可愛そうな子
お腹が空いているのね
いいのよ
お食べ
妾をお食べ
でも、その代わり――――…
ざざ、と聞いたことのない音がして、小雛はふと目が覚めた。
(懐かしい夢を見ました…)
頭が働かず、ぼうっと寝ぼけたように呆けていた。
呆けた頭で先ほどまで見ていた夢の事を考える。
懐かしい夢だった。
小町と出会った時の夢。
あの胸糞が悪くなる夢を見て、小雛は少しモヤモヤとした感情が残る。
「お目覚めになられたのですね」
小町に会わなければ死んでいたのだから小町には感謝しているが、それを差し引いても思い出したくない記憶である。
気分が晴れず、体調もそれほど良くないのもあって小雛の頭は中々回らない。
ぼうっと目の前にある光景を何も考えずただ見つめているだけだった。
すると横から声を掛けられ小雛はその声の方へと視線をやる。
そこには白い髪を持った着物の美少女が立っていた。
小雛と目が合うと少女は嬉しそうにニコリと笑う。
「おはようございます、小町様」
「おはようございます…」
話しかけられ小雛は反射的に返したが、そのおかげかやっと頭がはっきりとした。
意識がはっきりとし、小雛は体を起こし辺りを見渡す。
「わぁ…!」
混乱すべき場面ではあるのだが、あの部屋の光景しか知らない小雛にとって、目の前の光景はほかの何よりも気になるものだった。
見たことのない風景を目の前に、小雛は体の不調など忘れたように目を丸くし感激したような声を零す。
小雛の目の前には、大きな池があった。
自分の庭よりもはるかに大きな池。
どこまでも続く大きな池。
誰かが揺らしているのか、こちらに向かって白い泡を押すように一本線の波紋のようなものが押し寄せてきている。
ここまでは来ないようで、消えては次が押し寄せ、また消えては押し寄せるのを永遠と繰り返していた。
目の前にあるものは池ではなく、海だった。
小雛は今まで海を見たことがないため、海を池としか表現できなかった。
小雛はここがどこなのか、傍に会ったことがない人がいるという疑問など吹き飛び、白いビーチチェアから降りる。
「―――っ」
しかし、ガクッと膝が折れ、小雛は砂の上に転んでしまう。
碌に小町の食事を取れていなかった小雛の体は、まだ本調子ではなかった。
目の前の光景に感激していても、体はすでに限界を超えていたのだろう。
転ぶ小雛に傍にいた少女が駆け寄ってきてくれた。
「小町様っ!大丈夫ですか!?」
「は、はい…すみません…」
真人に続き、また転んだところを見られてしまった。
力が入らない体を起こすのを少女に手伝ってもらいながら小雛は恥ずかしそうに俯く。
俯いて見えたのは、砂。
太陽によって温かいその砂を小雛は掬う。
小雛の手に収まり切れなかった砂がサラサラと零れ落ちる。
サラサラと落ちるのを見て小雛は一度砂を捨てるように砂を落とす。
手のひらを見ると、砂がくっついていた。
手を握ってみるとザラザラとした感触に小雛は興味深そうに見つめる。
もう一度砂を掬おうとしたその時、突然浮遊感に襲われる。
「きゃっ!」
後ろから腰に腕を回されガバリと持ち上げられる。
小雛が驚いている合間に体制を変えられ、小雛は腕の上に乗る形で抱き上げられた。
その際掬いかけていた砂が派手に散っていく。
「ま、真人様!?」
小雛は目の前にいる男の顔に目を丸くする。
小雛を抱き上げたのは屋敷で出会った真人だった。
真人は小雛が目を覚ましたことに嬉しそうに『そう、俺だよ』と笑う。
「やっと起きたんだね、おはよう、雛」
「お、おはようございます…あの、なぜ真人様が…それにここは…」
声をかけられたから、それに小雛は返す。
真人は先ほど出掛けていたらしく、帰ってみれば眠っていたはずの小雛が起きているのを見て駆け寄ってきたらしい。
「ここは陀艮の領域だよ」
「陀艮様?、の…領域?」
小雛は聞きなれない言葉に首を傾げる。
そんな小雛に真人も首を傾げた。
お互いキョトンとしており、真人は『あー』と声を零した後、小雛に問いかけた。
「もしかして知らない?領域とか、呪術師とか…呪霊とか…」
「はい」
「あー…そうくるかぁ…」
「?」
真人は小雛の返答に困ったように笑う。
小雛は困ったように笑う真人に、何かおかしな事を言ったのだろうかと首を傾げる。
小雛は呪術師の事も呪霊が何なのかの事も知らない。
小雛は小町の器となった時点で呪術師とは切っても切れない関係を結ばされた。
その為、本来なら小町がどんな存在か、どういう扱いなのか、自分がいる世界は何なのかくらいは知らなければならない。
それを五条を含んだ周りは小雛に教えることはなかった。
勿論、五条が教えるわけがなく、小町もあえて言わなかった。
小雛が首を傾げ、その仕草が嘘ではないことを証明しており、真人はどうしたものかと迷う。
「どうしよっか」
