幼児はててて、とハイハイをして尾形のところまで来た。
崩して座っている尾形の膝に手をやって再びつかまり立ちをして興味深そうに男…――父を見上げる。
「あうねー…かあ、ないないねー」
何を言っているのか分からない。
ないない、という部分しか理解できなかった。
だが、尾形は自然に振る舞うよう口元を手で隠し、幼児を見る。
(そうか…そうか……こいつは俺の子か…)
口元を手で隠さないとクツクツとした笑いが出てきそうだった。
今、尾形は感情を高ぶらせていた。
望んだ物が目の前にあるのだ。
それに興奮しない人間などいないだろう。
何の反応もなく見下ろす父をよそに幼児は次に二階堂のところへハイハイへ向かおうとした。
どうやら母がいない事を客人に教えているつもりらしい。
人見知りをしない子供なのか、威圧感がある風貌の男二人に屈することなく息子らしい幼児は自分の元から離れようとする。
そんな息子に尾形は一瞬息子の母を脳裏に浮かべ、息子を抱き上げ膝の上に乗せた。
「う?」
二階堂にも報告しようとしたのになぜか浮遊感を感じ、向かおうとした二階堂と向かい合わせになって見える。
それに幼児は不思議に思ったのか目を瞬かせキョトンとさせた。
だが顔を上げ、上から男が自分を見下ろしているのが見えた。
そこで男の膝の上に座らされていると気づく。
嫌ではないのか大人しい息子に尾形は息子の頭を撫でてみた。
(あいつは何を思って"コレ"を産み育てようと思ったのだろうか…)
尾形と水城は子供が欲しくて体を繋げたわけではない。
そこには愛情もなければ情もない、ただの吉平に対する嫌がらせにすぎない。
少なくとも水城はそう思っていたはずだ。
水城も育てたい奴が育てればいいと言う言葉に納得していたはずで、黙っていた理由はなんにせよ水城がなぜ子供を育てる方へ考えを直したのか気になった。
今の感情でそこに自分に対して愛情があるかもしれないと言う期待はない。
単純に気が変わった事への純粋な興味だった。
「………」
「ぅ〜…あぅ…?」
上から覗き込むように息子と思われる幼児を見下ろすと尾形はふっくらとした頬に触れる。
親指と人差し指でふにふにと挟むように触ってまず驚いたのはその柔らかさだ。
幼児の頬は男よりも柔らかな肌を持つ女以上に柔らかい。
むにむにと挟むように力を少し加えれば幼児の口がアヒルのように尖る。
それでも嫌がらず『うーうー』言いながら不思議そうに大人を見上げる幼児が面白かった。
頬で遊ぶのに飽きた尾形は体を向かい合わせにさせて脇に手を差し入れ自分の目線よりも少し上に抱き上げる。
今度は幼児が父を見下ろす形となり、母譲りの琥珀色の目をパチクリとさせながらこちらを見つめる幼児を尾形はただ無言で見上げていた。
さりげなく匂いを嗅げば、幼児特有の乳臭さを感じた。
これが子供の匂いなのかと思いながら、尾形は再び幼児を見上げる。
(コレが俺の子供…俺の血と水城の血で出来た人間、か…)
見れば見るほど自分に似ている。
いや、似過ぎている。
さすがは父の血だと弟よりも自分の方が父に似ていた事を皮肉に思う。
目の前の息子も母の特徴は目だけで、顔のパーツはほぼ自分だ。
(ここまで似過ぎるているのも気味が悪いな…)
自分に似ているということは、長く水城を所有していた吉平に勝ったと言う事。
吉平の血に勝った喜びはあるが、同時に自分に瓜二つの事への複雑さはあった。
確かに水城との行為の目的は子供を作る事ではあった。
だがそれはただ単に水城は吉平の子を産みたくなかったから。
尾形は鬼神を己の物として所有したかったからであって、お互いそこに愛情があったからではない。
だからこそ目の前に求めた自分の血を引き継いだ子供がいても尾形は何も感じなかった。
父性もなければ、父が子供に対して与える愛情も情もない。
欲したのは子供ではなく、水城自身だ。
そこで尾形は己に向けて嘲笑を浮かべた。
