ミーンミーン、とセミが煩い季節。
ジリジリと照り付けられるその暑さにまたじわりと汗が頬を伝って落ちる夏の季節。
いつまでたっても門が見えない長い道を歩くのは、真黒な服装に、両目を覆う黒い布を巻く物珍しい姿の男だった。
歩きながら、男は長々と続く石塀を見上げると思わず口端を上げる。
そこにある笑みは嘲笑だった。
しばらくすると門が見え、勝手に中に入る。
自分の実家もそうだが、無駄に名があり金がある家は、門から玄関までの道なりも長い。
もうみんなマンションに住めばいいじゃない、とここに来るたびに思う。
金持ちによくある使用人も、家が広すぎるといるのかいないのか分からない。
客人が来たというのに誰一人来ず、無駄に広い玄関はただただ静かだった。
アポなしだしこの屋敷の人間に出迎えをしてほしいわけではないので、男は勝手に靴を脱ぎ家に上がる。
「ご、五条様!?」
これまた長い廊下を歩いていると、曲がり角から現れた使用人が男…五条に気づく。
五条の姿に使用人は慌てた様子で頭を下げるが、五条は気にも留めず通り過ぎる。
それもいつもの事なので、使用人はこの屋敷の主人に五条が訪れた事を報告しに来た道を戻っていた。
目的の場所は屋敷の奥の奥の奥…更に奥へと続く。
中央を守るように作られているこの屋敷は本当に無駄に広い。
しかし、誰でも中央に行くことはできないようにできている。
中央の部屋に行くためには一つの入り口から入るしか方法はない。
しかも部屋へ向かえば向かうほど隔たれている襖を開けるのに呪力がいるのだ。
それだけではなく、襖は四方用意されており、正しい道を選ばなければ目的の場所には辿り着かず、呪力だけあっても正しい道を選ばなければ迷路と化し、いずれ入口に戻る仕掛けだ。
正しい道の選び方は公表されておらず、この屋敷では主人のみが知っている。
使用人の出入りもあるが、彼女達には彼女達で何か仕掛けがあるようだ。
ただ、五条だけは目的への道を正しく選ぶことが出来る。
それは五条が六眼の持ち主だからだ。
そのため実質、実力でこの部屋にたどり着けるのは五条だけ。
広大な敷地に建てられ贅沢な材料で作られた屋敷内を歩きながら、五条は先ほどと同じ嘲笑を浮かべた。
「あの没落一族がよくもまぁ、一人の女の子の犠牲でここまで立派になれたものだ…」
この屋敷の主は、ほぼ没落したと言っていい一族だった。
だが、ある日人生を一発逆転するような物を拾い、ここまで贅や名声を物にしてきた。
全てはその拾い物のおかげである。
その拾い物は厳重に扱わなければならないため、この扱いは正しい。
だが、この富と名誉は、一族が拾った少女の犠牲から成り立っている。
そう思うと胸糞悪い屋敷と人間達だ。
その少女を救おうとしない自分が言えた口ではないが。
五条は何枚もの襖を開けては通りを繰り返してやっと目的地についた。
この目の前の襖を開ければ、目的地と同時に、目的の人物にたどり着く。
「雛…小雛?」
静かに襖をあけると、広々とした部屋が広がっていた。
日本家屋のため、部屋は畳が敷き詰められた和室。
しかし広さは一人部屋と思えないほど広々としており、なんと20畳もある。
広々とした一室の他に、サニタリールームと寝室などの必要最低限の個室しかなく、広い割には物は大量の動物のぬいぐるみが置かれているだけで、家具は姿見と着物用のタンスとタオルと下着を仕舞うための4段のチェストのみで、家電も髪を乾かすためのドライアーと、五条が小雛のために置いた小さな冷蔵庫しかない。
本棚などもなく、勉強机も、普通のテーブルもなく、テレビさえなかった。
この部屋だけ、現実と切り離されたようだった。
