(4 / 53) 本編 (04)
五条は小雛と食事をしたが、その後彼はすぐに屋敷を出て行った。
彼は任務だけではなく、教師として次代の呪術師を育てている。
本来なら会いに来る暇さえないのに、忙しい合間を縫ってこうして会いに来てくれるだけで小雛は嬉しかった。
小雛には決して踏み出せない一歩を踏み出し、五条は小雛に『じゃあね、また来るよ』と次の約束をし手を振って帰っていく。
その手に小雛も返しながら『お待ちしております』と笑顔で五条を見送った。
笑顔で見送られた五条はご機嫌の様子で襖を閉める。
そうなるともう外の音は聞こえなくなる。
小雛にあてがわれたこの部屋は呪術師によって結界のような物に覆われ外と完全に遮断されている。
屋敷の主の妻が小雛に同情し、小雛が寂しくないようにと庭に鯉と小鳥を放ったため、この部屋は生き物の音はする。
だが、外の音は全て結界によって阻まれており、外とこの場所は別世界となっていた。
例えば、外は雨だとする。
しかし、小雛のいる部屋から見る庭の光景は晴れ晴れとしているのだ。
季節も過ごしやすい春に固定され、小雛は曇りも雨も雪も11年間見ずに育った。
完全に遮断されながらも窒息しないところが疑問に思うところだが、幼い頃からこの世界しか知らない小雛はそれすら疑問に思うことはなかった。
小雛にとってこの小さな箱庭が世界なのだ。
私たちが自分のいるこの世界を疑問に思わないように、小雛もこの小さな世界を疑問に思うことはない。


「悟様…」


襖が占められると、笑顔だった小雛の表情から笑顔が消え、寂しげに変わる。
小雛は胸元に手をやり、ぎゅっと握りしめた。
五条が去るといつも胸が苦しくなる。
これが一人になった寂しさか、五条への恋心故の寂しさかは小雛には分からない。
だけど話し相手が突然いなくなるこの瞬間が小雛は苦手だった。
五条が消えた襖の前に小雛は立ち尽くすように立っていた。
名残惜しそうにそっと襖に手を伸ばすと、その白く小さな手は襖に触れる前に止まる。
小雛だけが唯一の出入り口である襖に触れる事を許されていない。
どんな呪術師が施したかは分からないが、襖と小雛の間に見えない壁のようなものがあり、小雛を拒んでいる。
分かっていたが、小雛は溜め息をつく。
彼女の中に逃げるという言葉はない。
そもそも逃げるという言葉は彼女の中で当の昔に忘れてしまった。
小雛はとぼとぼと肩を落としながら襖から離れ、庭…ではなく、隅に追いやられていたぬいぐるみへと向かう。
そのぬいぐるみの隙間に手を入れると、クマのぬいぐるみの腕を引っ張って取り出す。
このぬいぐるみは小雛が所有しているぬいぐるみの中で一番大きく、等身大のぬいぐるみであった。
等身大のぬいぐるみは小雛の中でもお気に入りの一つで、特別だった。
このぬいぐるみは五条からの誕生日プレゼントの一つなのだ。
しかし、小雛には誕生日がない。
正確に言えばいつなのかが分からない。
生まれたのだから誕生日はあるのだが、幼い子供だった小雛はまだ自分の誕生日を覚えていなかった。
幼すぎて小町の器となった日も覚えておらず、ならばと五条が誕生日を訪ねたその日を誕生日にしようと言ってくれた。
その何回目かの誕生日に五条から大きなぬいぐるみを贈られたのだ。


「…………」


小雛が大きなぬいぐるみの腕を引っ張れば、大きなぬいぐるみを隠すように置かれていたその他のぬいぐるみがポロポロと転がって散っていく。
だがそのぬいぐるみ達を片付けする気にもならず、小雛はそのまま自立しないので大きなぬいぐるみを壁を背に座らせる。
流石五条が選んだだけあり、ぬいぐるみの触感は最高だった。
もふっ、とその魅惑の体に抱き着く。
五条が会いに来て帰っていった後、いつも行われる行動だった。
大きなぬいぐるみに抱き着いていると寂しさが紛らせる気がするのだ。


(悟様…次はいつ会いに来てくださるのでしょうか…)