(どれだけ否定していても…所詮は俺もあの男の血を継いでいるというわけか…)
己の血を引き継いだ子供に対しての無関心さに一時恨みもした実の父親の血を己の中に感じた。
あの父も自分に対してこんな何もない感情を抱いていたのかと今理解した事に笑いが込み上げてくる。
ただ違いは子供の母親への関心だろうか。
父は母にさえ無関心を貫いたが、尾形は息子の母…水城に対して意地にも似た執着を持っている。
その違いに尾形は完全に父の血を引き継いでいるわけではなかったと安堵できた。
持ち上げるのをやめて息子を仰向けにさせて膝の上に寝かせる。
上から覗き込むように息子を見上げれば頭の重みで顔を上げることはできないが目線は父に向けていた。
顔は自分にそっくりだから可愛くもないが、母譲りの目だけは気に入っていた。
(ああ、そうだ…コレを持っていけばいいかもしれないな…)
息子に対して水城がどんな感情を持っているかは分からない。
だがもしも少しの愛情があるのなら子供の為に己の腕の中に自ら閉じ込められに来てくれるかもしれない、と考える。
もしも愛情もなくただ産んだから育てているだけで見捨てるというのなら、もう"コレ"に用はなくその辺に捨てるかこの村に置いていけばいい。
母がいない"コレ"に価値はない。
そう冷めた思いを持ちつつ血の分けた息子を見つめていると前方から視線を感じ、そちらに顔を向ける。
そこには興味ありげに見つめてくる二階堂がいた。
二階堂は老婆の肩を揉んでいた。
それは好意ではなく、水城に対して人質の意味を込めているのだろう。
尾形はその判断は正しいと思った。
子供をこの老婆に預け出掛けるという事はそれほどの信用を水城は老婆に寄せているからだろう。
「なんだ」
ジロジロと見つめてくる二階堂の不躾な目線に不快感を覚えながらポツリと呟く。
それに焦る事もなく二階堂は尾形と幼児を見つめる。
「尾形上等兵殿にそっくりだと思いまして…もしかして、隠し子ですか?」
尾形が結婚していないのは隠していないし知り合いの誰もが知っているだろう。
目の前の上官はとにかく女の影がない男だった。
かと言って遊女遊びに抵抗がないところから女に興味がないというわけでもなく、男に興味があるわけではない。
恋人やら愛人やらの浮いた噂話もない、なんとも面白みのない上官だった。
それがそんな上官と瓜二つの顔をもつ幼児を見てしまえば勘繰ってしまうのは仕方ない事だろう。
年齢からして北海道に来た時期と子供が仕込まれたであろう時期と合わないが、それも承知で二階堂は揶揄っていた。
勿論尾形はそれに気づいている。
だからこそ苛立った目で二階堂を睨む。
「馬鹿な事をいうな…似ている人間などその辺にいるだろう」
「いやぁ…それにしては似過ぎていると思いますが?」
「驚いているのは俺も同じだ…まさかこんな辺境の村に俺とそっくりの子供がいたんだからな」
嘘は言っていない。
この幼児は紛れもなく水城と自分の子供だろう。
だが、尾形は今日までそれを知らずにいたのだ。
だからその言葉に嘘はない。
二階堂がそれを信じるか信じないかはどうでもいい。
どうせ水城を捕まえれば用済みに消す男だ。
真実を知ったとしてもそれを周囲に話す事はないだろう。
ニヤついている二階堂を無視し自身の子供に意識を向けたその時、入り口辺りから二人分の声がした。
1人は先ほどからこちらを顔を覗かせ見ていた少女だろう。
そしてもう一人。
尾形はその声を聞き、まずは落胆した。
(……外れたか…)
はあ、と溜息をつき仰向けにしていた幼児を抱え直す。
その時声の主が姿を現し、まさにギクリとさせ膠着したようにその場に立ちつくしていた。
その顔をチラリと見れば自分を見て強張っていた。
それを見て尾形はニタリと笑って見せた。
「谷垣源次郎一等卒」
その顔と声にその人物――谷垣は口を結ぶ仕草を見せ尾形は目を細めた。
目的の水城ではなかった事は残念ではあるが、しかし、谷垣にも聞きたい事はあった。