…いや、実際、この部屋は外とは切り離されている。
五条は娯楽がぬいぐるみしかない部屋に入り、部屋の主の名を呼ぶ。
しかし、部屋の主の姿はなかった。
その代わり…
『ワンッ』
中型犬が目の前に現れた。
文字通り、しゅるんと何もないところから現れたその犬は真っ黒な毛並みを持っていた。
それだけならば黒の毛を持つ犬だと思うだろう。
だが、その顔にある目は6つあり、口は耳まで裂け、蛇のように長い舌を口の横からだらりと垂らしていた。
しっぽも4本あり、その4本を五条の姿を見てブンブンと嬉しそうに振り、6本の脚で五条の元へと駆け寄っていく。
その異形な犬を五条は戸惑いもなく抱き上げる。
「君のご主人様はどこかな?」
『ワン!』
「そっかそっか〜」
異形であるが、人語は話せない。
そのため、聞いても答えるものの、鳴き声の意味は流石の最強でもわからなかった。
適当に返しながら五条は部屋の隅に積み上げられているぬいぐるみに向かって歩み寄る。
「悟様」
部屋の主が逃げたとは思わない。
何をしても、小雛と呼んだ少女はこの屋敷から逃げられないのだ。
それを理解しているから五条は隅に積み上げられているぬいぐるみの山の山頂を崩すようにひょいっと持つ。
もう一体のぬいぐるみに手を伸ばした時、主の声が五条の耳に届いた。
まるで小鳥のさえずりのように愛らしい声に、自然と笑みがこぼれた。
声の方へ振り返れば、障子から顔をひょこりと出している少女の姿があった。
少女は五条の姿を見ると障子から姿を現す。
障子から現れた少女はとても愛らしい姿をしていた。
絶世の美少女…とは言わないまでも、丸く大きな黒い瞳、瞳と同じく腰まで伸ばされた漆黒の髪、日に焼けた事がないような白い肌に、化粧をしていないのにほんのりと赤く愛らしい小さく薄い唇。
着ている衣服も和室や見た目に似合った柄の美しい赤色を中心とした和服で身を包んでいた。
まさに愛らしい日本人形のような少女が、五条を見て彼の元へと歩み寄る。
五条の行動を不思議に思ったのか、コテンと小首をかしげると髪飾りがそれに合わせて揺れた。
「何をなさっているのですか?」
「雛が部屋にいなかったからかくれんぼでもしているのかと思ったんだ」
五条はこの部屋のぬいぐるみに自ら触れることはそれほどない。
このぬいぐるみたちは少女…小雛のために用意された物で、幼い頃ならまだお人形遊びを一緒にしていたが、今では小雛もお人形遊びなどする年齢でもなくなったのもある。
ぬいぐるみをそっと戻す五条の返答に小雛は目を瞬かせた後『まあ』とくすくすと笑いがこぼれた。
自分の発言が小雛を笑顔にさせていると思うと、五条の頬が緩んでしまいそうになる。
腕の中にいた異形の犬が小雛に向けて切なそうな声で鳴いたので、五条は小雛に異形の犬を渡した。
小雛は渡され腕に抱いた異形の犬の頭を優しく撫で、異形の犬はその手に甘えるように擦り寄る。
これが異形ではなく普通の子犬ならば微笑ましい光景ではある。
とはいえ五条はその姿でさえ愛らしく写り、我慢していたが、我慢ができず頬がゆるんだ。
しかし、五条的に頬が緩んでしまう事には見逃してほしい。
彼女は五条にとって最も大切な存在…許嫁なのだ。
(婚約者がこんなにも可愛いんだから頬も緩んじゃうってもんだよね)
小雛と五条は将来結婚が決まっている間柄である。
それは小雛がお嬢様だからとかではなく、理由は彼女の中にある。
最初こそ子供を婚約者にされた事に反抗的ではあった五条だったが、今では骨抜きにされている。
年齢差もあり、五条は小雛が何をしても可愛いとしか思えなかった。
そのため、頬が緩むのは避けられないのだ。(断言)
