(7 / 53) 本編 (07)
弾かれた真人は、軽々と体制を整えて着地し、己の右手を見る。
右手を見れば、そこにはあるはずの手がなかった。
切断されたようにぱっくりと綺麗な切り口を見せており、血が噴水のように溢れ出ていた。
真人の手が無くなっていた。


「真人!」

「大丈夫」


真人の腕が消え、漏瑚も目を丸くさせた。
しかし当の本人の真人はあっけらかんとしており、無くなった己の右手を見ていた。
右手を探すと床に落ちており、やっと真人は小町の壁に弾かれたのだと認識する。
腕を切られているのにかかわらず、真人は驚く様子もなく笑みを浮かべ、切断された腕の修復をする。


「すごいな…ちゃんと殺意を感じ取っているんだ」


これは小雛の正当防衛だ。
真人は小雛に術式を使おうとした。
それを小町の壁が察知し壁を発動した。
しかし、真人に殺意はなかった。
どうやら小雛の意思関係なく小町の壁は器に攻撃しようとすると発動する仕組みらしい。
便利な術式だが、敵となれば厄介な術式だ。
これで小町にも小雛にも攻撃する手段があれば…それが自分達を追い込めるほどの力があれば最強だったろう。
真人達の幸運は本人に攻撃力がない事だ。


「見たよね、漏瑚…漏瑚の言う通り初手で術式を向けたって俺達の術式は弾かれて終わりだ」

「………」


小町の情報はある程度ある。
宿儺の妹、絶対的な壁の守り、特級ではあるがその強さは4級程度、そして、小町が生きるための食事…
隔離され、存在自体が機密である小雛の情報をどうやって手に入れたかは分からないが、ある程度の情報を得ていた真人は、漏瑚の提案は無駄だと判断した。
漏瑚は目の前で実践させられ、返す言葉もないのか口をへの字にしてむすっとさせた。
真人は不貞腐れる漏瑚をよそに、小雛を見る。
小雛は突然何もされていないのに真人の手が吹き飛んだ事に微かな驚きはあったが、焦る程度ではないのか今では不思議そうにこちらを見ていた。
そんな小雛に真人は『ごめんね』と突然手を吹き飛ばせてしまったことへの謝罪と、攻撃をしようとしたことに対して謝罪する。
その謝罪に見覚えのない小雛は『?』と首を傾げ、その仕草に目を細めながら真人は小雛に近づく。
後ろから漏瑚が『おい』と止めにはいるが、真人は『大丈夫』とだけ返し小雛の傍に近づく。
小雛の壁の原理は理解した。
殺意や器に危害さえ加えようとしなければ小雛はただの少女だ。
小雛の手を見ると、白い肌に手痕が残っているのに気づき、そっとその手痕を労わるように触れる。


「痛い?」

「少し…ですが真人様がご心配されるような痛みはありませんのでご安心ください」


真人は小雛の言葉に、『心配?』と首を傾げた。
その真人の仕草に釣られるように小雛も小首をかしげながら、真人の反応に『?』と頭に浮かべる。


「心配してくださったからお聞きしたのではないのですか?」


そう聞かれ、真人は更に首を傾げた。
真人は痛いと聞いたのは別に意図はなかった。
だが、真人は無意識に小雛を労わっていた。
小雛はどこか欠けている、と真人は思う。
人間として小雛は欠けているのだ。
本来なら人間としての成長や情緒は周囲との関わることで育つものだ。
しかし、小雛の周りには無機物と五条悟しか存在しなかった。
しかも、五条は忙しく一か月二か月、会えない日は珍しくはない。
そのため、こんな欠けた人間が生まれてしまった。
そう作り出したのは、屋敷の主人と五条だろう。
そんな小雛を真人は気に入った。
だが、労わりを見せるほどの気に入りではない。
真人自身はそう思っていた。
よくわからない感情だったので、真人はあいまいに笑って流す。


「やっぱり一緒に来てくれないんだよね」

「はい…雛はこの屋敷から出てはいけないのです…雛に会いに来てくださったというのに申し訳ありません」


話題をすり替えるようにもう一度問うが、答えは同じだった。
小雛の返答に真人は意外にも残念がるでもなく、『そっか』と笑って返した。
小雛はその笑みに分かってもらったと思い、ほっと安堵する。
胸を撫でおろしほっとした笑みを見て、真人は目を細めて笑い、小雛の細く小さな手に触れた。