死んだと思ったが、谷垣は生きてここに"一人で"いる。
「村の人間からこの家に怪我をした兵士がいると聞いて待っていたが……谷垣、お前だったのか」
そうわざとらしく驚いたように呟けば谷垣は緊張した面持ちから軍人へと空気や表情を変える。
…いや、戻ったと言っていいだろう。
谷垣はこちらを見上げている尾形…とその腕の中にいる幼児を見つめながら答えた。
「山でアマッポ…仕掛け矢にかかり毒で動かなくなっているのをアイヌの方々に助けられました」
「歩けるまで回復したのにどうして鶴見中尉のところへ戻らない?」
「杖をついて歩いたのは今日が初めてです…しばらく残って世話になった恩を返すつもりでした」
谷垣は『まずい』と焦りを覚える。
尾形に見つかった事もそうだが、何より尾形の腕の中にいる存在だ。
(どうする…尾形上等兵は恐らくその子供が自分の子供だと気づいたはずだ…杉元と尾形上等兵にどんな過去があったか分からんが少なくとも杉元は尾形上等兵から子供を遠ざけたがっているようではあった…それが知られた今…尾形上等兵はその子供をどうするのか…俺は尾形上等兵から子供を取り戻せるだろうか…)
尾形の腕にいるのは尾形と水城の子供だ。
これほど似ているのだから尾形も気づくだろう。
水城は自分がいるからと子供の顔をマフラーで隠すほど警戒を露わにしていた。
話を聞けば尾形には黙って産んだと言っているので、二人の間に何かあったのは確実だろう。
もしも尾形に子供を連れていかれたと知れば水城は自分を殺すのも厭わないだろう。
そう思えるほど水城は子供に対して神経質さを見せていた。
尾形が子供を連れて行ってしまったとして、それを止めるほどの力を自分が有しているとは思えない。
だが、尾形から子供を離さなければならないと何故かそればかり考え、焦ってしまう。
「玉井伍長は今も行方が分からん」
「…!」
だからか、谷垣は一瞬尾形達から意識が遠のいていた。
しかし尾形の言葉にハッとさせる。
玉井伍長とは、水城とアシリパと接触する際ついてきた上官の1人だ。
その玉井伍長が行方不明だと尾形は言う。
だが、玉井以外にも野間、岡田という軍人二人も同じく行方知れずらしく、その面々は谷垣と行動を共にしていた軍人達だった。
「不審な猟師たちを追跡していて自分だけはぐれました」
「動けなかったのなら人を使って現状を知らせる事も出来ただろ…意識を取り戻したのも『今日』か?」
「……」
トトトト、と老婆…フチの肩を叩いて解す二階堂の嫌味な言葉に谷垣は睨むように視線を二階堂へやる。
玉井達と行動を共にしてはいたが、谷垣はアシリパを追って三人とは離れた。
それから色々あり軍を抜けたつもりでいたため、報告するという考えは完全に抜けていた。
…いや、考えた事があった事はあったが、この村での生活が居心地よく先送りにしつづけ…そして結果がこれだ。
玉井達の事は水城に聞かなかったためどうなったかは分からない。
だが行方不明と言っているのなら恐らくは――――…
谷垣がそう脳裏に浮かべたその時…
「シンナキサラ!!」
恐る恐る様子を見ていたオソマが突然駆け寄り、尾形にそう叫んで指さした。
それに何の反応もしなかった尾形をよそに次は二階堂に同じ事をし、続いて谷垣にも同様に叫んで指さした。
「あ〜〜!忙しい!」
「オソマ、お婆ちゃんと坊を自分のチセに連れて行け」
寝転んで両手足をバタバタとさせるオソマに谷垣はそう声を掛け頼む。
すでに谷垣は軍に戻る気はほぼ皆無であった。
尾形は分からないが、二階堂にはフチを人質に取られたようなもので、オソマの登場によってこの殺伐とした空気は一変した。
それにホッと安堵する。
「玉井伍長から何か聞いているだろう?」
しかしオソマが谷垣の言葉通りに動く前に二階堂が動く。
肩を叩いてマッサージしていた二階堂だったが、フチの両肩を掴み、谷垣に質問をする。