とはいえ、可愛い許嫁にはかっこいいところしか見せたくないのが男心というもの。
ニヤニヤ顔を隠し、五条はニコリと青年の皮を被る。
「それで、雛は何をしていたのかな?」
この部屋には娯楽はない。
あるとしたらこのぬいぐるみ達と遊ぶお人形遊びか、この異形の犬と一緒に遊ぶ事だろう。
この部屋にはテレビもなければ、ラジオ、携帯すらないのだ。
何もないこの部屋で一日過ごすのは苦痛だろう。
本来なら携帯で友達とラインして、好きな芸能人の映るテレビを見て、雑誌でファッションを学んでいるはずの年齢だ。
だが、それをこの屋敷の人間が許していない。
そして、五条も黙認している。
下手に外の世界を知ってしまうと、また幼い頃のようにホームシックになり、きかん坊になってしまうと思うからだ。
それはそれで愛らしいと思うほどの好意はあるが、泣き顔や寂しい顔よりも、笑顔が見たかった。
そんな何もない場所で小雛が何をしていたのか問うと、小雛は異形の犬を降ろし、楽しそうな笑みを浮かべながら五条の手に触れる。
「こちらに」
五条の手を取った小雛はそのまま、五条を引っ張って先ほどいた方へと案内する。
障子の奥へと案内すると、そこは広々とした庭が広がっていた。
しかし、ただの庭ではない。
本来なら小雛と五条が立っている縁側から靴を履けば庭に出れるのだが、それさえ許さない屋敷の主はその庭を水で満たした。
その水はまるで水が存在しないかのように透明度が高く、庭を散歩するように様々な模様の美しい鯉達が泳いでおり、色とりどりの小鳥達が愛らしい声で鳴く。
そこはまるでおとぎ話のように幻想的だった。
小雛は縁側ギリギリに座り、着物の袖を片手で支えながら手を水に向けて手を伸ばす。
主人が手を入れるのを真似しているのか、それとも興味を向けているのか、異形の犬も池の庭に覗き込む。
五条に見せたい気持ちが勝っているのか、水につけようとしている方の袖は気にしても、支えようとしている袖は気にしていなかった。
それに五条はクスリと笑みを浮かべ、小雛の横に移動して後ろから水に濡れそうな袖を支えてやる。
五条の手に気づき、小雛は顔を上げる。
キョトンとしているのが可愛くてつい笑みが深まってしまう。
「濡れちゃうからね、支えてあげる」
「ありがとうございます」
水に伸ばしている手ばかり気にしすぎて、もう片方の袖の方が濡れそうだった事に五条の言葉で気づき、小雛は素直にお礼を言った。
笑顔を向けてくれる素直な小雛に、五条はまた笑みがこぼれる。
五条の笑みに釣られたように、小雛も笑みを深めた後、水に手を入れる。
すると音で気づいた鯉達が集まってきた。
「悟様、見てください…この子、とても綺麗でしょう?」
「ん?本当だ…この間言ってた生まれたって子?」
大人の鯉達に交じって小さい子供の鯉も集まってきた。
鯉達の世話をしているのは小雛なため、小雛が手を入れたら餌を貰えると思い集まってきたのだ。
この鯉達と小鳥達は、外を出る事が許されていない小雛の唯一の友達である。
その友達が増えた。
生き物だから繁殖するのは当たり前だが、他の鯉よりも模様が美しい子が生まれたと五条は聞いていた。
しかし、その時は任務の合間を縫って会いにきていたため、話を聞いただけでまだ見ていなかった。
その話題に上がった鯉を小雛は五条に見せたくてここまで手を引いたのだろう。
興味のない五条からしたら『たかが』の事だ。
だが、小雛がわざわざ連れてきてまで見せたがっているという事が五条には重要だった。
小雛が、自分のために、水に手を入れて鯉を呼んだ。
自分のために行動してくれたのだ。