考えても思いつかないため、後ろに振り返って放り投げた。
小雛は新たな人物の名に、真人の視線を伝う。
そこには袈裟を着た男性がいた。
男は額に横一本千の縫い目があり、袈裟を身にまとっていた。
男は面倒なことを放り投げられたと肩をすくめてみせ、こちらに歩み寄る。
「まあ器だからと知っておかなければならないことでもないしね…彼女が知りたいと言うのであれば教えてやればいいさ…それよりも食事をさせた方がいい…ここ最近は人間の肉を満足に食べれていなかったからね」
無知ならば、無知のままでも男側にとって別段どうということではないし、どちらかと言えば無知の方が扱いやすい。
わざわざ教えてやる義理もなければ、教えてほしいと言ってきたときに教えればいい。
男達は小雛が欲しくて攫ったわけではないのだ。
どちらかと言えば、小雛はオマケ程度でしか考えていない。
男達は小雛ではなく、小町に用があったため攫った。
その用事だって小町がどうしても欲しいというわけではなく、小町もオマケ程度の扱いだ。
真人はなぜか小町ではなく器を気に入っているようなので、用が無くなった後も真人の遊び相手として置いておくのもいいだろう。
どうせここは陀艮の領域だ。
まず領域を抜け出す事はほぼ不可能とされている。
回避や抜け出す方法だってあるにはあるが、それは限られた術者や呪霊のみ。
本来なら領域に入り込んだ時点でその勝負は負けと言っても過言ではない。
小町は腐っても特級呪物。
あの宿儺の妹という点から警戒して損はない。
だが、今の小町は断食を強いられているため、それほど警戒すべき存在ではない。
故に、今の小町を恐れるに足りない存在と言ってもいいだろう。
「小雛も小町もお腹空いただろう?先ほど買ってきたから食べるといい」
袈裟の男…夏油は真人の腕に抱かれている小雛の頬に触れる。
真人や得た情報通り、こちらから危害を加えたり殺意を込めなければ壁に弾かれないようだ。
小雛の肌は質のいい食事を与えられていたためか、軟禁されながらもキメ細かい綺麗な肌をしていた。
しかし、人間の肉を満足に取っていなかったせいか、顔色が悪い。
先ほども立てなかったのは、小町が体調を崩した影響だろう。
資料には書かれていなかったが、どうやら小町と小雛は繋がっているらしい事が分かった。
夏油の言葉に小雛は眉を下げて見つめる。
「ご迷惑ではありませんか?外まで案内していただければ雛だけでも帰れるので大丈夫ですよ?」
真人達が屋敷の人間全てを殺したことも、帰る場所を小雛から奪ったことも、小雛は何も知らない。
怪しく、人間ではない真人達を見ても、幼いころから閉じ込められてきた小雛は怪しむどころか親切な人としか思っていない。
小雛の言葉に夏油は一瞬片眉を上げた。
しかしすぐに表情を戻し、笑みを小雛に向ける。
「迷惑ではないよ…それに君の帰る家は無くなってしまってね」
「まあ…では悟様にご連絡を…」
「いや、それには及ばない…私達は彼に頼まれて君を預かっていてね…彼も忙しい身だからしばらくは会いに来れないと言っていた…これから君は私達と暮らすことになったんだ」
夏油の言葉を小雛は『そうだったのですか』で片づけた。
信じたフリをしていると思ったが、小雛の様子から本当に信じたようだった。
『これからずっと一緒だね』と真人の言葉に『はい、よろしくお願いします』と返し、彼達が顔を見合わせ笑い合っているのを見て夏油も薄ら笑いを浮かべた。
(初めて会った人間の言葉を疑いもなく信じる…彼女はどこか欠けているところがある…いや、幼いだけか)
事前に夏油は小雛の事を調べていた。
流石小町の器なだけあって、機密扱いの情報を集めるには骨が折れたが、どうにか集めることができた。
その中で小雛の年齢は14歳と書かれており、器となったのが3歳の頃。
話していてどこか人間として欠けていると思ったが、小雛は資料の内容とすり合わせると欠けているのではなくただ単に幼いだけなのだ。
本来なら他人と接することで育つ人間性や情緒を、小雛は大人たちに奪われてしまったのだ。
だから欠けたまま育ってしまった。
夏油は脳裏に五条の姿を思い浮かべ、自然と口角が上がった。
(結局のところ…お前もただの人間という事だな…)
小雛の許嫁として報告に上がった男は、最強を誇り、生まれ外見実力共に他の人間とは一線を引いている。
だが蓋を開けてみればただの人間であったのだ。
小町の器である小雛の全ては、あの屋敷の主人ではなく五条が握っているため、空っぽにしたまま育てたのは五条だ。
余程この子供に熱を上げているのが分かる。
(そんな子供が私達の毒牙にかかったと知った時…あの男がどれだけ揺らぐか…見物だな)
真人から小雛はこちら側につく気はないと聞いた。
中身は無知な子供、見た目はいかにも大和撫子と言えど、自分の意志はきちんと持っているようだった。