谷垣にはそれが回答次第では人質に危害を加えるという意思表示に見えた。
フチは恩人だ。
その恩人に危害を加える前提で触れる二階堂に谷垣は睨む。
「何の事か分からないが…その人から離れろ二階堂…乱暴するならただじゃおかない」
フチだけではなくこの村のアイヌには恩がある。
それを仇にして返したくはない。
もし危害を加えると言うのなら二階堂を殴ってでも止めるつもりだった。
当の二階堂は『おお、こわ』と怖がるふりをしおちょくり、そんな二階堂に谷垣は鋭い視線を深くする。
「ところで…谷垣、お前…子供はいるか」
睨み合いその場の空気はオソマが変えてくれたというのに再び緊迫した空気へ変わった。
それを感じながら谷垣は突然の尾形の問いに『は?』と素直に反応を零し、怪訝としながら首を振る。
「いえ…俺は結婚していないので…妹は結婚していましたが子供が出来る前に…」
谷垣は今までずっと恋愛せず過ごしてきた。
そもそも軍に入った理由は復讐のためだ。
妹が親友と結婚し、幸せに暮らしているとばかり思っていた。
だがその親友は妹を殺しただけではなく家諸共燃やして姿を暗ました。
軍に身を置いているという情報から谷垣はマタギを捨て軍人となたった。
結果、親友が妹を殺した真実を知ってこの憎しみは消えたが、マタギに戻る事もできず今まで谷垣は軍人としての道を歩んできた。
ずっと復讐の事ばかり考えていたため女なんかに目移りしている暇はなく、今まで独身でいた。
兄は結婚しておらず、親友と妹は子供を産む前に死んだ。
それを素直に応えれば尾形は『そうか』と呟き膝の上に座らせた幼児を見下ろし、それに谷垣も釣られた幼児…静秋を見た。
静秋は『パー、パー』と谷垣を呼んでいた。
刷り込みなのか、静秋はどうもアイヌ達が呼ぶ『谷垣ニシ"パ"』のパーを名前だと思ってしまっているらしい。
パーという言い方が言いやすいのもあるのだろうが、不思議な事に他にニシパと呼ばれる男性がいるのにパーと呼ぶのは谷垣だけだった。
「俺は初めて子供に触れたんだが…子供は柔らかいな…柔らかくて暖かい…お前、触ってみたか?頬なんてまるで餅のように柔らかいぞ…子供のどこがいいんだと思っていたが…なあ、谷垣よ…案外子供というのは可愛生き物だと思わないか?」
「そ、そうですね…」
谷垣は驚いた。
谷垣から見た尾形は何を考えているのか分からない男であり、子供なんて彼から程遠い存在に思っていたのだ。
それがあの不死身の杉元と子供を儲け父となった。
水城から静秋の父親は尾形だと聞かされ、尾形の膝の上にいるのは紛れもなく尾形の血を分けた息子であるのだが……それを目の前にしても尾形と子供が結びつかない。
(まさか尾形上等兵から子供が可愛いという言葉が出てくるとは……杉元が何に怯えているかは分からないが…あいつの思い過ごしじゃないのか…?)
片膝を立て、その膝を背もたれのように座らせながら尾形は息子の頬にちょっかいを出す。
餅のようだと言って下から覆うように手をやり、ふにふにと親指と人差し指で両頬を揉む。
その目はまるで愛しい息子に向けるような微笑ましそうだった。
静秋も遊んでいると勘違いしきゃっきゃと喜んでおり、谷垣は尾形から父親の顔を見た。
なぜ水城が尾形を恐れるかは分からない。
黙って産んだと言っていたので堕ろせとでも言われ逃げたのかもしれないが、水城の取り越し苦労ではなかっただろうかと思った。
だが…
「本当に柔らかいな…そして小さい……こんなに小さくて柔らかすぎるとこの手一つで首をへし折れるんじゃないか?」
「…ッ!」
頬に触れていた手をそのまま首へと伸ばし、掴むように首に指を回す。
力を入れておらず触れているだけなのか静秋はキョトンとした顔を谷垣に見せていたが、谷垣は息を飲み顔を強張らせた。
これはすなわち脅しだ。
子供の首をへし折るぞという脅しである。
(自分の子供だぞ!?脅しにしてもやりすぎだっ!)