「断られたし仕方ないから帰るけど…でも帰る前にお願いがあるんだ…雛の力を借りたい…駄目かな?」

「雛の力…ですか?」


真人の言葉に小雛は首を傾げる。
力を借りたいというが、小雛は自分に真人の手助けができるような呪力も術式も、そして力も知恵も持っているとは思っていない。
まだ真人の方がしっかりしているし、強い。
そんな真人の助けなど想像出来なかった。


「雛って小町の器だよね?」

「はい」

「傷を治せるんだよね?」

「はい…軽傷の方なら…」


小町が特級と選分された理由の一つ。
それが治癒の効果を持つ術式である。
小町は壁の他に傷を治せる術式を有していた。
その術式は、反転術式とは別物である。
しかも、小町は軽傷しか治療できない。
真人の問いに小雛は頷いて返す。
頷いた小雛を真人は真剣な目で見つめる。


「助けてほしい人達がいるんだ」


そう言って真人は小雛の答えを聞かず、小雛の手を引っ張った。
事情が全く分からず、助けると言っても何を助けるのかなど、真人は一切語らなかった。


「きゃっ」


しかし、小雛はつい最近まで寝たきりだったのだ。
しかも部屋に閉じ込められており、手を引かれて歩いたことは今までになかった。
真人は見た目は成人しており身長もそれなりにある。
足も長く、まだ少女の小雛との歩幅は完全に異なっている。
そのため小雛は速足でついてきていたが、躓いてしまい転倒してしまった。
ぐいっと後ろに引っ張られた真人は、小雛の小さな悲鳴もあり後ろに振り返る。


「大丈夫?」

「は、はい…すみません…」


後ろに振り返れば小雛がうつぶせで倒れていた。
繋いでいる手をそのままに引っ張って立たせてやれば、小雛は人前で転倒したことに恥じて頬を染めていた。
恥ずかしさを誤魔化そうと笑って見せれば、真人はじっと小雛を見つめる。
顔を見つめる真人に小雛は首を傾げながら『あの?何か顔についていますか?』と問えば真人は『全然』と笑う。
パッと感情を切り替える真人に気づかず小雛は『そうですか』と答えようとした時…真人が小雛を抱き上げた。


「あ、あの…」

「俺のペースで歩いてたら雛はまたこけちゃうだろ?でも雛の歩幅に合わせてたら時間かかっちゃうじゃないか…雛を運んだ方が早い」


小雛の拒否権はないようで、真人はそのまま廊下を進む。
長い間軟禁されていた小雛は軽い。
食事も一日6食取るのは小雛だが、小雛と小町のそれぞれに栄養がいくので6食取っているとは言うが、実質3食である。
それに食べているのも健康にいい日本食だから太ってもいないし、満足に運動もできないので食べる量はそれほど多くはないため体重は平均か、少し軽い程度だ。
そのため真人が抱き上げても羽のように軽く、小柄というのもあって、真人の片腕に座るような形で抱き上げられている。
落ちないように真人の首に腕を回し、身を寄せる。
これはいわば癖のようなものだ。
五条に抱っこをされた時にこうするよう言われていたため、小雛はそれを疑うことなく毎回抱き上げられた時に実行していたため無意識の行動だった。(セクハラと言ってはいけない、絶対に。)
しかし、そんな小雛に真人は一瞬動きを止めた。
普段なら気づかないが真人と密着しているため、小雛でも気づいた。
小雛が真人を見れば、真人も小雛を見ていたようで、目が合う。
バチリと目が合い、真人は小雛にニコッと笑みを向けただけで何も言わず、何事もなかったように歩きだした。
それは一瞬の出来事だったが、小雛にとったら数分のやり取りのように感じた。
拒否権はないようなので、体格差もあり抵抗しても無駄だろうと小雛は諦めた。
チラリと漏瑚が溜め息をつきながら後ろからついてきているのが見えた。
彼とは会話をしたことはないが、いつも溜め息をついている印象がついてしまった。
『お疲れなのでしょうか』とズレたことを思いながら、小雛は部屋以外の風景を真人の腕の中で楽しむことにする。
やけに屋敷が静まり返っており、人の気配すらない事に、小雛は疑問も思わなかった。