それに嬉しく思わないわけがない。
話題に上がった鯉の子供がどれなのか、正直五条には鯉に興味がないため分からないが、小雛が嬉しいのなら五条も嬉しいと笑う。
ちゃっかりと後ろから抱きしめるようにくっつきながら水の庭を小雛と楽しんでいた。
「ああ、そういえば…雛にお土産あるんだ」
五条は小雛に対して距離が近い。
幼い頃からそうだったので、小雛もそれに対して疑問を思うこともない。
そして、それは五条を異性として意識していないのと同じだった。
それでも五条は気にしておらず、二人きりしかいないこの広い空間を楽しんでいた。
小雛といると心穏やかになる。
小雛に会いに行った後の任務は、例え激務であろうと、つまらなかろうと頑張れる。
五条は鯉を楽しむ小雛を楽しんでいたが、ふと傍に置いていた手土産を思い出す。
出張関係なく、五条は小雛に会いに行く時は必ず手土産を持って訪れる。
理由は簡単。
小雛が喜ぶからだ。
傍に置いていた手土産を小雛に渡す。
はい、と手渡された紙袋に小雛は嬉しそうに、ぱぁ、と笑みを浮かべた。
「ありがとうございます…今日はなんですか?」
「昨日青森に行ってきてね…リンゴの飲み物とチーズケーキだよ」
「ちぃずけぇき?」
小雛は聞き慣れない単語にコテンと小首をかしげた。
後ろから抱きしめられる形で水の庭を見ていたため、五条を見上げるように見た。
上目遣いで首を傾げられ、その愛らしさに五条の頬は緩みっぱなしである。
小首をかしげてさらりと流れた髪を撫でながら教える。
「チーズっていうのはミルクから作られた食べ物で、そのチーズを使ったお菓子さ」
「ちぃず…雛はいただいた事ありますか?」
「ないよ…あれは日本食じゃ使われないからね」
飛鳥時代にあった『蘇』が日本のチーズだと言われているが、そもそも、日本食にチーズは使われることはあまりない。
現代ではアレンジという名前でチーズが使われたりするかもしれないが、小雛はアレンジなど一切ない伝統の日本食しか食べたことがない。
今では日本でも馴染み深い西洋の食べ物や、リンゴジュースなどの物も五条が持ってくるお土産でしか口にする機会がなかった。
そもそも、リンゴやミカンなどの果物も五条のお土産で単語として知っているが、リンゴがどういう形でどのような果物なのか知らない。
リンゴ自体を食べた事がなかったりもし、小雛の知識は極端に偏っている。
それも仕方のないことだった。
小雛の部屋にはテレビがなく、ラジオもなく、携帯も、雑誌もない。
一族が情報を完全に遮断し、外に興味を持たせないようにしているのだ。
使用人も小雛と会話も接触も禁じられており、当然、外の話題などもってのほかだ。
小雛と会話しようものなら折檻させられる。
しかし、それを唯一許されているのが五条である。
五条だけは小雛に外の物を与えても、話しても、咎められない。
それは五条が御三家の出だからだというのもあるが、何より最強だからだ。
「でももうすぐお昼だし3時のおやつにしようか…リンゴの飲み物は冷やした方が美味しいしね」
昼、と聞き小雛は一瞬だけ目を伏せた。
しかし、すぐに『はい』と言って笑う。
勿論、その微かな変化に五条が見逃すわけがない。
だが気丈にふるまおうとしている小雛に、五条は何も言わず横抱きに抱き上げる。
抱き上げられた小雛は『きゃっ』と驚いた声を漏らしたが、五条のお土産を落としたらいけないと慌てて胸元で抱きしめるように抱える。
自分の渡したお土産を大事に抱える姿に、五条は布の奥で目を細め、部屋の中へと戻る。
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