しかし、これほどまでに真っ白な子供ならば利用価値は十分にある。
五条が熱を上げている女というだけでも人質には十分だが、何よりも小雛は小町の器として存在しているだけでそれ以上の価値がある子供だ。
真っ白で空だというならば、その空っぽの器に自分達が詰め込んでやればいい。
これだけ白いと汚すのが戸惑われるが、だからこそ、汚す楽しさもある。
一気に汚すのでは楽しみがなくなってしまう。
まずはじわじわと汚そうと算段をしていた夏油は、持っていた袋を持ち上げて小雛に見せた。
「まずは小雛の食べ物から食べようか…それとも真人が持ってきてくれた小町の食事からにするかい?」
夏油の手にあるのは、コンビニの袋だった。
その中にはおにぎりやお茶などの小雛が食べる物が入っており、真人も外で人間を狩ってきたらしい。
真人の手には赤い血がたっぷりと入れられているペットボトルが握られている。
「こちらの都合で預かってくださっているのにお食事まで用意していただけるなんて…」
『わざわざありがとうございます』と頭を下げる小雛に、ますます夏油は笑いが止まらなかった。
顔には出さないが、夏油はクツクツとした笑みを小雛に向けている。
どこまでも真っ白で人を疑わない子だと、どこまでも染め甲斐のある子供だと思った。
『ああ、早くこの体で小雛と共にあの男と再会したい』と、あの男の驚く顔が今から楽しみで仕方なかった。
勿論、その時は小雛も隣に連れて早くあの男の前に立ちたい。
さぞ怒り狂うだろうなぁ、と内心ニタリと笑う。
「小雛の食事の方は時間が経っても食べれる物ばかりだし、小町の方は新鮮の方が美味しいだろう…人間からにしようか」
そう言って真人に小雛をビーチチェアに戻すよう言った。
真人はその言葉に従い、小雛をビーチチェアに戻す。
すると小雛の傍に少女が駆け寄り、ビーチチェアに戻された小雛を心配そうに声をかける。
「小町様…大丈夫でしたか?」
「はい、大丈夫です…これ…えっと…これ…うんと……サ、サラサラしていたので怪我はありませんでした」
転倒した事を心配してくれたと思った小雛は、少女に笑って安心させる。
しかし、砂が知識としてない小雛はなんて言ったらいいのか困った。
とりあえずサラサラしていたので、そう言えば、少女は『それはようございました』と返す。
少女はそんな事を聞いているのではない。
真人に乱暴されてはいないかと問いたかったのだ。
それを無知な小雛はそれを察しできず、だが、それを指摘すれば失礼だと少女は小雛に合わせた。
だが、小雛ではなく真人が少女が何を言いたいのかを察し、むっと眉を顰めて少女を睨む。
その場はのんびりとした空気だったのが、一瞬にして険悪な空気に変わる。
「俺が雛に怪我させるわけないだろ」
「小町様は繊細でか弱いお方です…怪我をさせるつもりがなくても呪霊が触れれば簡単に傷を負ってしまわれます…ましてや小町様の器はただの人間ですよ…」
声は柔らかいが、言葉には少し棘があった。
『軽々しく触るな』と言っている事は真人にも分かり、更にその場の空気が悪化した。
夏油は溜息をつきながら、面倒なので放置を選ぶ。
「はい、召し上がれ」
そう言って渡したのはコップ一杯の真っ赤な血だった。
人間、と言っていたので、肉や内臓などが用意されていると思っていた小雛は夏油を見上げ首を傾げる。
「血、ですか?」
「すまないね…今は血で我慢してくれないかな?肉はまだ調達できていないようでね…そう時間はかからないとは思うんだけど…君もお腹が減っているだろう?」
夏油は…夏油の"中身"は小町を知っている。
夏油は、夏油であるが、その実、夏油ではない。
夏油という男の死体を乗っ取った偽物だ。
偽の夏油は事前に小町の情報を集めていた。
知っていると言ってもそれほど親しいわけではなかったし、何より今と千年前とは状況が違いすぎている。
確認も合わせて情報を集めていた。
だから小町の食事が何なのかを知っていた。
だからこそ、夏油は人間を使って小町を閉じ込めている屋敷に入り込み小雛を徐々に弱らせていった。
そして真人と漏瑚に五条がいない隙を狙いあの屋敷を襲撃し、わざと当主の男を逃がし小雛の所まで案内させ小雛を攫った。
そのために何か月…半年も前から準備してきたのだ。
夏油の偽物でもそこまでしなければ小雛をあの部屋から連れ出すことができなかったという事だ。
小雛は夏油の嘘さえ信じ、『いえ、用意していただいただけでも十分すぎます』と言って眩しく笑う。
(ああ…本当に…染め甲斐のある子だ…)
『それはよかった』と返しながら夏油はそう思いながら内心歪んだ笑みを小雛に向けていた。
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