―――真人が案内したのは、少し歩いたところにある一室。
襖を開けると、小雛の部屋の半分以下の狭さ、6畳ほどの部屋に10人の人間がおり、彼らはなぜか隅に寄って座っていた。
男女年齢関係なく押し込められており、なぜか小雛を怯えた目で見つめていた。
更にはその部屋にはもう一人…いや、もう一体いた。
部屋を見渡せば人間と距離を置いて一体の呪霊が立っていた。
人間と距離を置いて…というよりは、人間が呪霊から距離を置いていた。
人間達の怯えようは、正確に言えば小雛ではなく真人に向けられていた。
ここに人間を閉じ込めたのは真人だ。
全員真人や漏瑚が見える人間を選んでおり、真人達が何をしたのかもその目で見ていたため、真人と漏瑚の姿に怯えていた。
ひっ、やら、過呼吸に似た呼吸など、自分に怯える反応を真人は興味なく見る。
普段なら遊んでいたが、今真人の興味を引いているのは玩具達ではなく、小雛だ。
部屋を見渡して逃げた玩具がいないのを確認した後、小雛を視線を向ける。


「これ、治せる?」


そう言って真人は人間を指さす。
指を指されたのは真人からすぐそばに座っていた使用人の一人だった。
小雛は真人の指を伝ってその人間を見る。
彼女には見覚えがあった。
いつも人間用の食事を運んでくれる使用人の一人だった。
会話はなくても毎日顔を合わせていると小雛でも流石に自然と覚える。
その使用人を見れば、腕に軽い切り傷があった。
鋭い刃物で軽く切られたような軽傷だったため、小雛は頷く。
治療には対象に触れないと治療ができない。
真人に降ろしてもらい、その女性へと歩み寄る。
小雛が近づくと、女性は『ひぃ』と声を零し後ろに下がろうとする。
だが、来る前に真人に騒ぐと殺す、騒がなくても抵抗すると殺す、と言われていたためそれ以上動けなかった。


「大丈夫です…痛みはありません…」


小町の力で小雛は人の傷を治すことができる。
それは小町から聞いたし、実際使ったことがある術式だ。
だが、小町の器としてすぐにこの部屋に閉じ込められた小雛は五条にしか実践したことはなかった。
五条は最強であるため怪我を負ったわけではなく、傷を治せると知った五条が確認のためわざと自身の腕に軽傷程度の切り傷を作り小雛に治させた。
だが五条以外の人間には実践したことがない。
一応、五条から治療の際に生じる痛みはないと聞いてはいるため、小雛は女性を安心させるように笑みを浮かべてそれを言った。
小雛は真人達に対して警戒心どころか、恐怖心さえない。
その為、怪我人達が傷を治すことに怯えていると思っている。
それを真人は気づいていたが、面白いので黙っておく。
言われた通り、小雛は傷を治すため、怯えている彼女に触れる。
すると、傷があっという間に治され消えていく。


「へぇ…本当に治せるんだ…」


その様子を小雛の後ろから見ていた真人が、傷跡も残っていない女の腕を見て関心したように呟いた。
漏瑚は入り口を塞ぎつつも、興味がないのでどうでもよさそうに立っていた。
女性を完治させたのを見て、真人はその隣の男を指さした。
今度は女性より深いが、軽傷だったのですぐに治せた。
そしてまた真人が別の人を指さして指示をし、小雛はそれ通りに治すのを繰り返していく。
小雛は気づいていないが、少しずつ傷が深くなっていく。
しかし、


「申し訳ありません…この傷は治せません…」


じゃあこれは?、これは治せる?、と傷が深くなっていく順に真人は指さす。
真人がこの部屋に人間を閉じ込めたのは、興味と試したかったからだ。
小雛が…小町が、どれ程度の治療ができるのか…その限度かを試してみたかった。
そして、その限度が訪れた。
意外とすぐだったなと思いながら、真人は申し訳なさそうに眉を下げ謝る小雛に『いいよいいよ』と軽く返す。


(うーん…やっぱり噂は噂かぁ)


残念とは思うものの、そこまでの興味はなかったためかすでにどうでもよくなっていた。
小町の治癒術式は有名だ。
小町の治癒術式は、反転術式では不可能な死人さえも蘇らせることができると言われていた。
だが、どうやらその噂は尾びれがついただけのものだったらしい。
真実は、死人や重傷者どころか、軽傷者しか治せない低レベルの術式だったようだ。


(ま、小町は体質と壁で特級になったみたいなもんだし…こんなもんか)


小町は特級だ。
だが、それほどの実力はないらしい。
ないらしい、というのは、生前の時も呪霊の時も、比較的大人しかったため、兄の宿儺と違って文献にも載っていないからだ。