尾形がこの幼児を自分の子供だと気づいたかは分からない。
だがこんなにも似ているのなら、そして覚えがあるのならそう繋げてもいいはず。
水城から尾形と接触した事があると言っていたのだから尚の事だ。
そんな息子かもしれない…いや、幼児を脅しの道具にする尾形に谷垣は憤りを覚える。
そんな谷垣を気にもとめず、尾形はチラリと谷垣を見つめ、そして―――
「お前が玉井伍長たちを殺したな?谷垣」
そう問いかけた。
尾形はどうやら谷垣が玉井達を殺したと勘違いしているようで、その問いに谷垣はその誤解だけは解きたいのと、静秋を助けたい一心で『ありえません!』と即答で答えた。
だが、その答えに満足しなかったのか尾形の手は静秋の首から離れることはなかった。
それに谷垣はチラリとある方を一瞬視線をやったが、それに目ざとく尾形は気づき谷垣が向けて方へ振り向く。
そこには谷垣が持っていた銃が荷物と共に立てかけてあった。
「今…自分の銃を見たのか?」
そう問うが、谷垣からの返答はない。
だが、無言を肯定とみなし、尾形はもう片手に持っていたそれを谷垣に見せる。
「銃に飛びついてもこれがなくては使えんぞ」
そう言って持っていたそれを見せたのは、ボルトだった。
それも谷垣のボルトだ。
戦うにしても銃を得意とする尾形の場合至近距離での戦闘ならまだどうにか勝てるかもしれないと思った。
だが銃を使えなくされた今、状況は最悪となる。
その中で残された選択は…
「尾形上等兵殿…どうか…この人達だけは…」
――懇願。
残された谷垣の選択肢と言えばそれしかなかった。
人質が三人もいる以上下手には動けず動いたとしても銃を持つ軍人二人で一人で相手はできない。
一瞬脳裏に不死身の杉元が浮かんだが、戦争を生き残ったとはいえあの鬼神のような豪運は流石に持ち合わせていない。
ゴクリと谷垣が喉を鳴らしたその時―――
「めーーーっ!」
甲高い声がこのチセに響き渡った。
その声にチセにいる全員が目を丸くして驚きその声の主、幼児に目線をやる。
尾形も膝の上にいる息子へ視線をやれば息子は頬をパンパンにさせキッと父を睨んでいた。
暴れるように両手両足をばたつかせ『めー!』と何度も叫ぶ。
谷垣は突然叫び出した幼児に怪訝とさせたが、それが叱る時の『めっ』だと言う事に気付く。
恐らく母である水城に叱られる時によく言われるから覚えたのだろう。
「なんだ、一丁前に怒ってるのか」
どうやら尾形が谷垣を苛めているとでも思ったのだろう。
怒られている当の本人はケロッとしており、むしろ面白い物を見る様に息子を見下ろしていた。
最初こそ突然喚き散らす幼児に無関心に見つめていた尾形だが母から継いだ目で睨まれ不機嫌になるのではなくその真逆に機嫌がよくなっていく。
そんな父を気にもとめず静秋は懐いている谷垣をイジメる男達に頬をパンパンに膨らませ駄々を捏ねる様に両手を振り回す。
その頬を尾形は先ほどのように親指と人差し指で両頬を押すように摘まむ。
すると頬に溜まっていた空気が口から出され、空気が抜ける音に尾形はクツクツと笑った。
そんな尾形に二階堂と谷垣はつい二人のやり取りをまじまじと見つめていた。
谷垣はやはり先程のはただの脅しかと思ったが、今も尾形の手が首から離れないのを見て完全にそう思えない部分もあった。
『なんなんだこの人は…』と尾形が余計に分からなくなっていた谷垣だったが、ふと尾形が顔を上げ目と目が合った。
「冗談だ、玉井伍長に関してはカマをかけてみた…お前は嘘が苦手なようだな谷垣…」
そう言って尾形は笑みを浮かべ息子の首から手を離しボルトをクルクルと回す。
その声や表情は明るく、本来なら疑いが晴れた事に安堵するべき場面なのになぜか谷垣は安堵できず緊張した面持ちを崩さなかった。
それに目を細めながら尾形は静秋を片腕で抱き、立ち上がった後谷垣の肩を軽く叩く。
「暫くここで恩を返したいなら好きにしろ…見なかった事にしてやる」