小雛の世界には五条だけが存在していた。
五条だけで小雛の世界は成り立っており、五条が小雛の全てだった。
小雛は五条しかいない。
本当はこの大きなぬいぐるみが五条であればと思っている。
抱き着くだけではなく、あの人の腕で抱きしめてほしい。
寂しがる自分に『大丈夫、すぐに戻ってくるよ』といつものように頭を撫でて宥めてほしい。
小雛は人恋しくて仕方なかった。
五条よりも会う機会が多いであろう使用人達は仕事を終えるとそそくさと帰ってしまう。
とはいえ、昔は使用人とも話す機会は多かったのだ。
使用人も当初は小雛に同情してあれこれ世話を焼いてくれたし優しくしてくれた。
しかし、仲が良かった使用人達全員が総入れ替えされてから、使用人達との間には壁が作られてしまった。
義務的な会話どころか、目さえも合わせてもらえず、基本使用人は小雛を空気のように扱う。
唯一気配ってくれるこの屋敷の妻とは数回の手紙のやり取りでしか接点はなく、屋敷の妻の名前も顔も声も、小雛は知らない。
だから寂しくて仕方ない。
普段は五条にも笑顔を張り付けて偽っているが、本当は誰でも、一人でもいいからずっと傍にいてほしかった。
こんなに寂しい思いをするくらいなら、人の温もりを覚える前に誰にも会いに来ない冷たく寂しい地下牢などで監禁された方がマシだったろう。
こんな中途半端に温もりを与えているのは、生殺に近い。
だから五条が来た時はすごく嬉しい。
ずっと傍にいてほしいと願う。
だが、それが五条の狙いでもあった。
中途半端に温もりを知っているからこそ縋るのだ。
目の前にその求めている温もりを与えてくれる男がいれば、誰だってその男しか見なくなる。
五条は小雛の身も心も自身に縛り付けようとしていた。
それに小雛は気づかない。
真っ白で何者にも染められていない小雛が、男の執着など気づくはずもない。
小雛は目を瞑る。
目を瞑るといつもと同じように、瞼の裏に五条が写った。


「会いたいです…」


そこで家族を思い出さないのは、小雛の記憶に家族がないからだ。
小雛は家族という単語は知っていても、自分の家族の記憶が一切なかった。
この屋敷の生まれではないのは覚えている。
自分をこんな場所に閉じ込めているこの屋敷の主人も、その妻も、その子供も、小雛とは血が繋がっておらず、親戚関係でも保護したわけでもないただの無関係の赤の他人だというのは覚えている。
だが、肝心の血の繋がった家族の記憶が小雛にはない。
だから、どうしても思い出すのは唯一繋がりを持つ五条だけだった。
先ほどまでは五条もこの部屋にいてくれた。
そのせいか、更に寂しさが増えた。
会いたい。
でも、彼はもう今日は会いには来てくれない。
一日一度以上来てくれた日はなかった。
だけど、会いたい。
正直誰でもいい。
誰でもいいから、喋らなくても、目を合わせなくても、無視しててもいい。
ただ、誰かが傍にいてほしい。
その寂しさに、小雛の視界がぐにゃりと揺らぐ。
小雛は目をぎゅっと瞑り、泣きそうになるのを我慢してぬいぐるみのボディに顔を埋め、抱きしめる力を強くする。
じわりと我慢していた涙が溢れようとした時、


『ワンッ!』


犬の鳴き声に小雛ははっと我に返る。
ぬいぐるみから鳴き声の方へと顔を上げると、そこには異形の犬がいた。
4本のしっぽを振って主人である小雛の傍でちょこんと行儀よくお座りをしていた。