(よかった…真人様…怒っていません…)


小雛は、真人が怒っていないのを見て胸を撫で下ろす。
しかし、胸を撫で下ろしきれずにいた。
チラリと治療を拒んだ人間を見る。
治療を拒まれた相手は、ガタイのいい男だった。
その男の腹には大きな切り傷があり、その隙間から血と少しの臓物がこぼれ出ていた。
荒い呼吸を繰り返しているので生きているのだろうが、放っておけばいずれ出血で死ぬだろう。
しかし治療すれば死なずにすむ傷だ。


(ごめんなさい…本当は治療して差し上げたいのですが…)


悲しげな瞳で、その男…否、その男に続く負傷者達に心の中で謝る。
待たされた時間が長かったのか、目がうつろになっていた。
男の周りに血溜まりが出来ており、小雛は男や、男よりも重症の人間達を見て胸が痛んだ。
本当なら治療してあげたい。
本来なら治せる力が自分にあるのだ。
だけどそれは五条に止められている。


(雛にも傷を治す力があったのならよかったのですが…)


小雛は五条が意地悪で小町の術式の使用を禁じているわけではない事をきちんと理解している。
小雛も、理由を知っているため、五条が禁じた事に意見も反対もしない。
小町の術式を理解している。
だからこそ、小雛は五条の縛りを受け入れた。
小町の術式は治療を施すことができる。
その術式は、同じく治癒のできる反転術式とは全く異なる術式となっている。
小町は自身の術式を隠すことはなかったため、小町が治癒の術式が使えると知っている者がいる事に驚きはない。
しかし、五条以外の人間達は小町の治癒の術式を誤認している。
治癒が使えないという事ではない。
治癒は使えるのだ。
治癒は使えるが、対価が危険であるがため中傷からの傷の治療ができなくなってしまった。


(人を治すために人を傷つけるなんて…矛盾していますよね…)


小町の事は好きだ。
小町は優しくて姉のように思っている。
だけど、この術式ばかりはどうも好きにはなれなかったし、納得もしていない。
この術式は使用者の立場によって効力が異なる。
善ならば無用の長物、悪ならば反転術式とは比べ物にならないほど別格な術式となる。
反転術式に不可能なことさえ、小町のこの術式ならば可能にするほどの強力であり便利な術式。
それこそ死にかけの重体どころか、死者さえ生き返らせることも可能なのだ。
しかし、当然ながらそんな都合のいい術式などありはしない。
不可能を可能にする代償が必要だったのだ。
その代償とは―――人間の命。
正確にいえば、人間そのものだ。
軽傷までは犠牲もなく治療の術式を使用できる。
しかし、中傷から代償が必要なのだ。
細かな選別をすれば、中傷でも軽傷よりならばギリギリ犠牲なく使用できる。
しかし、先ほどの男性のように治療すれば助かるが放置していれば死ぬ恐れのある程度の負傷からは代償、対価を要求される。
要求されると言っても声が聞こえるなどではない。
自動的に代償を人間からもらうのだ。
例えば、一人の負傷者がいるとする。
代償を必要とする傷の人間を、小町が憐れんで治療の術式を施す。
その場では負傷者の傷は全治するだろう。
だが、それと同時に負傷者と小町以外の人間の誰かがその代わりに対価を払わされることになるのだ。
その人間が身近の人間か、それとも見知らぬ人間か…それは事前に選ばれていない限り、ランダムに選ばれる。
傷への代償を、海の向こうにいる国の人間が払っているかもしれないのだ。
その対価や代償は傷の具合によって異なる。
軽い者は骨折や、目をくり抜かれたり、舌を引っこ抜かれる等。
中傷でも対価の対象によっては死ぬ者もいる。
重症者は言わずもながら…命である。
そして死者蘇生は―――――…
だからこそ、この術式に不可能はない。
だからこそ、小雛は五条との縛りを決して破ることはない。
小雛は心を鬼にしなければならなかった。


「じゃあ、これ…治せる?」


真人はフムフムと小雛を見ていた。
申し訳なさそうに男達を見る小雛の力の限度は理解した。
壁は最強クラスだが、宿儺の妹は案外大したことのない力の持つ主だと認識する。
では、と本題に移る。
また問われ、小雛は真人の指さす方へ振り返る。
そこには身動き一つせずぼうっと立っているだけの呪霊がいた。