尾形達の目的は谷垣ではない。
不死身と名高い水城を目的として二階堂と組んでいるだ。
怪我をした軍人が水城ではなかった以上、ここに長居しても無駄だろうと判断したのだろう。
軍に知らせなかった事を不問にしてやると言って出て行こうとする尾形に谷垣は内心安堵の息をついたが、二階堂を連れてチセを出て行こうとする尾形は『ああ、そうだ』と思い出したような声を零し…
「不死身の杉元を見たか?」
そう谷垣に問う。
水城の読み通り、尾形は以前接触した場所から近いこのアイヌの村を怪しんだためここに来たらしい。
その問いに本来の目的は自分ではなく水城だと気づいた谷垣は一瞬二瓶を思い浮かべたが…
「いいえ」
首を振った。
谷垣は二瓶の顔が浮かんだが、同時にアシリパと白石と楽しく笑い合う水城や、息子をあやしたり遊び相手になってあげたりする水城の姿を思い出した。
介抱されている間に谷垣の中にある水城への恨みや敵対心は消えてしまった。
アイヌ達が、谷垣を癒したのだ。
尾形は谷垣をジッと見つめ、首を振る谷垣にただ、『そうか』とだけ呟き二階堂を連れて出て行こうとした。
「!――尾形上等兵殿!!」
だが、そんな尾形に谷垣はハッとさせ慌てて引き留める。
引き留められた尾形は立ち止まり振り返る。
「なんだ」
「……その子供を、返していただきたく…」
尾形と二階堂との対立の危機が去った事に谷垣は安堵し見逃しそうになったが、尾形の腕には水城の息子である静秋がいた。
谷垣が気づかなかったらそのまま連れ去られてしまい、最悪水城に顔の原型がないほど殴られていただろう。
気付いた谷垣の言葉に尾形は幼児を見た後、谷垣へ視線を戻す。
その視線は先ほどの柔らかな物とは違い、冷たく鋭かった。
それに息を呑む気配を谷垣から感じ尾形は目を細める。
「すまない、俺に懐いているようだったからな…俺も手放すのが惜しくなった」
「…その子供にも親がいます…子供のご両親が悲しまれます」
水城が恐ろしいのもそうだが、何よりその恐ろしい水城も一人の母親だ。
溺愛していると言っていい息子を父親とはいえ連れ去られてしまえば悲しまないわけがない。
「"ご両親"、か……なあ、谷垣…コレの"父親"は誰だ?」
谷垣は尾形の問いに息を呑んだ。
そして『やはり気づいていたか』と思う。
尾形は母親ではなく、父親が誰かを谷垣に問う。
それは母親が誰かすでに知っているからだろう。
やはり腕に抱いている幼児が自分の血を引く子供だと気づいていた尾形の問いに谷垣は再び緊迫した空気を感じた。
しかし、谷垣は…
「…分かりません…アイヌは他人の子供も自分の子供のように接すると聞いております…この子供も俺が外に出ていた後でこちらの方に預け仕事をしているようなので俺とは面識がありません…」
咄嗟の嘘を言った。
それを信じるか信じないかもう関係ない。
とにかく尾形から静秋を返してもらいたい一心だった。
尾形は再び谷垣を凝視するように見つめていた。
「そうだな…気に入ったとはいえ、このまま連れ出せば俺は誘拐犯となる…コレの"母親"に返そう」
暫く静まり返っていたが尾形がふと笑い、谷垣に静秋を渡した。
谷垣に息子を渡した後尾形は『行くぞ』と二階堂に言いチセを出ていく。
その間一切谷垣と静秋を見ることはなかった。
谷垣はそこでやっと安堵の息を吐く事が出来た。
俯けば腕にいる静秋と目と目が合い、母譲りの綺麗な目に不思議そうに見つめられ谷垣はふと笑って何もないぞと言う。
だがその笑みは引きつっていた。
伸ばしてくる幼児の小さな手を握ってやりながらチセを見渡す。
客人が帰った事でオソマが走り回って遊んでおり、尾形とのやり取りの中で目を覚ました小熊がオソマを追いかける。
追いかけっこを見ていた谷垣は唇を噛む。
(もう…ここにはいられない…)
尾形はこの子供が自分の血を継ぐ子供だというのも、そしてその母親が誰なのかも知っている。