「ごめんなさい…クロ、あなた達がいましたね」


一声鳴いた異形の犬…クロはまるで『僕がいるよ!』と言っているようだった。
それは小雛の勝手な想像だが、クロが小雛に一人ではないことを教えてくれた気がした。
クロと名付けたこの異形の犬は、小雛が作った呪霊である。
特級呪霊である小町ではない。
小雛は呪霊を作ることができる力を持っている。
呪いや人間の感情さえあれば、小雛はその対象に呪力を与えることで、式神のように呪霊を作り出し従わせることが出来る。
クロも小雛が寂しさの余り生まれたが、その力は4級にも満たない蠅頭である。
だが、小雛の作り出す呪霊はただの呪霊ではない。
小雛さえ考えつかなかったそれを考案したのは小町だった。
小町が入れ知恵をし、クロはただの愛玩呪霊ではなくなっている。
小雛が作り出した呪霊達の力は蝿頭レベルだが、その特殊性から、能力に応じて4級から特級に分類される。
クロの場合は恐らく2級、または1級だろう。
呪術師の中には式神や呪霊を従わせる者もいるため、クロの存在は黙認されている。
しかし、五条は最初、祓うつもりだった。
間違いなく小雛の呪霊を作り出す能力は術式だが、それ以外は普通の少女だ。
小町の影響か、修行もなく術式が使えるのは普通とは言い難いが、それ以外は本当に普通の…いや、普通以下の少女なのだ。
そんな少女を許嫁に持ち溺愛している男が、4級以下の呪霊とは言え許嫁の傍に呪霊を置くのを危険だと判断しない者はいない。
それに逢い引きを邪魔されるのも癪に障る。
むしろそちらの方が本音ではあったが…しかし、クロを祓おうとする五条に小雛は初めて縋った。
小雛の初めてのお願いと我が儘が自分に対してではないのは気に入らないが、クロは蠅頭程度しか呪力がないため小町の器である小雛が例え特級でも傷一つつけることは不可能だと判断し、祓うのをやめ、クロを愛玩動物として受け入れた。
それに小雛のお願いを断ってクロを祓ったリクスの方が大きいという計算もあった。(こちらもむしろこれが本音)
今では主人に懐く姿に、当初の警戒心はもう五条にはなかった。
小雛はクロの存在に助けられていた。
クロがいなければきっと寂しさで潰れていただろう。
ぬいぐるみから手を放し、しっぽを振るクロの頭を撫でる。
頭を撫でられクロは嬉しそうに更にしっぽを振った。
それが可愛くて小雛の沈んでいた表情は笑みに変わっていた。


「今日は何をして遊びますか?」


クロはその言葉に『待ってました!』と言わんばかりにぬいぐるみの山に突っ込む。
その際小雛が散らかしたより更にぬいぐるみ達が散ってしまったが、それを咎める人間はこの世にはいない。
例え部屋中にぬいぐるみを散らかしても小雛は怒られはしない。
使用人は小雛を無い者と扱っているし、唯一小雛と対話を許可されている五条も小雛に甘いので散らかしても呆れる素振りすらないだろう。
クロはぬいぐるみに埋もれていたクロ専用のオモチャ箱を、箱に繋がっている紐を咥えて引っ張り出す。
箱に入っているオモチャは普通の犬用のオモチャだが、これらはほとんど五条と屋敷の主人の妻が買い与えたものだ。
その中でクロはお気に入りのボールを咥えて小雛に持ってきた。
このボールはこの屋敷の主人の妻から贈られた物だ。
妻は主人と違い、閉じ込められている小雛に同情し気にかけてくれているらしく、よく五条と使用人を通して贈り物をしてくれる。
妻の贈り物は主に小雛の庭にいる鯉と小鳥だ。
時々クロのオモチャも贈ってくれる。
クロはよほどこのオモチャがお気に入りなのか、これで3代目である。
小雛は妻から送られる手紙に返すことすら許されていないため、五条に二代目三代目と頼んで送ってもらっている。
三代目もそろそろ限界を迎えそうなので、今度五条が訪れたらおねだりをしようと小雛はクロが自分の手の上に落としたボロボロのボールを見ながら頭の端にでも記憶する。


「いきますよ、クロ」

『ワンッ!』


今にも飛び出さんばかりにわくわくしているクロに、小雛はボールを投げた。
20畳もあればボール遊びに支障はない。
それも家具がほぼないのなら庭のようなものだ。
難点なのはクロの爪で畳が傷む事だけだが、この屋敷に小雛と五条に文句を言う人間はいない。
例えそれが屋敷の主であろうと、だ。
クロは主人に投げてもらったボールを咥えて機嫌よく戻ってきた。


「いい子ですね、クロ」


ちゃんと手の平に落とすクロに小雛は頭を撫でて褒める。
投げる前に『クロ、回れです』と言って指をくるんと回す。
それを合図にクロはその場でクルンと一回転した。
『回ったよ!』と鳴くクロに小雛はもう一度頭を撫でて褒める。


「もう一度いきますよ」


もう一度ボールを投げて、クロが持ってきては一芸をさせる。
それを繰り返すのが小雛とクロの遊びだった。

4 / 53
| 目次 | 表紙 |
しおりを挟む