「治す…?」


呪霊を治せというが、呪霊に傷は見当たらない。
小町の術式は当然呪霊にも効く。


「これ、人間なんだよ」

「え…人間…ですか…」

「そう…それで人間に戻せる?」


呪霊とばかり思っていたその存在は、どうやら違うらしく、元人間らしい。
元人間を見上げていた小雛は、申し訳なさそうに真人を見る。


「無理です…申し訳ありません…」


そして、小雛は首を振った。
それに真人は『そっかー、やっぱり無理かぁ』と全く残念そうには思えないような声色で零す。
それでも小雛は罪悪感を感じているのか、俯いてしまう。


(ごめんなさい真人様…本当は…無理じゃないです…治せるのです…)


心の中でポロリと漏らし、真人に謝る。
結果だけ言えば、戻すことができるだろう。
何度も言うが、小町の治癒術式に不可能はない。
だが、呪霊のような姿になった人間を戻した際の対価が不透明のため、小雛は目の前の人命よりも被害を優先した。
術者である小町ではないのだから勝手に『治癒ではないのだから犠牲はないだろう』と考えるのは軽率だろう。
聞こうにも、彼女は今、栄養が与えられず飢餓状態になり深い眠りについている。
人命よりも被害を優先してしまう事に、小雛は酷く罪悪感を感じていた。
そんな小雛など気づかず、真人は漏瑚に『じょーごー、無理だってー』と報告するが、それはただ戯れの一つである。
小雛は彼らのやり取りを聞きながら元人間の前に移動し、元人間を見上げる。
背は高いわけではないが、10代の小雛よりも背丈はあった。
大人しい分類になるのか、それとも動かない理由があるのか…小雛が前に立って見上げても無反応を貫いていた。
しかし、ふと遅い動きではあったが元人間が小雛を見下ろすように顔を俯かせた。
元人間は大きくまん丸とした光のない目、鼻はなく、口は異様に大きく、唇は紅を指しているように真っ赤だった。
体はこの形になった時に脱げたのか、元人間という割には服装は身に着けておらず、髪もなくなっている。
異様に長い手を持て余すようにダランと床に落としており、胴は長く、短足だった。
姿形は人間だったとは思えないほど変異しているのに、顔はどこか人間らしさが小雛には見えた。
元々顔に傷跡がある人間だったのか…目の前の異形の顔に傷跡が消えず残っている。
異形はジッと穴のような真っ黒な目で小雛を見つめ、小雛もなぜかその目から目を離すことができず、二人は見つめあう形になる。
相手が何も話さないため(話せないのかもしれないが)、小雛もつい口を閉じてしまう。
静かに見つめあい、沈黙が守られていたが、その沈黙を異形が破った。
異形が長い手を浮かせ小雛に向けて差し出し、小雛を上から覗き込むように前に体を傾けた。
小雛は勿論、危機感がないため動いたことに驚きはしたが黙って異形の行動を見守っていた。
異形が動いたことに声を漏らした人間の声が真人と漏瑚の耳に届き、小雛と異形のやり取りに気づく。
漏瑚は少し興味があるのかどうでもよさそうな表情をしつつもその場に動かず小雛と異形のやり取りを黙って見つめ、真人は異形が小雛に危害を加えても対処できるように警戒しそばに近寄る。
そんな周囲の空気に小雛は全く気付かず、異形を見つめていた。
異形は器用に腕同様異様に長い指で小雛を傷つけないように気を付けながら小雛の頬に触れる。
すり、と人間でいうところの親指の腹で小雛の頬を優しく撫でた。
その仕草に慈愛が感じられた。


「ごぉぉ…めんんんなぁぁぁ…さぁぁぁぁいぃぃぃ……」


ぽた、と小雛の頬に透明の雫がこぼれ落ち、頬を伝うように落ちていった。
その雫の跡がまるで小雛が泣いていたように見えた。
小雛は異形の言葉に目を丸くした。
もしかしたら異形の言葉は意味がないのかもしれない。
だけど、小雛は不愉快な声色に対しても、異形の言葉に対しても、違和感なく受け入れた。


(謝るのは…雛の方です……ごめんなさい…助けられるのに…人間に戻せる力があるのに…他の人の命を選んでごめんなさい…)


小雛の中にある罪悪感が更に深まる。
小雛には目の前の異形どころか、この部屋にいる怪我人全員を治療できる力を持っている。
だけど小雛は助けられる命よりも、治療の際の犠牲を優先させた。
小雛にとって苦渋の選択ではあるが、どちらも大切な命だ。
小町の術式に不可能はない。
だが、使用する度に対価である人の命が消えていく。
小雛は生まれて初めてジレンマを経験する。