静秋の両親が誰かと聞いた時あえて母親を聞かなかった事、そして静秋を返す際両親ではなく『母親に返そう』と言った事がその証拠だろう。
尾形からの疑いが晴れたわけではないのだ。
まだ、尾形は谷垣を疑っている。
だがなんのために水城がここにいるのを知っていながら見逃したのか…それは分からないが、裏切りの疑いが晴れていない以上ここにいてはいずれ迷惑が掛かると出て行こうと決意した。
幸い杖を使わなければいけないが歩き回れるほど体力も回復しているし、山は慣れたものだ。
「おばあちゃん…俺…もう行かなくては……世話になった恩を返したかったんだが…っ」
「エイペルスイ?(お腹空いたの?)」
静秋をフチに渡しながら手探りで出ていく事をフチに伝えようとした。
だがフチは日本語を理解できず、谷垣もアイヌ語は理解できない。
しかし通じていない事はフチの表情で気づき日本語もアイヌ語も話せるオソマを頼った。
「オソマ!おばあちゃんに伝えてくれッ!今すぐ出ていかなきゃならなくなったって!!オソマ!頼む!!」
走り回っていたオソマを捕まえて伝えてもらおうとするも、オソマは涙目で首をふるばかりだった。
オソマは特に谷垣に懐いており、いなくなるのが寂しいのだろう。
オソマの悲しそうな表情に谷垣も心が揺らいだが、そう言ってられるほどの相手ではないのだ。
「おばあちゃんッ!!」
オソマが伝えたがらないので仕方なく、何とか伝えようとした。
出ていく事もだが、何より水城に伝言も頼みたかった。
尾形が息子に気付いたと。
息子だけではなく水城の存在も気づいていると。
本当は直接伝えてやりたいが、水城がいつ戻ってくるのか分からないし、何よりその間に再び尾形が来てしまったら今度こそ静秋を守れるかも分からない。
だからせめて伝言をしようと思った。
「エホッパ ルウェ?(出ていくのかい?)」
谷垣の切羽詰まった表情や何かを伝えたがっていることから通じなくてもフチは感じ取ったのだろう。
寂しそうに、切なそうにつぶやいたその言葉は谷垣も理解はできない。
だが、なんだか涙が溢れてしまう。
フチやオソマの優しさは、谷垣の心を癒してくれたのだ。
村を守るためとはいえ離れるのは心が引き裂かれそうなほどつらかった。
「シンナキサラ!!」
オソマが後ろから谷垣の耳を引っ張ると、谷垣は顔を上げた。
その瞬間―――銃弾が谷垣の額をかすめた。
「伏せていろオソマ!!絶対に動くな!!」
咄嗟にフチを押し倒し、フチと静秋の上に覆い被る。
側にいたオソマに伏せているよう指示を出しながら、フチと静秋の上から退き伏せたまま己の銃の元へと向かう。
だが、銃のボルトがない事に気付き、谷垣の脳裏にボルトを遊ぶように触れていた尾形の姿が映った。
「持って行ったのはこういうわけか…」
静秋の事で一杯一杯だったからか、ボルトの事は忘れていた。
だが、わざわざボルトを持っていったということは…簡単に引いたということは、自分を遠くから射殺すつもりだったのだろう。
音からして大分遠くから撃ったと推測されるが、普通ならありえないと思うものの、相手が尾形なら納得できる。
それほど尾形の手腕は正確なのだ。
「おばあちゃん!いいから!伏せてくれ!!」
額から流れる大量の血が気になったのか、フチは血を拭った後傷を覆うように頭に巻いていた布を谷垣の額に巻く。
慌ててフチを伏せさせ、頑丈な鍋でフチとオソマの頭を守らせる。
静秋はフチの腕に抱かれており、突然の事に驚いているのか母に似た目をまん丸にし谷垣を見ていた。
それを見て『本当に泣かない子だな』と思う。
「…戦うしかない…だが…あの射撃の達人と銃なしでどうするか…!」
今出ていけば尾形のいい的だ。
もう谷垣は逃げるという選択肢を無くし、尾形と二階堂と戦う選択肢か残されていなかった。
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