「真人様」


だけど、小雛は見捨てることはできなかった。
元々人間ならば、この姿は窮屈だろうに。
感情がどこまであるかは分からない。
どうやって人間だった存在が異形と変わるのかも分からない。
だが、元に戻せないが終わらせることはできる。
小雛は振り返る。
思ったよりも真人が近くにいることに内心驚きはしたが、『なに?』と真人から返事が返ってきたため驚きは内の中へとしまい込む。


「この方を元の姿に戻しても構いませんか?」


小雛の言葉に真人は首を傾げ、怪訝な表情へと変える。


「元の姿に戻す?…でも戻せないって言ってなかったっけ?」


疑問に思った言葉を、そのまま小雛に向けた。
小雛は確かに『無理』だと言った。
しかし小雛は真人の問いに首を振る。


「はい…ですがそれは"生きたまま"戻せないという意味です…今言ったのは戻せるけれどこの方は生きてはいない…死んでしまう、という意味です…」


小雛と真人は食い違っていた。
小雛は善も悪もまだ区別ができない人間故に、『生きて』人間に戻せと言われていると思っていた。
しかし、真人は『生きて』いても『死んで』いても、どちらでもいいと思っていた。
これは食い違い…というよりはお互いに言葉が足りなかったと言った方が正しい。
それを真人は気づき『なるほど』と一人で納得し、戻せると言う小町の術式の方が興味を惹かれたのか、あえて指摘する事もなく頷いた。
頷いた真人に小雛は胸を撫でおろし、異形と向き合う。
異形は真人と話をしていた間も小雛を虚無の目で見つめていた。
普通ならばその虚無しかない目に恐れてしまうが、小雛は何故かその虚無の瞳に慈愛が見えた。
虚無の瞳に見えるその慈愛に、小雛は心がポカポカと温かくなる気がした。
屈んでいる異形に向けて手を差し出し、その頬に小さな手で触れる。


「生きたまま戻せなくてごめんなさい…ですが、何も怖がることはありません…死こそ救いなのです……今までよく頑張りましたね…」


そう労わるように頬を撫でる。
すると異形の体が少しずつ逆再生のように人の形へと戻っていく。
その姿に使用人達からは微かにどよめきが聞こえた。
異形は元の姿の女性に戻り、小雛の足元にうつ伏せになって倒れていた。


「今までお疲れ様でした…おやすみなさい、よい夢を…」


倒れている異形だった人間の傍にしゃがみ、動かない人間の頭を優しく撫でる。
やっぱり生きてはいなかった。
死んだその人間を小雛は見る。
怪我を負っている使用人達に比べて着ている着物は上質なものだった。
しかし着物が上質なものに対して、その顔には傷が残っていた。
やはり異形の姿の時に残っていた傷は、人間の時についた傷跡だったらしい。
小雛はその女性とは面識はないが、深い関わりを持っていた。
この女性は屋敷の主人と同等の立ち位置…この人間は屋敷の主人の妻だった。
小雛に同情し、小雛を気遣っていた女は、小雛の手で人間に戻され息絶えた。
小雛は妻だった人間を撫でながら、『あ、まずい』と思う。


「すごいなぁ…流石小町の器なだけあるね…まさか改造人間を戻せるなんて」


そう言って真人は拍手を小雛に送る。
真人の拍手を聞きながら小雛は彼に振り返る。
『真人様』と弱弱しく呼べば、真人は『ん?』と小雛の様子に気づかないように笑みを浮かべながら小首を傾げた。
そんな彼をよそに小雛は立ち上がりながら…


「もう、しわけ…あり、ませ、ん……もう、げんかい、です…」


そう途切れ途切れに言葉を繋げ―――気を失った。
ふらりと倒れる小雛を真人が受け止める。
腕の中にいる小雛は目を瞑り意識はなかった。
眠っている状態の小雛を真人は軽々と横抱きにして抱き上げる。


「漏瑚、かえろっか」


完全に真人に空気扱いされていた漏瑚は『やれやれ』とやっと帰れると溜息をつく。
この屋敷に来てからずっと溜め息をついている気がするが、やっと真人の気が済んで帰れるので余計な一言は言わないでおく。
それに、漏瑚はまだ仕事が残っている。
真人が小雛を連れて屋敷の門をくぐったその瞬間―――…

―――屋敷は炎に包まれた。


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